844.バナジン鉛鉱 Vanadinite (モロッコ産)

 

 

Vanadinite

ヴァナディナイト -モロッコ、ミブラーデン産

 

 

23番元素バナジウムが、北欧神話の女神フレイヤの別名バナジスに因むことは No.164 に述べた。命名の経緯をもう少し詳しく書いておく。

スウェーデンの誇りであった大銅山ファールンは17世紀半ばに銅産の最盛期を迎えた後、産量の減少に伴って18世紀から経営を多角化し、19世紀には鉄産やその副産物のベンガラ(ファールー・レッド)製造に軸足を移して稼働を続けた(cf. ひま話)。1818年にはファールン鉱山学校が設立されて、最新の化学知識を持つ技術者の育成にも力を入れた。バナジウムの発見者ニルス・ガブリエル・セフストレーム(1787-1845)は薬学博士(医家)で、この学校の初代校長を務め物理学と化学を教えた人物である。新しい製鉄法を導入して産業界に大きな足跡を残した。

当時ファールンでは鉄の性質を調べる簡便な方法として、塩酸を試薬に用いて、黒色の粉末が残るかどうかを診ることが行われていた。残滓の出る鉄は概してもろい傾向があった。セフストレームはある時気まぐれにトーベル(タベリ taberg)産の良質の鉄を処理して、黒い粉末が残ることに驚いた。南スウェーデンのスモランド県にあるこの鉱山は標高343m の丘陵がそのまま豊かな鉄鉱床になっており、1621年以来丘を掘り崩して鉱石が採集されていた。その鉄は粘りのある強い性質を持つと定評があったのである。
多忙なセフストレームはすぐには研究を続けられなかったが、残滓にリンか何かが含まれているだろうと予想して、1830年4月から再び実験にかかった。そしてウランや銅、珪素、アルミナなどを検出した。しかしウランと思われた成分はクロムのようでもあった。さらに調べていくと、そのどちらでもないように思われた。5月に試料をベルセリウスの実験室に持ち込み、2人で研究を続けた。

この物質は低い酸化状態の時は青色に呈色する奇妙な性質があり、どうやら未知の元素と思しい。セフストレームは元素の名にオーディニウム Odinium/ Ordina を提案した。北欧・ゲルマン神話の主神オーディン(南部ゲルマン族の間ではヴォータン)に因む。それからもっとよい名前がないかとベルセリウスに相談した。英語やフランス語での響きがあまりよくないと思ったのだ。そこでアテナ(ミネルヴァ)の別名エリアネーによってエリアン Erian と呼ぶことになった。さらにまた考え直して、オーディンの妻フリーン(フリッグ)に因んでバナジン Vanadin の名が与えられた。これは上述の通り、美と豊穣の女神フレイア(太陽神オドの妻)の別名に拠るもので、フリーンとフレイヤとはしばしば同一視されたのである。セフストレームはこの名を選んだ理由の一つとして、既知の元素に V から始まる名がなかったことを挙げた。

ところで、1797-1801年頃、新世界アメリカの偉材アンドレス・マヌエル・デル・リオ(1764-1849)がジマパン産の鉛鉱石(後のバナジン鉛鉱)から発見して、その塩が多彩な色をもつことからパンクロミウムと、次いでエリスロニウム(赤色の意)と呼ばれた物質があった。デル・リオはやがてクロムだったと考え直すことになったが、セフストレームの報告後、バナジウムとエリスロニウムとは同じ元素であることが明らかにされた。これにはヴェーラーが絡んでいる。

デル・リオの学友だった探検家フンボルト男爵は、1803-04年にデル・リオを訪ね、頼まれてジマパン産の鉱石標本をヨーロッパに持ち帰った。標本は分析されてクロムを成分とすると結論されたが、1828年にヴェーラーは標本を再評価し、クロムではない未知の物質があるとの見解を持った。しかし彼はフッ化水素ガスを吸入して体調を崩したため、研究が数か月遅れた。
セフストレームの新元素(エリアン)発見を聞いたヴェーラーは、1831年1月9日、ベルセリウスに宛てた手紙に白色粉末試料を同封し、おそらくエリアン酸化物 Erianoxyde だろうと述べた。後にヴェーラー自身これを確認し、デル・リオもまた成り行きを知った。

1831年1月22日、ベルセリウスがヴェーラーに送った手紙には次のメッセージが記されている。
「君が私に送って下さった試料に関して、こんな逸話をお話ししましょう。
はるか昔、美と魅惑の女神バナジスは極北の地に住んでいた。ある日、誰かが彼女の住居の扉を叩いた。女神はゆったりと椅子にくつろぎ夢心地でいたので、こう考えた。すぐに出なくてもまたノックしてくるでしょう。ところが次のノックはなかった。その人物は階段を降りて行ってしまったのだ。女神はそれほどつれない来訪者は誰だったのか知りたくなって窓に飛んでゆき、去った者を見た。『おお!』 彼女はひとりごちた。『あれはやんちゃなヴェーラーだわ。彼は家に上がる資格があったのに。もう少し熱心に望んでいたら、きっと招き入れてあげたのに。そのまま去ってこの窓を振り向きさえしない。』
それから数日して、誰かまた扉を叩く者があった。今度はノックが続いた。女神はとうとう夢心地からさめて扉を開けた。敷居にいたのはセフストレームだった。こうして彼はバナジンを見つけたのだった。」

それから、「君の試料は、事実、バナジウムの酸化物です。けれども、一つの有機物(尿素のこと)の合成法を発明した化学者は、一つの新金属の発見を認められなくたってちっとも構わないではありませんか。10の未知の元素を発見することは、君がリービッヒと協力して行った熟練の技の冴え、非常な才能がなくても出来ること、ただ科学の世界と対話しただけのことなのですから。」と慰めた。
しかしヴェーラーはもちろん、後々まで悔しい思いを払拭出来なかったのである。

ベルセリウスのメッセージを読むと、彼が元素を人格的な神に擬えていたことがよく分かる。その栄誉に価する情熱を抱いた化学者たちの来訪/発見を待って潜み続ける神々のイメージ。彼自身は月神セレーネや雷神トールの扉を叩き続け、対話したのであったろう。
あれが見つかった! 何が? 神々がさ!

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