642.輝安鉱と辰砂 Stibnite and Cinnabar (ウクライナ産)

 

 

Stibnite Cinnabar 輝安鉱 辰砂

輝安鉱(暗鉛色)と辰砂(暗赤色)と石英(白色) 
-ウクライナ、ニキトフカ鉱山産

Cinnabar 辰砂

辰砂の分離結晶(双晶) −ウクライナ、水銀鉱山産

 

輝安鉱 Stibnite はアンチモンの硫化物で、アンチモン鉱 Antimonite (命名:ハイジンガー(1845))、 アンチモニー・グランス(光り輝くアンチモン)とも呼ばれている。古くから知られた鉱石で、スパルタ人の墓所からは眉墨に使ったらしい粉末が見つかっている。

本鉱に硫黄が含まれることは、早く15世紀の錬金術師バシリウス・ヴァレンティヌスの指摘するところであった。空気中で加熱することによって生じる、硫黄が燃焼するときと同じ特徴的な刺激臭は疑う余地のないものだ。
吹管で木炭上に熱すると容易に融ける(マッチの火でも溶ける)。揮発成分が抜けきった後に、周囲の木炭上に酸化アンチモンの白色の堆積物が残る。塩酸に溶け、硫化水素ガスを発する。これもまた硫黄の存在を示す徴である。

中世期の錬金術師たちは、アンチモン精製の過程で生じるアンチモン・ガラスを重用したという。これは輝安鉱を擂り潰して強火でV焼(かしょう)し、土製ルツボに入れて揮発分(硫黄)を飛ばした残滓を、さらにふいごで熔解してガラス化させて作った明るい赤色の透明物質だった。強力な催吐剤となるが、治療効果の高い薬として扱われた。(備考3)
このガラスはまた金を精製する作用があると考えられた。15世紀には輝安鉱を不純な金と混ぜてルツボ中に溶かし、銀から金を分離するために用いた。このとき、輝安鉱の成分である硫黄は銀と結合して輝銀鉱(硫化銀)をなし、金属砒素や抽出された金が粒状の金属として回収できるのだという。さらに加熱によって砒素を飛ばして純粋な金を得た。
No.641に書いたが、今日ではヴァレンチヌスは 17世紀初にトルデン(ヨハン・テルデ)が創作した架空の人物とみなされている。しかし当時のヨーロッパ人はヴァレンチヌスを歴史上の先達にして大師と崇め、術書「Triumphant chariot of Antimony」(Currus Triumphalis Antimonii) を座右に、アンチモンを使った錬金の術に鋭意邁進し、化学上の発見を積み重ねたのであった。

精錬によって得られる金属アンチモン(アンチモン・レグルス)は銀鉛色で、固化した表面には三方晶系の自形結晶面が折り重なるように現れ、シダ状ないし星状の模様を形成した。「星のアンチモンの王」、「星の心臓」などと呼ばれた由縁だが、私としては原料であった輝安鉱などの一群のアンチモン鉱物もまた、放射状、扇状の結晶集合体として自然界に見出されるアナロジーを指摘したい。アンチモン鉱物は地底の星なのである。

輝安鉱は低温の熱水脈に鉛、水銀、銀を伴って生じ、また温泉に辰砂、石黄(オーピメント)鶏冠石を伴って産する(備考2参照)。結晶は柔らかく、石膏と同程度の硬度で、石膏同様、指先で折り曲げることが出来る。
輝安鉱というと必ず引き合いに出される日本産の標本は、明治初期(10年代)に市ノ川の鉱山に出たもので、 1880年代にヨーロッパにもたらされて脚光を浴びた(⇒ひま話)。幕府を倒した維新政府が漸く産業立国としての体裁を整え、長く鎖国状態にあった日本の物産が広く海外へ持ち出された時期であり、ちょうど我々現代の鉱物愛好家が、ペレストロイカ後にロシア・ダルネゴルスク産のバツグンにしてバッチグーな標本を目のあたりにして、あるいは開放政策が軌道に乗った中国から到来する大魔王的な標本の奔流を前にして開いた口を塞ぐことを忘れて見惚れた時のような衝撃を、当時のヨーロッパ人たちは経験したのに違いない。日本の輝安鉱は欧州にかつてなかった巨晶であった。彼の地の研究者はこれを以て、きわめて多数の結晶面、並びに条線の入った完全へき開面を伴う輝安鉱の結晶学的研究を推し進めることが出来た。

画像の標本はウクライナの水銀鉱山に産する有名標本である。辰砂との共産、またその辰砂が特徴的な錐状の貫入双晶を示すことで知られる。
辰砂の成分である水銀、硫黄というアラビア錬金術におけるあらゆる物質の起源たる二つの元素と、西洋錬金術が熱心に実験を繰り返したアンチモンの組み合わせこそ、オリエンタリズムの極致にして魔術的な元素の絆であろうよ、と言っておきたい(cf.No.82)。

余談になるが、何年か前、ある研究機関で赤色顔料の辰砂を蛍光X線で分析したことがあった。そのとき研究者は、「なぜかアンチモンのピークが出たんですよ」と分析計の信頼性に首をかしげた。しかし鉱物愛好家は、「そうですか、それなら合成じゃなくて天然の顔料なのでしょう。辰砂と輝安鉱はよく一緒に出ますからねえ」としたり顔で頷いたもので、初対面だった相手の博士に、何者?という目でまじまじと見られた。
当否はともかく、普段こういう標本を見ているから、つい分をわきまえず口の端に上したことだ。慚愧、慚愧。

備考:辰砂自体は「カドミウムやセレンなどを少量固溶する性質はあるものの、一般にかなり純粋な化学組成を示すことが多」いと、島崎先生は書かれている(石の上にも五十年)

備考2:輝安鉱の濃集が見られる場には、@火山岩や火砕岩(またその変質物)を母岩として地下浅所で生成された鉱脈鉱床と、A花崗岩質岩や堆積岩または結晶片岩中に生じた鉱脈の2者が主で、このほかB接触交代鉱床もある。市ノ川は2番目のケース。

備考3:今日、印判に用いられる朱肉は水銀を含む朱(辰砂)ではなく、メタ輝安鉱に相当する合成の非晶質物質。いわば赤いアンチモン・ガラス。(No.651 付記1にも同文記す)

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