982.水晶(発振子2) Quartz  Oscillator  (ブラジル産)

 

 

 

Quartz Stepping faces

水晶 階段状の柱面・錐面で構成された結晶 
−ブラジル産  cf. No.945 (ムソー晶癖)

 

水晶発振子の工業利用は 1920年代後半から30年代初にかけてが黎明期で、放送施設・通信機材への適用が主だったと思しい。製造プロセスはなかば手探り的・家内工業的で、米国ではアマチュア趣味で作り始めて業者化したメーカーが結構あったという。GE社が水晶の専門研究部署を創ったのは 1924年のことで、工業用水晶発振子の量産を始めたのは 1935年だった。この頃には需要が商業規模にまで高まっていたわけで、またプロセスもある程度確立していたのだ。

しかし需要が伸びるにつれて懸念されたのは素材となる原石の供給が必ずしも十分でないことだった。発振子には高品質のブラジル産水晶を用いるのが作業効率がよく、コストパフォーマンスも良かったのだが、とはいえ仕入れた原石から優良部位を選別し、カットと選別を繰り返して(双晶部を切り分けて)最終的に発振子に仕上げると、歩留まりは至って低かった。一説に 0.2%程度だったという(電気グレード(発振子グレード)の原石を選別した後の加工歩留まりは 20%程度)
原石は 200g以上のものが求められた(これより小さい原石は採算が合わないと考えられた)。結晶方位を割り出す必要から結晶面(錐面)を持つものが求められた。cf. No.981 
条件に合う原石はもともと多くはないし、現地の非組織的な鉱夫連中(ガリンペイロ)がどこやらから原始的な採掘法で採集してきたものを、仲買いが集散地で集めて米国に送り出すのだから、欲しいだけの量がいつでも手に入る保証はなかった。

周波数制御用の水晶発振器の優秀性、軍事上の重要性は当時の列強各国が等しく認識するところだったが、米国ではしかし、軍用の発振回路を水晶製に置き換える考えはむしろ退けられ続けた。融通性に乏しいこと、コストが高いこと、入手性の問題がその理由だった。米軍が全面的な水晶化に進んだのは 1939年も末で、通常の電気発振回路を使った無線装置はドイツ軍によって位置が探知されると判明したためだった。欧州ではドイツ軍がポーランドに侵攻していた。水晶は戦略物資として備蓄管理されることになり、供給ルートが監視された。

他方、日本では皇紀 2594年(1936年)に帝国陸軍が制式採用した(つまりその数年前から開発されてきた)いわゆる 94式機材において、ほぼすべての送信機が水晶制御式となっていた。戦略物資を他国に依存することの危うさと、通信の安定を徹底させる戦略効果を秤にかけて行った「大英断」だったという。大戦前夜の 1940年、軍はブラジル産水晶の大量購入を試みたが、輸送船は戦略物資積載を理由にパナマ運河で差し止められ、原石は接収されてしまった。ところが、これとは別に明電舎社長の重宗雄三(1894-1976/ 1938年に社長就任)が個人的に買い付けた原石を積んだ輸送船は無事日本に到着した。これによって十分な数量の水晶発振子を作れる目途が立ち、開戦準備が整ったという。しかし終戦直前の国内在庫はほぼ払底していた。

重宗は戦後すぐ貴族院議員に勅撰され、1962年には参議院議長に就任して 3期 9年を務めた大政治家である。62年に日経新聞に語った履歴書によると、戦中陸軍の水晶発振子の 95%は明電舎が輸入して補給していたが、大戦が激しくなるとブラジルからの船が途絶えた。陸軍も海軍も国内で水晶探しに奔走したが、重宗もまた自ら乗り出して、かつて水晶を掘った金峰山山麓の上黒平へ赴いた。集落から東へ約4キロ離れた沢の南向きの斜面で珪石の細い脈を発見した。重宗はこれを掘ることを命じ、掘り始めて 11ケ月目に「亀の甲に似た道石」が発見された。それから 10日後、さらに 20m掘り進んだところで最初のカマ(晶洞)に当たった。そして大小4ケのカマから約  6トンの水晶が採集された。大きなものは長さ 1m、重さ 75kgあり、軍部は大喜びしたという。氏は水晶がどういうところで採れるか、産状を承知しておられたようだ。上黒平のこの鉱山は陸軍主導で採掘され、向山の名で知られた。 cf. No.934

