140.パラサイト Pallasite (ブレンナム−1882年発見) |
石と鉄とが、時々天から落ちてくるという知識は古い(補記参照)。しかし、それが学問的に認められるようになったのは19世紀に入ってからで、18世紀にはただのおとぎ話だと思われていた。当時、実際の隕石落下は、ごくまれにしか観察できなかったため、古代の記録は学会から無視されていたのである。
1772年、ロシア人の探検家パラス氏は、クラスノヤルスクで目にした重さ 800キロ(1,600ポンド)もある巨大な隕鉄塊をペテルブルクに送った。現住民(タタール人)は、古くからこの隕石を知っていたが、コサックのメドウェデフが1749年に(再)発見するまで、中央の学者はその存在を全く知らなかった。パラス氏は、メドウェデフから不思議な石の話を聞いて興味を持ち、自ら確かめにいったのだった(1768年から1774年にかけて彼はウラルやシベリアを含むロシア各地を広く踏査した)。隕石があった場所は、エニセイ河の右手数マイル、支流ウベイとシャイムとに挟まれた、とある山稜(ボルショイ・エミル Mt.Bolshoi Emir)であった。発見された石は蜂の巣状の鉄の網目で出来ており、巣穴に当る各房にはかんらん石のような珪酸塩が詰まっていた。そんな石を見るのは、パラス氏には、まったく初めてのことだった。
「この石は、かっては赤い鉄鉱質の厚皮をかぶっていたように思われる。厚皮の中のものは、粗い海綿のように孔のあいた延伸性のある鉄で、孔のなかには、いままでに知られなかったような美しいかんらん石の丸い、あるいは細長い珠がつまっている。」とパラス氏は描写している。
原住民たちは、この石を天から落ちた聖物とみなしていた。また以前にも、同様のものが沢山落ちてきたと伝えていた。が、パラス氏は、この石をとても珍しいとは思ったが、天から落ちてきたとは考えなかった。見識のある学者なら誰もそんなことを真に受けない時代だったのである。
しかし、この石こそ、中世以来の長い迷妄を打ち破る突破口を開くものだった。こんな風変わりな石が、地球上で出来たはずがないと考える「物好き」が現れたのだ。1794年頃になって、パラスの石を研究したベリルン大学のF・クラドニ教授が、この石は隕石であると発表した。学会はこぞって彼を嘲笑した。
ところが不思議なことに、この頃から巨大な隕石が相次いで地球に落下し始めたのであった。イタリアのトスカナで、イギリスのヨークシャーで、ベンガルのベナレスで、隕石の落下が目撃された。
それでもフランス科学アカデミーなどは、「隕石落下は存在しない」とわざわざ決議表明を発表して、目撃談を打ち消したものである。すると今度は、狙い撃ちしたかのように、フランスに隕石が落下したのだった。1803年4月26日午後1時、ノルマンディーのレグル。そのとき晴れた空に遠く高く火の玉が現れ、やがて小さな雲になったと思うと、5,6分後に大音響が轟いた。そして2〜3000個の隕石片が、しゅうしゅう音を立てながら一帯に振りまかれた。数百人の村人がその様子の証人となった。
さしものフランス学界も、ついに隕石落下説を認めざるを得なくなった。(補記3)
そうなると、今度はあれも隕石、これも隕石という具合に沢山の隕石が確認され出したから不思議だ。パラスの石も再評価され、晴れて隕石と認められた。
学問は、こうして少しずつ進歩していくのである。
(因みに日本では1850年5月3日、岩手県の長円寺に落下した気仙隕石が有名。近年では
1996年1月に茨城県つくば市に落下が報告されている。
古い目撃談には 861年(貞観3年)5月19日に九州直方の村の神社の境内にものすごい光と音を伴って落下したと口伝される隕石があり、社宝として保管されている。隕石特有の三角錐形で黒い熔融皮膜を被った普通コンドライト。重さ
472g。地元のアマチュア天文家、馬込氏が直方市史の記事を辿って実物を見せてもらい、科博の村山氏に知らせて確認をとった。口伝の通りなら、目撃された隕石としては現存する最古のものとなる。)
