934.水晶 Quartz (日本産)

 

 

Quartz 水晶

水晶 −山梨県甲府市黒平産

 

 

現代の日本ではよく理解出来なくなっていることだが、ほんの1世紀前まで人々の生活や文化に宗教が関わる度合いは優れて大きかった。宗教は心のバランスを保つ叡智であり娯楽であり、また実用知識と実践の宝庫であった。
古代の山岳宗教や修験道に携わった人々は、国を拓き、拡げ、地域を結ぶ先達として働いた。山野に鉱産物を見出し、利用する術を伝えた。時に医者となり、霊能者となり、歌舞・芸能に携わった。他国の情報を本国にもたらし、戦闘にも参加した。水源を守り、雨請いの神事を司り、治水や土木工事を指揮した。温泉も開いた。

温泉の開基伝説はしばしば役行者や行基、空海ら古代の法力僧に寄せられるが、彼らの精神的な源流である少彦名命と大巳貴命(大国主)にゆかりの湯も各地にある。二神は共に国作りに励んで民の暮らしを豊かにし、本草(医薬)知識を広めた盟友で、山岳宗教の本地のひとつ金峰山でも祀られているが、別府や道後、玉造や有馬温泉などは彼らの発見と伝えられる。
伊予国風土記は大分と速見(別府)の湯を大巳貴命が道後に導き、これによって少彦名命の病の平癒を得たと述べる。出雲国風土記は、(奈良時代の)松江の玉造温泉に老若男女が寄り集って市をなし遊興を楽しんだこと、斐伊川沿いの湯村は万病を除く薬湯として多くの人々に効験のあったことを記している。
かく温泉は日々の疲れを払い、気分をリフレッシュし、社交を楽しむ場であり、また傷病を治療する場として機能した。戦国期には戦から戻った武者たちが槍傷を癒し、体を温め精神をクールダウンした。当時の甲斐国には甲府湯村、増富、下部、塩山、黒平などに武田家中が占有した温泉がいくつもあったという。後世、俗に「信玄の隠し湯」と呼んだ。隣国には(上杉)「謙信の隠し湯」があった。

太古、天照大神を呼び戻すために岩戸の前で執り行われた神事は、陽気をふりまく盛大な宴会であり忘我の舞踏であった。日本の宗教の本質は祝祭気分の発揚にある。cf.No.690
江戸期の人々の暮らしは、地域の寺社の祭礼(御開帳や縁日、農作業の区切りの神事など)によってリズムを与えられ、拍動していた。宗教行事への参加は大真面目であると同時に日頃の憂さを払って遊びたくるよい機会であった。祭礼には相撲や能・芝居の見物、音曲舞踊がつきものだったし、寺社参詣の旅には名所旧跡観光や温泉での遊興がセットなのだった。
人口の多くを占めた農民は農作業の区切りに地場の温泉で骨休めをし、農閑期になると比較的長い(1ケ月ほどの)湯治がてらの遊山をした。湯治にかける日数は3廻り21日間が中世以来の慣わしで、これは伝統的に寺社の医僧が診療を担ったため、投薬や湯治の周期を仏事と同様、7日間1単位としたことに拠る。
武家や商工人もそれぞれの事情に合わせて信心や湯治の旅を計画し、寛ぎと発散の時を持った。それは再生の時であり、労働と余暇との適度なサイクルによって身心を整える知恵であった。

江戸も中頃になると平和の続くうちに人々の暮らしに経済的・文化的な余裕が生まれ、伊勢参りや金毘羅参りといった信仰を名目にした長期旅行が盛んになった。cf. No.933 補記、補記2
各地の寺社は由緒・縁起を競って参詣・拝観の客寄せに腐心し、信者・訪客の世話を焼いた。山岳地では登拝ツアーが企画された。草津・熱海・有馬など有名温泉地への湯治旅も盛んになった。旅の途次、宿場の代わりに温泉地に足を延ばして宿を求めることは珍しくなく、これを一夜湯治と称した。正当な理由なく移動・旅行することを規制した時代だったが、手綱は締めるばかりが能でない。(身元の確かな者が)お上に旅の願いを出せば、たいてい聞き届けたものらしい。 

さて甲斐国(甲州、山梨県)は甲府盆地を中心に四周を山岳に包まれた山がちの土地で、南に富士山、北に金峰山系を仰ぐ。
金峰山は中世以来、修験道の本地だったが、江戸期になると一般人の登拝が盛んになった。シーズンは夏場で、信濃側は川上村川端下(かわはげ)から谷筋を辿る参拝路(北口)があり、甲斐側は東、南、西口に多数のルートがあった。甲府からなら南口を辿って里宮の権現様(後の御岳金桜神社)に参拝し、黒平の温泉に遊ぶのが定石だった。信濃側から下ってきた客もここで一息ついた。
黒平(くろべら)は海抜1,000-1,200mの冷涼な高地で、湯温25℃ほどの冷泉が湧く。甲府の商家の旦那衆が盆地の暑い夏をしのぐのによく利用したらしい。商売の暇な時期に誘いあって1廻り(1週間)ほど遊んだ。甲府八日町の俳人、鈴木調之は元文2年(1737)の夏に黒平を訪れたが、700人もの湯治客でごったがえしていたこと、宴を張って浄瑠璃や三味線を楽しんだことを「壺中軒日記」に記している。
旦那衆が戻ると次は女房たちの番で、彼女らは上於曽の向嶽寺前に湧く塩山温泉に好んで出かけた。冷えや不妊に効く湯治場として知られた。
ちなみに甲斐国は享保9年(1724年)に幕府直轄となったが、以来、甲府の湯村は運営が地元に任せられ、庶民が年中利用できる温泉として甲斐随一の賑わいをみせた。逆に地元の富裕家は周囲の目を気にせず羽を伸ばすために、少し離れた温泉場に出掛けたのだ。

