933.水晶 Quartz (日本産)

 

 

 

水晶

水晶 (根元に薄くススキ入り) −山梨県甲府市黒平町水晶峠産
 

 

古代の日本の(日本に限らないが)宗教は、神々あるいは仏や魍魎の力づくの争いだったと述べたが(No.931)、彼らの守護の力、よりよい生活環境をもたらす力は、一方では人間側の神通能力にも依存した。それゆえに信者は祈りや請願に際して斎戒し、精進し、帰依したのであり、神官や僧は厳しい戒律に従い、肉体的にも精神的にも激しい修行を試みたのであった。

平安時代に盛んになった修験道は仏教伝来以前の古神道や山岳信仰に仏教や密教が習合した宗教で、飛鳥時代の行者、役小角(えんのおずぬ 634-701)を始祖と仰ぐ。役小角は奈良県の山中に修行をなして、金峯山(かねのみたけ・きんぷせん:吉野山から山上ケ岳までの連峰の総称)に金剛蔵王権現を感得したという。以来、修験道は蔵王権現を本尊に拝し、俗界から離れた山岳界を修練の場とした。
吉野山の金峯山寺と熊野本宮の間を結ぶ大峰山脈(大峯山)は紀伊山地の脊梁をなす。この間の尾根筋、走破距離にして約150kmを行く峰入り修行を奥駈(おくがけ)と称した。前者を金剛界と後者を胎蔵界とみなして、大地の胎から出て標高2,000m近い山嶺を経巡り、十界修行の末に金剛力を身につける階梯に擬した。熊野からの北行を順峯と、金峯山からの南行を逆峯という。半ばにある行者還岳はその峻険を以て役小角の登攀を阻んだと伝わるが、鉱物愛好家の間では山腹に虹色ザクロ石を出すことで著名である。

同じ伝で関東山地の大自然を舞台にした修験道場が甲斐と信濃の境をなす金峰山(甲州御岳山(こうしゅうみたけやま): 2599m)である。役小角が吉野の金峰山から蔵王権現(と金精大明神)を勧請したことになっており、山頂に本宮(奥宮)が、いくつかある登山口に里宮がおかれた。
古く崇神天皇の御代に悪疫退散・万民息災を祈願して各地に神祇の社を設けたとき金峰山頂に少彦名命を祀ったといい、次いで景行天皇の御代の日本武尊東征のとき須佐之男尊と大巳貴命(大国主)の二神を合祀したという。これら往古の神々に加えて、天武天皇の御代に至って仏教由来の守護神が迎えられたわけである(あまり本当らしく聞こえないが、少なくとも後世にそう伝える)。
金峰山はほぼ全山が花崗岩の岩体で、山頂にある高さ 20m ほどの五丈岩は神仏の依り代とされ、御像石(みかげいし)と呼ばれた。修験道がもっとも盛んだったのは中世期(鎌倉・室町〜戦国期)で、吉野山への入山が出来なかった南北朝期には夏が来ると関西からも行者が集まって峰入りしたという。

江戸期に入ると(娯楽を兼ねて)一般庶民の山岳参拝が盛んになった。甲斐国志(1814)の頃は、信濃側の佐久から登る北口のほか、甲斐側から9筋の参拝路があった。西口と南口のルートはいずれも今の御岳金桜神社(里宮)で合流して、山頂まで約20km の行程を北へ向かう。黒平の温泉に旅塵を払い、鳥居嶺・唐松嶺・水晶嶺を越えて御室川を渉り御室に至る。水晶嶺は半鐘峠ともいい、ここで半鐘を撞いて予め御室神社の番所に登拝を伝えた。御室は東口ルートとの合流点で、厨房と宿房もあった。ここから 2kmほど続く急坂を衝いて山頂の奥宮に詣でた。
金峰山は甲府盆地を挟んで南に富士山が相対する。山頂間の直線距離は約 60kmで、吉野−熊野本宮間の直線距離に等しい。金峰山を金剛界とし富士山を胎蔵界として、江戸期にはその間の往還を道者街道と呼んだ。すなわち東口の牧丘町、杣口金桜神社から甲州市塩山へ下り、一宮町黒駒から御坂峠を越えて河口湖に下る。そして富士吉田の浅間神社を拝して富士山の北口まで通じた道で、諸国行脚の修行者や登拝者が往来した。