今私たちが、美しいと思って鑑賞するパラサイトは、もちろんパラスの石に因んで名づけられたもので、ニッケル−鉄のマトリックスに粗粒のかんらん石を含むものをいう。地球上の石に、このような組み合わせはない。と、今だから断言しよう。
隕石中にみられるかんらん石の雅称に Celestial precious stone
(天宝石:by 木下事典)がある。
米国産の「ブレナム・パラサイト」は有名な石鉄隕石のひとつである。発見年は
1882年とされるが、カンザス平原の牧場主や農民はカイオワ郡ブレナム一帯に黒い石が散らばっていることを従来から知っていたという。畑を耕作しているとよく出てきたのである。
19世紀の終わり頃(1890年代)、この地に入植したフランクとメリー・キンバリー夫妻は掘り出した石を集めて納屋の外に積み上げていった。鉄と黄色いガラスのような結晶の入り混じった様子がメリーの関心を引いたのだった。フランクや近所の人は彼女を可笑しがったが、数年後にウォッシュバーン大学の地質学者を呼んで見てもらうと、果たして石鉄隕石だった。学者はその場で数十キロを買い取っていった。以来、キンバリーの農場は「カンザス隕石農場」と呼ばれるようになる。夫妻は最初の収益で隣の農場を買い取った。そこから米国最大のパラサイトが発見された。ブレナム・パラサイトの飛散地域はちょうどキンバリーの農地に重なっていた。後に(1930年頃)近くの町の名をとった「ハヴィランド・クレーター」が発見された。中から実際に隕石が発見された最初のクレーターである。
少なくとも 計4-5トン以上の飛散片が採集されており、1949年には450kg
の、 2005年には650kg
の巨大パラサイトが発見された。ニッケル分は 11.1%、ppm
レベルのガリウムやゲルマニウムを含む(※含有するニッケルとガリウムあるいはゲルマニウムとの比率で隕鉄をグループ分けすると、母天体の違いを判断することが出来る)。
錆びやすいことで知られ(ローレンサイト病)、保管には注意が必要。塩化物や内部の錆の除去処理が望ましい。アマチュアレベルで出来ることは、アルコール浴とオーブン療法。
画像の標本は日本の標本商さんから購ったものだが、おそらくは通称 Mr.メテオライト・マンのロバート・ハーグや仲間のデビッド・ベーカーらが 1980年代に採集したものの一端と思われる。約 160kg のパラサイト塊が採集されてスライス片が作られ、「魔法のように市場に現れた」という。
補記1:プリニウスの博物誌に、星の落下についていくつかの記述がある。
巻2-57
「ルカニアで鉄の雨が降った。降った鉄の形はスポンジに似ていたが、これは天上からの傷の前兆だった。(BC54年)
巻2-59 (BC467年)クラゾメナエのアナクサゴラスは、天文学の文献知識によって、ある月数のあとに太陽から岩が降ってくることを予言した。それは日中、トラキアのアルゴス川地区で起こった。(その石は今もみられる。荷馬車一台の積荷になる大きさで褐色である) その時は夜間に彗星も輝いていた。」「しばしば石が降るということは疑いのないことだ。」「アビドスの教練場で礼拝されているひとつの石がある。同じアナクサゴラスが落下を予言したものだ。「カッサンドレアにも礼拝されている石がある。それはポティダエアという名が与えられた場所で、この出来事によってひとつの植民市がおかれた。」「私自身、最近ウォコンティイに降ってきた石をみた」
こうした天降石が礼拝の対象になっていたことが分かる。(逆に言うと、礼拝の対象となる神石が天降の伝説を帯びていたことが分かる)
新約 使徒行伝 19, 35 に「エペソの諸君、エペソ市が大女神アルテミスと、天くだったご神体との守護役であることを知らない者が、ひとりでもいるだろうか」とある。このご神体は隕石だったのではないかと言われている。
cf. フェルスマン「おもしろい鉱物学」 (邦訳(1967) P.102 空からきた石)。
補記2:「ヨーハン・ファウスト博士の物語」(1587年 ヨーハン・シュピース著) 第二部31に「地に落ちる星についての別の質問」というくだりがある。
