82.辰砂 Cinnabar (中国産) |
辰砂は、別名、丹砂ともいう。丹とは赤い色を指し、また道教に謂う不老長寿、神仙薬をも指す。この鉱物は、かつて羽化登仙の霊薬として珍重されたのである。
有名な「久米仙人」の話を思い出す。森羅万象に通じ、天行健やかな善智識であった。ある日、雲を集めて和泉国上空を飛行(ひぎょう)していると、若い女性がたらいに水を張り、洗い物をしている姿が目に入った。女は着物のすそをからげて、洗濯物を踏んでいた。白いくるぶしがまぶしい。欲心が生じた。途端に術が破れ、仙人は真っ逆さまに墜落していったという。
修行を積んだ聖(ひじり)といえども、女性の美しさの敵ではない、という教訓だ。このとき、彼が、空を飛ぶ仙薬として服用したのが、貴州省の辰砂であったとか、なかったとか。
辰砂は、強心剤、精力剤としても知られている。色に目が眩んだのは、だからまあ、しかたのないことであった。
因みに、辰砂の成分は水銀と硫黄だが、この二つは、中世西欧化学の元祖であるアラビア錬金術において、あらゆる物質の起源たる二つの元素として知られていた。(補記2)
また、マルコ・ポーロによれば、インドのヨギ(修行者)は、子供のときから、水銀と硫黄を混ぜた飲み物を月に2回飲む。その効用によって、長寿が得られ、150歳から200歳まで生きるのだといっている。
どうやら、この信仰はユーラシア大陸中に広まっていたらしい。(cf.No.660 辰砂)
補記:古来、朱として顔料に用いられた。 Cinnabar の名もギリシャ語の kinnabaris (赤色の顔料)に因むという。但し、今日一般に用いられる朱肉顔料は辰砂でなく、メタ輝安鉱相当の非晶質物質。 cf.No.642 輝安鉱と辰砂
補記2:水銀・硫黄といっても、今日我々が科学的な知識によって把握している物質・元素のことではない。当時の科学的な知識によって変化・変容能力を投影されていた物質のことである(「物質+現代人の知識」≠「物質+中世人の知識」)。水銀とは陰・流動性・母性原理・受容性・統合性といった理念を代表する物質ないし働きのシンボルであり、硫黄とは陽・攻撃性・父性原理・能動性・分解性といった理念に関わるシンボルであった。