山頂の五丈岩について甲斐国志は、「御影石、高さ25間横18間。その頂に小池あり、形ハマグリの如し。その水亢旱にも涸れず、甲斐派美(かいはみ)と称せり」と述べる。不滅の霊水が湧いて、信濃の千曲川、甲斐の荒川や塩川、武蔵の玉川(多摩川)の源をなすと信じられたのであるが、山頂に泉が湧くとは理に反していまいか。(補記4)
登山家の木暮理太郎(1873-1944)は「山の憶い出」に、岩の大きさは実際は3分の1もないだろうこと、「小池とは大袈裟な言葉で、其実は岩の凹みの溜水に過ぎない。二日も照り付ければ干上って仕舞う」と書いている(初出1914年)
しかし往時は金峰山を水源地として崇める信仰があり、降雨祈願の儀式が必ず効験ありとして行われたらしい。五丈岩周辺に土馬や水晶などの奉納品が出土する。御室から山頂までの間にある片手廻し岩は水分け地を守る勝手明神のご神体と目される。
鉱物愛好家の間では金峰山はあちこちに水晶(水精)を産することで知られ、上述の水晶嶺(水晶峠)はその一つである。水の信仰を担うにふさわしい山といえよう。ドイツ語にベルク・クリスタル、山の結晶と呼ばれる水晶は、水の精髄であり水の結晶なのである。

御岳金桜神社(里宮)のあたりは古く神山と呼ばれ、雄略天皇の神勅で里宮をおいたとき御岳山と改称した(ということになっている)。中世期は御岳衆と唱える戦闘集団が拠して甲斐国北辺の守りとなった。神社は広大な神領(社領)を保有して、神職・社人100名以上を数えた。勢威は江戸期まで残り、文化年間の神領は山林東西 16km、南北 28kmに及んだ。
金桜神社と称したのは幕末からで、以前は蔵王権現社と呼んだ。社記に「金を以て神と為し、桜を以て霊と為す」とあるが、延喜式神名帳に名を残す金桜神社を意識したものらしい。
金峰山に水晶が出たことは古く天正3年(1575年)に記録があり、峰入りの修験者が関わったとされるが、歴史的経緯からするともっと早くから知られていてもおかしくない。
甲斐国志は「金峯の水晶瀑布、水晶嶺より産するものは大小皆六面なり、東山の玉小屋という処の産は長大美好なりと云う」と述べ、また古蹟として北西の瑞牆山(みずがきやま)に玉ノ権現、祠、御玉沢、水晶山、玉淵の地名があること、流れ下る末流を須玉川ということを述べている。
遅くとも19世紀前半には金峰山周辺で採れる水晶はよく知られて、京の玉屋や大阪の仲買いが御岳まで足を延ばして原石を買い付けるようになっていた。

京の玉作りは古い歴史を持つ。平安から鎌倉時代にはすでに水精の数珠が名物だったと思しく(cf. No.930)、江戸前期には眼鏡玉も磨かれていた(cf.No.931)。そうした玉屋のひとつ「玉屋卯兵衛」は寛永年間(1624-43)に大坂吹田の玉造郷で創業し、一時奈良に、それから京都に店を構えて、文化・文政期はすでに老舗として 12代目を名乗った。この頃、全国的に金毘羅詣でが流行したが、関東からの代参人が金峰山の水晶を持参して、四国への往路に置いてゆき、復路に磨いた玉を受け取って帰ることがあったという。なかには旅費の足し、ないし小遣い銭に充てるつもりで土地の玉石を持ち込む旅人もあっただろう。店の伝えでは、しばし旅の草鞋を脱いで職人として住み込んで働き、玉磨きの方法を学んで帰国する者もあったという。彼らは京都嵯峨の水尾の砥石や奈良の穴虫で採れる金剛砂などの研磨具材も持ち帰った。あるいは故郷にささやかな玉作り業を営んだ職人たちがあったのかもしれない。

「玉屋卯兵衛」は京都産や近江の田上山産、美濃の苗木産の原石を使っていたが、甲斐金峰山産の良質の水晶に商機を見たらしい。文化10年(1813)頃、後に番頭になる弥助(1794-1845)を大坂の仲買商、古関円次郎と同道で御岳に遣わして仕入れの道を拓いた。
その後、弥助は番頭として生涯を終えるまでに何度も御岳を訪れたらしい。御岳金桜神社によると、彼を通じて玉磨きの技法が社人に伝わった。天保5年(1834)のことという(※もう少し早く、文化・文政期と見る方が妥当に思われる)。以来、御岳では金剛砂を使って包丁や鍬などの鉄板の上で水晶を磨き、玉細工を作るようになった。丸玉に磨くほか、印材、玉兎、富士形文鎮なども作られた。始めは登拝の富裕家がぼつぼつ買っていったのだろうが、やがて甲府商人が仲買いして甲府勤番士の土産物にあて、江戸表にも送るようになった。需要が増えると御岳の細工人を雇い入れて自前の細工所を設けるようになった。こうして御岳と甲府に玉磨き産業が発祥したという。
当時の水晶細工は原石の大きさや質を見ながら、何に作るか考えてゆくやり方で、大型の製品はほぼ高価な一品物となった。2寸以上の玉を磨く作業は熟練を要したので、大玉の研磨が出来る職人は幕末頃でもほんの数名に過ぎなかったという。しかし小玉は量産が利いて、甲州簪や緒締めなどの比較的安価な商品に作られた。