「輝いて地に落ちてくる星の働きについて言えば、それは目新しいことでなく、毎夜起こります。火花や炎が生じると、それは星から落ちる兆候です。われわれが隕石(ブッツェン)と呼んでいるものは、粘っこく黒く、半ば緑がかっています、しかし星が落ちるというのは、たんに人間の妄想です。しばしば大きな火の流れが夜落ちてくるのが見られますが、あれはわれわれが考えているような、落ちてくる星ではありません。星ではなくただ星の燃え滓(隕石)です。それは星の大きさに従って、あるものは他のものよりも大きいのです。そして神のとくべつな定めなしには、神が国土や人々を罰しようとなさるのでなければ、星は天から落ちて来ません。そのときそのような星は天の雲を伴い、それによって大きな、洪水、または、火事、そして国と人との破滅をもたらします。」(道家忠道訳 1974
朝日出版社「ファウスト」より)
W.T.ブランド(1788-1866)は、(ヨーロッパでの)隕石落下に関する最初の精確な記録は、バーゼルに近いエンシスハイム(エンシシャム)の教会に保管されているものだと述べている。「1492年11月7日水曜日、大きな雷の音がとどろき、一人の子供が天から落ちてきた石を見た。それは小麦畑につきささり、被害はなかったがそこに穴があいた。この音はルツェルンやフィリンゲンなどでも聞こえた。」とあるそうだ。
(※ 7日は当時使用されていたユリウス暦の日付で、今日のグレゴリオ暦では
16日にあたる。落下が目撃された隕石としてヨーロッパ最古の現存例。)
⇒詳しくは 鉱物記 隕石の話1
補記3:隕石に対する啓蒙期の科学者たちの姿勢は、「空から石が降ることはない」というより、「空から降る石が地球外起源と考えるべき根拠はない」に近い。
空から雹や魚や木切れや小石が降る現象が観察された時、まずは地球上での(気象)現象として解釈するのが穏当だった。これはアリストテレスの隕石観を踏まえた見解でもあり、仮に地上の物質でないとしても形成されたのは大気上層であって、他の天体から飛来したわけではないと解釈された。
キリスト教の世界観からすると天体は完全な調和のうちにある神の領域で、流星(メテオールと呼ばれる発光現象)の観察もその世界観を崩すものではなかった。
隕石を構成する物質は地上の物質と変わらないと考えられた。1768年にフランスのリュセに落下が目撃された隕石は、分析の結果、黄鉄鉱を含んだ砂岩とされて、地上起源と結論された。
その後、パラスの鉄が報告され、1794年イタリアのシエナ、95年イギリスのウォルド・コテージ、96年ポルトガルのエヴォラ・モンテ、98年インドのベナレスと隕石の目撃が続く。後の4つの隕石はコンドライトだったが、黄鉄鉱や金属粒(鉄)を含んでいた。1802年に各地の隕石(ウォルド・コテージ、シエナ、ベナレス)から採取されたこの種の金属粒と、シベリア(パラスの鉄)、ボヘミア産の自然鉄などを分析した
E.C.ハワードはいずれもが約 10%のニッケルを含む共通した性質を持つことを明らかにし、起源の同一性を示唆した。(ニッケルは1751年に単離され、発見された元素。)
翌年、レグルに落下した隕石の目撃調査報告によって地球外物質の落下が受容されると、ニッケルを含む鉄の存在は隕石(隕鉄)かどうかを判断する指標となった。
18世紀後半には隕石の上空形成説は批判的に受け取られていた。隕石は雷撃により地上で形成されたもの、または火山噴火などの飛散物と考えられ、「空からの落下」自体が否定されたが、一連の目撃例から
19世紀初には疑いようがなくなった。一方 1789年以降ラボアジェによって隕石の上空形成説がリバイバルしており、落下石の起源を気象現象とする考え方がその後半世紀以上にわたって影響力を持った。
⇒詳しくは 鉱物記 隕石の話2
追記:断言した後で歯切れの悪いことだが、最近、人工的に鉄の中にオリビンをちりばめたフェイクが作られているとの噂がある(と標本商さんに教えてもらった)。見た目、見分けのつかないものもあるとか。ただし、磨いてエッチングしてもウィッドマン・シュテッテン構造(模様)は現れないので、業者レベルでのチェックは容易らしい。(2003.5.22)