715.ルビー  Ruby (マダガスカル産)

 

 

コランダム −マダガスカル、Amborohy, Ihosy, Fianarantsoa産
プリニウス(AD22/23-79) は紅玉について述べ、
「最高のものは『紫水晶色の石』、
すなわち火のような赤が移っていって
端では紫水晶の紫に終わっているものである」
と書いている。こんな感じだろうか?

 

 

歴史や文化というのは文字や絵に書いて記録されればこそ古い時代のことも分かるが、そうでなければ1世紀前のことさえ雲をつかむようである。実際、当時の様子を自分の眼で見、肌で感じた人はほとんど現存しないわけで、まして数世紀前となればどこまで信憑性があるやら疑わざるをえない伝説の世界に紛れる。

モゴックのルビー鉱山がいつ頃始まったか、確かなことは分からない。石器時代にはすでにこの地域に人が住んでいたとみられ、ある人はおそらくルビーも見つかっていただろうという。だが証拠は何もないのである。
地域を治めた王あるいは民族が分かるのは 6-8世紀頃からで、この時期、鉱山に近い町(モメイク?)をシャン族が支配していた。しかしルビーの産出を伝説的にせよ語りうるのはパガン王朝(849–1298)が成立して以降である。まずは大龍の卵からルビーと共に生まれたパガンの王の伝説(cf.No.713 補記7)、それから中国の伝説がある。13世紀、元のフビライは指の(第一関節の)大きさほどのルビーをある街と引き替えに手に入れたが、これはモゴック産だったという和氏の璧の類話と思われる。ちなみに同じ時代、マルコポーロ(1254-1324)はフビライの使者としてセイロン島に渡り、大きさ20センチもある王家の「大ルビー」を買い付けた次第を記している)。また中国には宮殿の一室を隈なく照らす宝玉が蔵され、その輝きは夜の灯りが不要なほどだったと白髪三千丈の話があって、これもルビー(またはダイヤモンド)だとされている。

しかしもう少し信憑性のある記録によってモゴックのルビーが取引きされたことが分かるのは、ペグー(ハンターワディ)王朝(1287–1539)やアヴァ王朝(1364–1555)が栄えていた 15世紀末以降のことである。当時ペグーを訪れたジェノヴァの商人ステファーノはそこから15日行程にある土地アヴァから採れる宝石について語り、バルボーサはアヴァとカペラン(キャッピイン Kyatpyin ?)との間でルビーが交易されることを述べている。ルビーはカペランから(カペラン産として)ペグーへもたらされ、港から年に一度の交易風に乗ってインドへ渡った。そして西洋商人たちの手にも渡った(補記)。ちなみに最初にモゴックのルビーを発見したのは、峡谷を隠れ家としていた野盗の一団であったともいう。

1597年には時のビルマの王(タウングー王朝(1510–1752))がモメイクの君主にモゴックの鉱山と付近の町を別の土地と交換させた記録が残っており、以降はビルマ王の下でルビーが採掘された。王はハトの卵ほどの大きさのルビーを所有し、王冠に飾っていたという。
ルビーは王の専売交易品となり市販が禁じられたから、インドや西洋では入手がきわめて困難になった。鉱山への他国人の侵入は厳しく禁じられ、また隠れてルビーを持ち出す者は残酷な刑に処せられた。1780年頃までルビーの採掘は王の直轄で奴隷を使役して行われていたが、しばらくして従量制の税を対価に地元の監督官らの運営にまかせるようになった。ただしある大きさ(5カラット?)以上のルビーは無条件で王のものとされた。大きなルビーが見つかったと知らせが届くと盛大な行列を従えた使者が鉱山に向かい、ルビーを引き取って恭しく王に奉じるのであった(大粒の石は現地監督官の手でわざと割られてインドに渡ったともいう)。その時期に多くの鉱夫は逃亡して、鉱山はさびれた。
生産が(税収が)あまりに低迷したため、1870年、当時の王は鉱区採掘権をリースに出し、インドほかの資本が入ったが、契約は1882年に終了した。1886年以降はイギリスがビルマを、そして鉱山を統治下においた。
こうして漸くモゴックのルビーは、イギリスをはじめ広く欧米で名を轟かすこととなるのだった。

補記:半年ごとに巡る季節風が交易を左右していた。9月に東海岸のコロマンデルを出た船はベンガル湾を渡ってビルマに入り、翌年2、3月に現地を発って4月に元の港に戻ってきた。モゴック産のルビーは地元で Kathe (カテー)、Kyatpyen (キャッピェン)と呼ばれたが、ルビーを産した村の名がもとになっている。

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