843.トール石 Thorite (イタリア産) |
「やはり星の力だ、天上の星のみが人の気質を左右しうる、さもなければ同じ男と女とから、こうも違った子が生まれる訳がない。」とはシェークスピアの「リア王」(福田恒存訳)にある科白。17世紀のイギリスでは人の性格や運命が星々の影響下に織りなされる宿命的なものと考えられていたことが分かる。それは後のヨーロッパでも同じことだった。
であればこそ夜空に在って、ほとんどの天体が一斉に従う円周運動とは異なる独自の運行を果たす惑星に、自律的な個性が洞察され、これらを神々の名で呼んだことは、種村季弘風に表現すれば、むしろ少しも怪しむに足らなかった。彼らは宇宙の法則を造る根源的な構成要素、機能、エッセンス、神なのだった。膨大な無意識の海に現れた意識の小さな光、旗印であった。
同様に18世紀以来、近代化学によって物質を構成する最小単位として元素が想定されると、新たに発見された元素に神々の名が付されていった。それぞれが独自の個性を持ち、その存在の在り方、ほかの元素と結びつく仕方によって、多岐に亘る物質の複合的な性質が発現するのであったから。すなわち地上の物質もまた、その根源に神々を隠し抱いていると考えられたのだ。
ウラン、チタン(No.811)、テルル。セリウム、セレン、そしてトリウム…。そのほか天体と元素とに古代の神々の名が与えられた例は数多い(No.828)。彼らはもっとも小にして、もっとも大なるものであった。
ちなみに当時勃興したばかりの地質学は、地上の岩石の成因を水に求める水成論と火に求める火成論とに分かれて激しく争いあった。あちらの言葉で言えば、ネプチュニズム Neptunism とプルトニズム Plutonism 、すなわち海の神(ネプチューン)が造ったか、地底(冥府)の神(プルート)が造ったかの論争であった。いずれにしても世界を創造したのが神々であることは、議論の余地のない真実と考えられていた。
19世紀前半を代表する化学者ベルセリウスもまた信仰を同じくした一人である。彼は新元素に北欧(ケルト・ゲルマン)神話の神トールの名を寄せる考えを長い間あたためていた。おそくとも1817年にはトリウムの名が想起され、願いは1829年に実現された(cf. No.823、No.836、No.839)。
この元素はハンス.M.T.エスマルクがルーヴー島の閃長岩中の脈で採集した、ガドリン石に似た黒色の鉱物から発見された。標本をベルセリウスに送ったのは父のイェンス・エスマルクである。イェンスは鉱山町コングスベルクの鉱山学校に奉職した後、
1811年からクリスチャニア(オスロ)大学の初代地質学教授を務めていた。熱烈な水成論者で、南部ノルウェーがかつて広く氷河に覆われていたこと、この地に見られる巨大なボールダー(転石)やモレーン(堆石)は氷河によって運ばれ堆積したものであること、沿岸部のフィヨルドは氷河による浸食地形であることを示した。またノルウェーに特徴的に見られるある種の岩石をノーライト
Norite (ノルウェー石の意)と名づけた。
彼は息子が寄越した鉱物をタンタルの土類(酸化物)を含むものと考えて確認を求めたが、ベルセリウスは新金属の珪酸塩であることを明らかにした。そして未知の土類をトリナ
Thorina (後のトリア)と、鉱物をトール石 Thorite
と名づけた。トール石の表面は錆色の物質で薄く覆われていた。新鮮な破面にはガラス光沢があり、ナイフで容易に傷がついた。砕くと赤茶色になり、条痕は赤みのある灰色だった。吹管で熱すると黒色味が薄れ、水分を出して、淡い赤茶色になった。管内で強熱すると僅かにフッ酸の兆候を示した。
トール石はトリウムの単純な珪酸塩で組成式 (Th,U)SiO4。ジルコン ZrSiO4 と同じ構造を持つが、放射性でたいていメタミクト化している。産状もジルコンにほぼ同じ。黒色〜暗褐色〜暗緑色が基調色で、黄色〜橙色系のものもある。高い比重を持ち、光沢に富む。正方晶系。高温変態でモナズ石構造(単斜晶系)のものがハットン石 Huttonite にあたる。トリウムは連続的にウランに置換されえて、同量程度含むものはウラノトール石 Uranothorite と呼ばれた。 コフィン石 Coffinite (1956年 コロラド州ラムスデン峡谷原産、コロラドのウラン鉱床探査の先駆者 リューベン・クレア・コフィンに献名)は成分的にウランが優越したものに相当するが、U4+>Th4+の領域は単純置換でなく、高水蒸気圧・高圧下条件で U(Si,H4)O4 の形で生成するとみられる。
トール石が発見されてほどなく、ヴェーラーはパイロクロアにもトリウムが含まれていることを認めた。しかし当面ほかにトリウムを成分とする鉱物は見当たらず、希少な元素と考えられた。実際は希土類(レアアース)と同様、「紛れ散らばる地上の星」であり、分散して存在する傾向があってまとまって出ないものの、地殻中の存在量は少ないわけではない(貴金属はもちろん、ウランやスズ、アンチモンなどより存在比率は高い)。
トリウムは半世紀ほどの間、特に有用性を認められなかったが、1890年にヴェルスバッハがトリウムを使った明るいマントルのホヤを発明すると急速に需要が興った(No.822
モナズ石)。ノルウェーのルーヴー島やランゲスンツの他の島々に採掘の手が入り、トール石の鉱脈はほどなく跡形もなくなった。そのためハンスが本鉱を発見した正確な地点は今日では分からなくなっているという。その後、トリウムの供給源にはモナズ石に白羽の矢が立った。
トリウムを含むことの多いモナズ石の発見がトール石と同じ
1829年というのは、何かの暗合、シンクロニシティか。
補記1:物質の構成単位と天体との相同性は、20世紀に入っても科学者の念頭を去らなかった。元素の最小単位として設定された原子(アトム)の初期の構造モデルは、太陽系における太陽と惑星の関係さながら、中心にある原子核の周りを元素ごとに決まった数の電子が円軌道を描いて運動している、というものだった。
補記2:北欧(ケルト・ゲルマン)神話の神々は曜日の語源としても今日に残っている。日曜
Sunday・月曜 Monday はそれぞれ太陽の日・月の日で、続く火曜
Tuesday は軍神チュール(ティル)の日、水曜 Wednesday
は主神怒りのオーディン(ヴォータン)の日、木曜 Thursday
は雷神トールの日、金曜 Friday
は豊穣神フレイヤの日である。土曜 Saturday
は古代イタリアの農耕神サトゥルヌスの日。
週の7日はどの日もそれぞれの天体及び神の影響下にあると感覚されたのである。