御岳金桜神社が水晶採掘の利権に関わったことは疑いないが、神領のどこでどのくらいの量を採ったかは公表されていない。
一方、幕府の御用林地に出た水晶の払い下げ記録には公知のものがあり、例えば黒平村向山の水晶坑では、文政から弘化にかけて、相応の冥加金を払って村人による水晶試掘が何度も行われている。甲府のある玉屋は文政4年(1821)に西保の倉澤坑に出た水晶を落札して江戸表へ送った。増富村では文久2年(1862) に押出坑の水晶を地元で買い取り、御岳の職工を招いて加工してから甲府に卸した。

「玉屋卯兵衛」では御岳産の水晶が看板商品となり、「甲斐の国みたけの山の金ぷせんの頂きの水晶をもってこれをつくるものなり」と極め書きをつけて売り出して評判をとった。頂きというのは少し怪しいが、(社領の)水晶嶺で採れたということはありうる。卯兵衛は繁盛して、幕末頃は常雇いの職工を百人近く抱え、京都御所にも品を納めた。
御岳金桜神社はおそらく地場の(ささやかな)加工能力を超える原石を、弥助以来のルートを通じて上方に送り続けたと思しい。明治維新以降、政府が水晶採掘を奨励すると、真っ先に黒平周辺の試掘に投資したのは神社の神官たちだった。
神仏分離令をきっかけに全国の神社が水晶玉を求めた時、卯兵衛にも注文が殺到したが、増産の始まった甲斐産水晶(竹森産も然り)を以てこれに応じることが出来たという。

最後になるが、御岳金桜神社には社宝の水晶玉がある。いずれも径1寸前後で、水の玉と呼ばれる無色透明の3ケと、火の玉と呼ばれる茶色透明の2ケとである。江戸中期(享保年間(1716-1736)?)に神祇管領の認可を受けに上洛した神官たちが原石を持参して、京の玉屋(卯兵衛ではないらしい)に加工させたものと言われる。
石亭が特筆した御岳神社境内に出る黄色の水晶とは、後者の火の玉に類したものだろうか。

 

補記:金毘羅権現は山岳信仰と修験道が習合したインド発の渡来神で、香川県琴平町の金刀比羅宮を総本宮として祀る。役小角が象頭山に登ったときに、護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験を受けたのが始まりとされる。海上交通の守神として航行者の信仰を集め、海運の発達した江戸期に各地に金毘羅宮や権現社が設けられて広まった。
江戸後期に総本宮への金毘羅参りが盛んになって、四国に金毘羅街道が整備された。
とはいえ庶民層には参拝の経済的負担が大きすぎたので、講を作って旅費を積立て、毎年交代で選出した代参人を金毘羅参りに送り出す互助の仕組みが出来た。クジであたった人が代表で遊山を楽しんだのである。

補記2:江戸期の観光旅行先としては伊勢参りがもっとも大きな需要を喚起した。当時の文化の先端は江戸表のほか、京都・大坂・奈良にあり、伊勢参りはそのルートに必ず後者を含んでいたことと、参勤交代や幕府御用によって東海道などの街道筋・宿場がよく整備されていたことがあげられる。金毘羅参りは風光明媚な瀬戸内海の船旅を楽しむことが出来た。
寺社や温泉地は顧客獲得のために進んで旅先情報を発信し、来訪者の遊興を世話し、時には旅筋の提携宿場の案内も行った。世話人は御師と呼ばれて、講の組織や運営に深く関与した。山岳信仰地も富士講、御岳講などに関わった。

補記3:水晶峠に水晶を掘った古い廃坑のひとつは、坑内にヒカリゴケが生えて幻想的な光を放っているという。

補記4:キリスト教の慣習や聖人伝説をまとめたウォラギネの「黄金伝説」の聖ベネディクトゥスの項に、彼が建てた12の修道院のことが出ている。そのうち3つは高い岩山の上に建てられたので、水には随分不自由して、水を運び上げるのに修道士たちはさんざん苦労をなめた。彼らはベネディクトゥスに「場所を変えてください」と願い出た。ベネディクトゥスは、ある夜、岩山に登って山頂で祈りを捧げ、目印に石を三個置いて帰った。翌日、修道士たちに目印の場所を掘るように指示すると、わずか掘っただけで、泉が湧き出したという。そういうこともあるのらしい。

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