836.ヴェーラー石 Wöhlerite/ Woehlerite (ノルウェー産) |
その昔のヨーロッパはローマ帝国の言葉、ラテン語(やギリシャ語)が共通語の役割を果たしていた。帝国が衰亡して状況は大きく変わったが、前者はルネッサンス以降も学問の言葉として長く愛用され、今日なお学名にその伝統を留めている(補記1)。
とはいえ近世に入って学問を志す人々の裾野が広がると、普段の勉学や討論にはやはり日常言語の方が有利であった。フランス語やドイツ語が広く用いられた。しかしストックホルムにあって(ドイツ語の教科書を使って)教鞭をとったベルセリウスは、自分の生徒たちのために母国語の教科書がどうしても必要だと感じた。それで「化学の教科書」をスウェーデン語で書いた。第一巻は1808年に出たが、化学の急速な進歩を受けて
1830年までに六巻が成った。
教科書ははじめ複数の門下生たちの手でドイツ語に訳され、やがて英語、フランス語、イタリア語版も作られて、世界中の化学者が手にとった。言わばこの時代のスタンダードとなったが、今繙いてみると、内容は戦後昭和の日本の中高生(つまり自分)が学校で教わったこととほぼ同じレベルであるように感じられる。理科系大学への進学を希望する高校生はその限りでないが、それ以外の選択をする日本人が教養として与えられる実験化学の課程は、あるいは今でもこの時代の先端知識をいくらも出ないのではなかろうか。逆にいえば、(古典)化学の基礎はベルセリウスの時代に構築されて、現代でも「常識」として通用するのではないか。
さて、最終的に(1848年)ドイツ語版を完成させたのは愛弟子のヴェーラーだった。彼はまたW.ヒーシンゲル著「鉱物地理学」のドイツ語訳者でもある。 フリードリヒ・ヴェーラー(1800-1882)はドイツ、フランクフルトの近くで生まれ、フランクフルトに育った。学生時代は化学の実験と鉱物蒐集に明け暮れたという。そのために忙しくて、よく宿題を「忘れた」。フランクフルトで採集した玉滴石を袋一杯に詰めてはハンナウで開かれる鉱物商の交換会に通って、コレクションを充実させていった。少年のヴェーラーはある時、会にゲーテが来ているのを見たそうである。
ヴェーラーは産科開業医を志してマールブルク大学に進んだが、やはり化学の実験が好きで、恩師のグメリンに化学者になるよう勧められるとその気になり、ベルセリウスの下に留学を希望した。1823年9月、医学方面の博士号を取得はしたが、その後、1824年7月までの一年間をストックホルムに過ごした。そしてスカンジナビア半島の地質調査旅行を経てドイツに戻り、翌年ベルリンで化学と鉱物学の教師におさまった。1835年、ゲッチンゲン大学の化学薬学教授に選任された。
ヴェーラーは数多くの実験を行って化学者として名をなした。よく知られている業績はアルミニウムの単離と尿素の合成である。アルミニウムについてはエルステッドの実験を発展させ、1827年に化学的な手法で少量のアルミニウム粉末を得て、初めてその性質を記述したとされる。翌年には同じ方法を使ってベリリウムとイットリウムの単離に成功した。
彼は 1845年に粉末アルミニウムを溶融してついに一塊の金属塊を作り出したが、当時の金属アルミは金よりも高価な貴重品で、(安価な)工業的製法は
1854年、フランスのドゥビルの発明を待つ。(cf. No.
684 氷晶石)
尿素の合成に関する論文は 1828年に発表された。これは一般に、無機物質から有機物質が作り出せることを示した画期的な出来事として語られている。当時の知見に従ってベルセリウスは無機化学と有機化学とを分けて扱う姿勢を教科書に示していたが、ここに両者を橋渡す可能性が見い出されたのである。また有機物質が生じるために必須と考えられていた「生物的な結合力(生気・動物精気)」は必ずしも必要でないことが示された、とされる。が、ヴェーラーやベルセリウスはそこまで大袈裟に考えていなかったようである。
ヴェーラーはまた異性体の発見にも関わった。後に親友となる
J.F.v.リービッヒ(1803-1873)の発見した雷酸塩と自身が研究したシアン酸銀とが同じ化学組成で異なる性質を示すことを互いに認め合ったのだ。ちなみにこれら(尿素や(チオ)シアン酸銀)は、彼がストックホルムに留学していた時期に得られた物質で、異性体という概念(言葉)を提唱したのはベルセリウスである。
ヴェーラー石は 1843年、テオドル・シェーラー
(1813-1875)がヴェーラーに献名した鉱物である。組成 NaCa2(Zr,Nb)Si2O7(O,OH,F)2。ジルコンやニオブを含むアルカリ珪酸塩で、各種のアルカリ閃長岩やそのペグマタイトに産する。晩期生成物とみられる。原産地はノルウェー、ランゲンスンツ・フィヨルドのブレヴィク近くにあるルーヴー島(ロボ、リョヴョヤ、ルーヴェヤ等、いろいろ訛る。Løvøya。地名語尾の
-
øya "エヤ" は島の意)。
