283.黄鉄鉱 Pyrite (スペイン産)

 

 

黄鉄鉱のボール−スペイン、リオハ(ログローニョ)、アンバサガス産

 

No.282でチラと触れた硫酸は、生産量が世界最大の化学薬品で、リン酸肥料、火薬、繊維・樹脂の製造、石油精製など、きわめて幅広い用途を持つ。硫酸の製造量は国家の産業水準を示す指標となり、自前の硫酸の確保には戦略的な重要性がある。

原料の天然硫黄や黄鉄鉱の利権、あるいは硫酸製造のノウハウは、かつて各国が争って手に入れようとしたものであった。ソビエトの大鉱物学者フェルスマンは、その消息を辛辣に語っている。

…長いこと硫酸は純粋な天然硫黄から得ていた。南イタリアのシシリー島は硫黄の大産地として知られていた。各国はイタリアに取り入ろうとした。しかしそれに失敗すると、自国の軍艦を派遣して、島のまわりを脅しのために巡船させたりした。そんなことをしたのは、ついでだが、イギリス人たちである。

しかし1828年、硫酸のためには必ずしも硫黄でなくともよい、黄鉄鉱も利用できることが判明した。黄鉄鉱の探索がはじめられた。そして1856年大々的産地がスペインの西部とポルトガルで発見された。黄鉄鉱は十分の量があり、採掘、運搬も容易だ。硫黄には強敵があらわれた。黄鉄鉱は硫酸工業でリードをとりはじめた。そしてイギリスの艦隊はこの時期にはもうポルトガルの沿岸に現われるようになった。(補記2)
硫黄と黄鉄鉱の闘争がはじまった。ある場合には硫黄が上に出、別の場合には黄鉄鉱が上に出た。しかしここに新しい事件が起こった。アメリカの硫黄事業者たちが、なんとか硫黄をもっと安く得る方法はないかと考えたあげく、フラッシュ技師が独特の方法を発案したのだ。北アメリカでは硫黄は数百メートルの深部にあるので、地下へ熱い蒸気が送り込まれ、硫黄は溶けてひとりでに地表に流れ出すようになった。この便利で安価な方法はシシリーの労働者や農民を破産させ、スペインとのはげしい競争を生み出した。黄鉄鉱はおしだされ、見捨てられんばかりになった。

しかし黄鉄鉱の採掘が機械化され、大資本が投入された。そしてスペインの黄鉄鉱の方が安くなった。また黄鉄鉱が勝利した。と、この時、狡猾なドイツ人が硫酸を得るさらに簡単な方法を見出した。石膏からも硫酸が製造できるのだ。…

いかに偉大な科学者といえども、その精神は時代や民族や祖国の空気を離れて存在しない。

 

備考:フラッシュ法は165℃の過熱水蒸気を鉱床に吹き込み、溶かした硫黄を加熱圧縮空気によって地上に押し上げる採集法で、1891年ハーマン・フラッシュ(ヘルマン・フラーシ 1851-1914)によって開発された。現在、硫黄の主力鉱床はアメリカのテキサス州やルイジアナ州、メキシコ、チリ、南アなどにあり、世界の硫黄の90%はこの方法によって採取されている。とはいえ硫黄の最も重要な供給源は、石油精製の際に副産物として得られるものである。

補記:ルイジアナの硫黄鉱床は厚さ500フィートの浮砂層の下に存在しており、1865年に石油のボーリング中に発見された。フラーシ(フラッシュ)は、半年以上をかけて硫黄の層に達する井戸を掘り、ボイラーの中で蒸気をあげる加熱水を、24時間の間休みなく地下へ送り込んだ。彼は相当量の硫黄原料が溶けたと判断し、次に吸い揚げポンプを運転させた。やがてスロットルについていた男が「硫黄が出てくるぞ!」と叫んだ。ロッドに現れた液体をフラーシがふき取ると、指は硫黄でおおわれた。5分もたたないうちに圧力容器が開かれ、黄金の美しい流体が樽に流し込まれた。作業が終わった後、彼は硫黄の山によじのぼり、てっぺんに腰をおろした。「温かい硫黄が収縮するかすかな音を聞きながら、うれしさがこみあげてきた。その音はまるで足下から送られてくる挨拶のように聞こえた」
1912年、フラーシはパーキン・メダルを授与された。そのときチャンドラー博士はこう挨拶した。「現在わが国に硫黄を供給しているルイジアナの鉱床は、ヨーロッパの国々にも大量の硫黄を供給することができるかもしれません。幸いにも、この会社の所有主は広い心の持ち主なので、シシリーの硫黄採掘にたよっている25万人の人々を飢えさせたり破滅させたりするようなことはしないでしょう」

補記2:イベリア半島の南西端には、イベリアン・パイライト・ベルト(IPB)と呼ばれる、火山性の塊状硫化物鉱床が多数分布している。スペインのセビリアからポルトガルまで延長 250km、幅約40km のベルト地帯に 10億トンと見積られる硫化鉱物が横たわる。有名なリオ・ティント Rio Tinto 鉱山は世界最大の塊状硫化物鉱床で、約5億トンの埋蔵量があるとされる。鉱体のサイズは5kmx 750m、厚さ 40mといい、元の鉱床は大部分が風化を受けて消失しているが、後に巨大な酸化帯(ヤケ)が残って採掘対象となっている。
リオ・ティントは紀元前に遡る歴史の古い鉱山でローマ帝国最大の銅産地だったが、中世期から長らく放置されていた。16世紀以降スペイン王室が何度か開発を試みたが華々しい成功には至らなかった。大規模な採掘が進められたのは19世紀後半のことで、当時財政的に苦境にあったスペインが国際競売にかけた鉱山をイギリス資本が買収し、1873年にリオ・ティント社を設立してからである。
リオ・ティント社は採掘法を坑内掘りから露天掘りへ転換し、大規模な近代設備を導入した。またカディス沿岸のウェルバ港まで鉱石を輸送する鉄道を敷設した。こうしてパイライト(黄鉄鉱)鉱石と銅鉱石とを英米、ドイツなどの市場に送り出して成功した。
パイライトは当時の花形産業だった硫酸工業の原料として大きな需要があった。1900〜1930年にかけて同社は業績のピークを迎えた。
二次大戦後の 1955年にリオ・ティント鉱山はリオ・ティント社(後の RTZ社)からスペイン資本に売却された。

ちなみにスペイン産として誰もが見たことのある端正なサイコロ形のパイライトは、主にリオハ県とソリア県にまたがるエリアから供給されているもので(最初に市場に現れたのは 1976年と言われる)、リオ・ティント産の標本はコレクター市場ではどちらかというと珍しい。cf. No.41
画像の標本はリオハ県産のパイライトで、一般的なサイコロ形とは少し趣きを異にして、立方体〜5角12面体形の小さな結晶が無数に群れをなしており、粘土質の泥灰土(マール)を接着剤として球顆状に固まっている。90年代によく出回った。標本の保存性はいいとは言えず、経年によって膨満して崩壊することを覚悟されたい。(2022.7.18)

cf. ヘオミネロ2

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