黒平は黒富士の東の谷筋にあたる緩やかな傾斜地で、もとは御岳社領(神領)だった。北に眺望が開けて、遠く金峰山を望む。山奥の辺鄙な村といっていいが、江戸期には夏場多くの人が集まってバカンス地を演出した。御岳・黒平周辺は水晶産地として知られ、江戸後期に御岳神社から玉磨き業が始まっているが(cf.No.933)、こうした背景に照らしてみれば、交通不便の地ながら参詣・湯治客が集まって、鄙びた中にも遊興気分が横溢し、水晶細工の需要はそれなりにあっただろうことが推察される。むしろ霊峰、金峰山の水晶としてよい宣伝になったろう。また、頻繁に甲府商人との交流があったことが分かる。

金峰山の水晶採掘は明治に入って発展期を迎える。初期には御岳神社の神官らが鉱山開発に投資して、各地で村人や坑夫が水晶を掘り出した。もっとも、質のよい水晶は正規ルートよりむしろヤミで流れることが多かったと言われる。坑夫らは隠した水晶をこっそり運び出して集め、甲府の仲買業者に連絡をとった。業者の方では自分だけのつもりで出張ってゆくと、御岳の旅館で同業者みな鉢合わせして、互いに苦笑したという。水晶取引きの中心は御岳で、その賑わいを俗に御岳千軒と言った(補記2)。実際の集落は30余戸ほどのものだったが、往時は全戸が水晶細工に従事した。

明治半ばの最盛期には社領の各集落の住民はこぞって水晶掘りに携わった。味噌と米を背負ってヤマに分け入ると、食糧が続くかぎり何日でも鉱脈(ツル)を探して山中に留まった。金峰山系は花崗岩質で、峡谷の岩肌は風雪に削られて、細砂が谷間に砂海をなすところが多かった。方言に「ナギ」と言う。この「ナギ」の中を探って水晶の転石を見つけるのが始めで、それから鉱脈を探し出して採掘を試みた。
一カマ(晶洞)掘り当てれば一財産になった。連絡をつけると御岳や甲府の仲買人が集まってきて市が立つ。これを目当てに臨時の飲食店が開かれる。果ては三味線をかついだ芸妓が甲府から上がってきて、どんちゃん騒ぎになった。

明治17年の暮れから翌年正月にかけて大収穫があった。御岳では村人が水晶を神社の氏子集会所に持ち込んで、前祝いの宴会を張った。ところが散会後に火が出て、神社と数軒を残して村中焼失してしまった。火の番に残った者が酔いつぶれていたのである。神社は社有林を開放して材木を提供し、集落はほどなく再建された。それくらいの勢いがあったのだ。
しかしこれが潮の変り目となった。甲府の仲買人たちは御岳の職人を甲府に呼び寄せ、地元で加工する方針を進めていった。そして明治20年頃には水晶細工・取引きの中心は甲府に移っていた。修験道や巫女の憑依託宣はすでに法令で禁じられており、参詣や湯治客相手に細い商売を続ける時代でもなくなっていた。

黒平(くろべら)の温泉は明治前期にはまだ集客力があったらしい。内務省衛生局編「日本鉱泉誌」は、山腹の草むらの間から冷泉が湧く傍らに旅館が3戸あること、明治12、13年の平均浴客数は約1,300余人だったことを記しているそうだ。夏季4ケ月の営業とすると月300人ほどが滞在した計算である。
ネット上の記事を手繰ると、昭和35年頃まで白雲館という旅館が残って営業していたというが、今は遠い昔である。
ちなみに天藤真の推理小説「遠きに目ありて」の第五話で、黒平(くろだいら)温泉に一軒しかない白雲館に宿泊したことがアリバイ工作に使われている。時代考証的に昭和40年代後半と思しいが、さて…。

補記:江戸中期以降の太平の空気は、雨月物語(1768)に次のように記されている。
「うらやすの国と呼ばれる、この日本の国は長く穏やかに治まり、人々は楽しく仕事に励み、その余暇には、春は花見に出かけてくつろぎ、秋は紅葉の林を訪ね、まだ見ぬ九州路も知りたいと、西へ船旅をする人が、さらに東国の富士や筑波の山々に心を惹かれるのも、やむをえないことである。」(神保五彌訳 社会思想社)

春雨物語(1808)中の樊噲(はんかい)の諸国遍歴はさながら名所案内めく。

補記2:「千軒」とは、産業などが発展して人々が集まり賑わう町の様子を形容した言葉で、本当に1,000軒の家屋がひしめくわけではない。梨木「冬虫夏草」には、むかし木地師やその家族が大勢住んでいた鈴鹿山中の村々が、小椋千軒、政所千軒、筒井千軒などと呼ばれたとある。

cf. No.982 二次大戦中に水晶を掘った上黒平の向山鉱山

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