オスロから南に130キロほどのこのフィヨルドにはアルカリ複合岩体の露頭があり、ラルビカイト(ふつう輝石閃長岩に属する中性岩)が広く分布する中、これに貫入する形でアグパアイト質かすみ石閃長岩の帯が4〜5キロの幅で挟まっている。多数のペグマタイトがあって珍しい鉱物が見つかるため、19世紀初以降、フィヨルドに浮かぶ島々で盛んに鉱物調査が行われた。また同じ頃から建築用材を得るために小規模な採石場が開かれた。1880年代に入ると装飾用の石材が採られ、また20世紀に入る頃から長石を目的にペグマタイトが掘られた。
ルーヴー島は、博物学に深い関心を持っていた地元ブレヴィクの牧師
H.M.T.エスマルク(1801-1882)が、ボートで鴨猟をしていた傍ら、海際の露頭に黒色の鉱物を見つけたのが端緒となり、1829年に新元素トリウムが発見されたことで鉱物学者の注目を集めた。エスマルク父子(父親はコングスベルグの鉱山学校で教鞭をとった人物)は鉱物にベルセリウス石の名を提案したが、ベルセリウスは丁重に辞退して北欧神話の雷神トールに因みトール石(Thorite)と名づけている(No.823)。
ベルセリウスゆかりの島に産した本鉱に、愛弟子ヴェーラーの名を与えたシェーラーはなかなか粋なお人柄であったと思われる(補記3)。二人の師弟愛は斯界でつとに知られていたのだろう。
ちなみにエスマルクはトール石が縁でベルセリウスと文通を続けていたが、1834年、ルーヴー島から南南東に8キロほど下ったランゲスンツ・フィヨルド湾口の小島ローブン(Låven)島で採集した暗緑色の標本を送った。ベルセリウスは今度は海神エーギルに因んでエジリン
と命名した。エスマルクはまた1829年頃、同島にリューコフェン石を採集している(1840年エルドマンが記載)。
こうしてローブン島もまた鉱物界の注目を浴びた。1840年代には多くの研究者が訪れ、モサンドル石
(1841年)、カタプレイ石
Catapleiite (1849/50年)、トライトーム石 Tritomite-(Ce) (1849年)
が報告された。1854年に星葉石 Astrophyllite が、そして 1885年には
W.C.ブレガーによって島名にちなんだ
ローブン石 Låvenite が記載されている。
ブレガーはランゲスンツ・フィヨルドをもっとも詳しく調べた学者といわれ、補記2に示す鉱物のうち
1880年代に記載されたものはいずれも彼が関わっている。
こうしてみると、ベルセリウス(トール石、エジリン)、ムーサンデル(モサンドル石)、ヴェーラー(ヴェーラー石)、深い親交を結んだ3人のいずれもが、ランゲスンツ・フィヨルド原産の鉱物に縁を得たのが面白いと思う。
なおヴェーラー石とモサンドル石とは成分も物性も随分よく似た鉱物である。さすが親友といったところか。
補記1:元素記号として従来の絵記号に替えてラテン語の頭文字を提唱したのはベルセリウスで、今日の記号の元になっている。(No.828 補記2)
補記2:上記のほか、19世紀に報告された、ランゲスンツ(長い湾(フィヨルド)の意)を原産地とする鉱物をいくつか挙げておく。
パイロクロア(黄緑石) Pyrochlore 1826年 フレドリクスヴァーン(スタバーン)
メリフェン石 Meliphanite 1852年 フレドリクスヴァーン(スタバーン)
カペレン石 Cappelenite-(Y) 1885年
リル・アリョ島(リル・アリョヤ)
黒セル石 Melanocerite-(Ce) 1887年 キーオ島
ユージジム石 Eudidymite
1887年 上アリョ島
ノルデンショルド石 Nordenskioeldine 1887年 アリョ島(アリョ)
ローゼンブッシュ石 Rosenbuschite 1887年 リル・アリョ島
ヒオルダール石 Hiortdahlite 1888年 ストッコ島
ハンベルグ石 Hambergite
1890年 ヘルゲローア
補記3:T.シェーラーはベルリンの商業学校に通った後、フライべルク鉱山学校とベルリン大学とに学んだ。1833年、ノルウェーで冶金技術者として働き始め、1839年にベルリン大学に戻って博士号を得た。1841年、クリスチャニア(オスロ)大学の冶金学講師に選任された。その時分にユークセン石(1840年)とヴェーラー石(1843年)とを記載した。1847年フライベルク鉱山学校に着任、翌年化学教授となった。
彼のユーモアあふれる講義はフライベルク名物だった。1973年に引退すると、その後をクレメンス・ヴィンクラーが継いだ(ゲルマニウムの発見者
cf. No.518)。
補記4:ノルウェーは 1814年、デンマークからスウェーデンに引き渡されて、以降20世紀に入るまでスウェーデン王がノルウェー王を兼ねる同君連合(スウェーデン=ノルウェー)となっていた。言い換えれば、当時はランゲスンツのあたりもスウェーデン領なのだった。