764.中性長石 Andesine (日本産)

 

 

うずら石 中性長石

中性長石 (通称 うずら石) 
-東京都小笠原村硫黄島(中硫黄島)産

 

硫黄島(いおうとう)は本土の東京都から南へおよそ1,200kmに位置する火山列島の一。深海底から隆起して海面を抜く活火山の天縁部にあたり、地熱が高い。島の至るところに噴気が上がって硫黄ガスの臭いが立ち込めている。
明治22年(1889年)、サメ漁と硫黄採集を目的に開拓を始めたのが記録上の日本人入植の緒といい、2年後に日本領土に編入されて硫黄島となった。二次大戦前には千人ほどの島民が生活したが、1944年、戦局が厳しくなって徴用者以外の全島民が島を離れた。翌年、米軍の強襲上陸をうけて激戦が戦われた。
1968年に小笠原諸島と共に返還された後は、島内全域が自衛隊の基地となっている。

南端の擂鉢山東麓から南東に伸びる海岸線は火山爆発で噴出した火山弾や火山礫が堆積する黒色の砂浜で、画像のような中性長石曹長石と灰長石との間の中間的な成分の斜長石。分類上は曹長石)がたくさん見られる。長石は複雑な双晶をしており、窪み部分に黒い溶岩質が付着している。噴出時は表面全体が溶岩に覆われて相互にくっついていたかもしれないが、歳月と波とに洗われてバラバラに砕け、双晶同士で磨かれたものか、結晶の縁が白い顔を覗かせている。1、2センチサイズの丸っこい石で、うずらの背に似た黒白模様があるため、うずら石(鶉石)と呼んで島民に親しまれた。うずらの羽色に似た木目を鶉目(うずらめ・うずらもく)と呼ぶのに同じだろう。
もちろん本土の鉱物屋(いしや)にも古くから親しまれた。いったい火山島の石や砂は島から持ち出さないが吉というのが世界の常識だが、また実際、硫黄島から帰る自衛隊員は砂粒一つ持ち出さないよう申し送られ、靴底まであらためるそうなのだが、しかしうずら石は持ち出しても大丈夫、と都合のよいことが言われている。うずら石が本土の標本店に引き取り手を待つ所以であろう(米軍人も大分持ち帰った)。
もっとも鉱物学者とか鉱物愛好家と呼ばれる人種は、あまりそんなことを気にしないので却って無事であるのかもしれない。

日本のうずらは夏季には本州中部以北で繁殖し、冬季になると関西以西に渡って越冬する渡り鳥であった。歴史的に「草深い、古びた、さびしい所で鳴く」とされ(実際、草はらの中に巣を作って棲む)、歌に詠まれて秋の風情や古趣を添えた。「鶉鳴く」は「古りにし里」に掛かる枕詞である。秋の鳥とされたのは奈良・京都あたりでのことか(補記2)
実った粟の穂や菊花など秋の植物と組み合わせた意匠の絵や工芸品が多くあるが、これには中国文化の影響もあったと思われる。

和名のうずらの語源ははっきりしないが、「中国名の鶉は慎みぶかい鳥という意味で、貞節のシンボルとされたことに由来する」、と荒俣大博物図鑑は述べている。
Fang Jing Pei の "Symbols and Rebuses in Chinese Art"(2004) は、うずら鹌鶉の意匠には相反する含意があると述べている。一つは安居、平安(略名、鹌 の音 an が安と同じ)の意だが、一方で 鹌鶉(an chun) は怒気を伴いがちな果敢さにも通じた。そのため博打を争うときの紋に用いられたが、この風習は中東から中国に伝わったものという。
鶉は学者のシンボルでもあった。彼は幾多の障害に雄々しく立ち向かって試験に合格し、ついに栄誉を勝ち得た者だからで、後者に通じる解釈である。学者先生は収穫を象徴する粟の穂と一緒に鶉を彫った紋様の文具を書斎机におくのが慣わしとなっていた。(この意匠は前者の意をとって「歳々平安」を祈念するものともされる⇒玉の護符3
鶉と菊の花の意匠は「平安のうちに生きる」願いを表わした。この場合の鶉は前者の「安」と、菊花 (jiu)の音は「生きる」と解釈する。

二羽の鶉(双鶉 shuang an)は調和を意味した。民間の伝承は鶉に、ほどよい節度、穏健、強い陽の気に均衡をもたらす良き陰の気を見ていた。女性(たおやめ)や子供たちから授かる愛によって男性(ますらお)は温和(wenhe)になる、と。
医食同源の中国では、鶉は傷寒の薬膳に供された。その肉は血の巡りをよくし、その卵は病から回復する滋養となると信じられた。

さて、硫黄島のうずら石は何を象徴し、何をもたらすものか。願わくは、戦いでなく、霊たちの平安であらんことを。

 

補記:学名のアンデシン Andesine は南米のアンデス山脈に由来する。アンデス山脈を形成する安山岩の主要長石である。ドイツの地質学者 L.v.ブックがアンデス山中マルモト産のトラカイト様火山岩に対して命名した。日本では明治中頃に小藤博士が「富士岩」と訳して学界で通用したが、地質調査所は安山岩と音訳し、こちらが定着した。

補記2:現、京都の深草(むかし山城国紀伊郡)は、伊勢物語(124段)に「年を経て 住みこし里を出でて往なば いとど深草野とやなりけん/ 返し  野とならば 鶉となりて鳴きをらん かりにだにやは君は来ざらん」と詠まれて、鶉の名所であった。 西行に「うずら鳴く をりにしなれば 霧こめて あはれさびしき 深草の里」がある。 

cf. 交い石/誓い石(No.195) 

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