話を戻すと、米国では欧州戦争への即時参戦を視野に入れて軍備の増強が始められた。水晶発振子のメーカーは商業生産に加えて軍への供給責任を負った。しかし 1941年後半には発振子の生産量が深刻なボトルネックとなって軍備調達に大きな影を落とした。水晶セクション (QCS: Quartz Crystal Section)が組織され、問題解決にあたることとなったが、なにしろ素材の不足は決定的だった。39年初頃、米国には発振子グレードの水晶の備蓄が 4.5トンほどあった。この年、米国はブラジルから 30.5トンの原石を輸入し、翌年は 57.5トンを輸入した。その 10% が発振子グレードとすると 9トン弱が加わる。しかし結晶面の出た原石が乏しかった。ほぼ枯渇していたのだ。
結晶面を持たない高品質の原石は国内にかなりのストックがあったため、これを利用する方法がさまざまに工夫された。1942年末までに X線回折装置を用いて結晶方位を割り出す検査法が実用化された。こうして面のない原石も利用可能になったが、不足を解消出来たとは言えなかった。必要な発振子の数量はさらに増えてゆくと予想された。

不足の原因の一つとして、輸出前の原石選別の未熟さが考えられた(使えるはずのものがハネられていた)。QCSは選別技術者を訓練して、ブラジルのリオ・デジャネイロにある買付業者の選別場に派遣した。そして数千ポンドの原石が船便でニューアーク港に向けて出荷されたのだが、入港直前あわやドイツ潜水艦に撃沈されかかり、あやうく逃れた。その後、水晶原石はつねに DC-3 型輸送機によって空輸されることとなった。もちろんコストが嵩んだのであるが。

また採掘量を増やすために、仲買業者に倍の買付金額が提示された。しかしこれは失敗だった。ブラジル人の生活は米国人のそれとは次元が異なった。「お金はあればあるほど幸せ」という米国の哲学はガリンペイロには通用せず、彼らは原石を売って現金が手に入ると、食糧を買う金がなくなるまで働かずのんびり暮らすのが常だっだ。単価が倍になれば採掘量は半減するのが道理で、施策はほどなく撤回された。(一方、米国人は十分にお金が貯まるまで働きづめるが、その後はさっさとリタイアして資金運用で暮らしたりする。)
採掘の機械化も計画され、ブルドーザや砕石搬送設備が米国からブラジルに送り出されたが、大半は鉱山まで辿りつかなかった。インフラが整っていなかったのだ。届いた機械にしても、そもそも採掘法が機械化に適さなかったので活用出来なかった。

結局、手に入るものをさらに生かすことが肝要であった。従来、200g以下のサイズの原石は顧みられなかったが、1943年には 100gサイズのものまで利用されるようになった。そのためのノウハウを編み出したのである。また中間加工品であるブランクをサイズダウンして歩留り向上を図り、かつ従来ならハネていた品質の部分も多少なり加工に回した。原石の割り当ては高い歩留りを記録するメーカーに優先的に振られた。
終戦に至るまで水晶の供給不足は根本的に改善されなかったが、メーカーは自転車操業的に発振子の生産を続けて戦局を有利に導き、連合軍の勝利を支えた。

水晶が不足したのは日本も米国も、そしてドイツも同じで、高品質の天然原石に頼っている限り続く問題であった。戦後になって、ドイツが水晶合成の研究を進めていたことが明らかになった。これを受けて米国やロシアや日本では人工水晶の研究が急ピッチで進められてゆく。
水晶に代る素材の研究も戦中から行われたが、日の目を見ない時代が続いた。発振子といえば、戦後も長く水晶にほかならなかった。

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