294.ルビー Ruby (アフガニスタン産) |
マルコ・ポーロは中国への往路、今日のアフガニスタン北西部、バダフシャン地方を通った。そのとき特産のルビーについて次のような見聞をした。
バラシャンは広大な国である…。この国にはとても美しく、それだけに値段もごく高い「バラス紅玉」(Balascus)という宝石が産出する。山間の岩石中に包含されているものだから、採取するためにはまず山中に洞穴を穿ち、次いで鉱坑でするのと同じように竪穴を深く掘り下げてゆく。もっとも採掘はシギナンという山で行われているだけである。それというのも、国王が一般の採掘を禁じ、死罪をもって違反者に臨むかたわら、王室用と限ってこのシギナン山を開鑿して紅玉の独占採取を行っているからだ。この「バラス紅玉」は国外輸出も厳禁であって、犯す者は死刑のうえに家財没収の罰を加えられる。
国王は部下に託してこの紅玉を諸外国の王侯貴族のもとにもたらさしめ、あるいは貢物、贈り物としての用途に充てる一方、一部は売却して金銀と交換するものだから、私掘、輸出を厳禁して紅玉の価値を常に高価に維持しようとするのである。
もし国王がこの紅玉の採掘並びに国外搬出を万人に許しでもしようものなら、諸方に持ち出される分量はそれこそ非常なものとなり、たちまちにして価値の下落を致すこと火を見るより明らかである。(平凡社完訳版より)
ちょうど現代のダイヤモンドと同じで、あまりに豊富に採れるため、供給を管理しなくてはその価値を維持できなかったらしい。この石は俗に Badakhshi Ruby、Al Balaksh と呼ばれ、あるいはバラシウス、バラス・ルビー(Balas Ruby)の名でも知られた。今日、バラスルビーというと、やや紫がかった赤いスピネルを指すことになっているが、本来はアフガニスタン産のルビーだったのである。
レオナルドゥスの「宝石の鏡」(1502年)には、「バラシウスは紫またはバラ色の炎と輝きを持っている。人によっては、この石はカーバンクル(ルビーのこと)が色と特徴を失ったもので、ちょうど女性の長所が男性の長所と違っているようなものだと考えている。またこの石は外部が全部バラシウスで、内部にカーバンクルが入っていることがあるので、バラシウスはカーバンクルの家だといわれている。」とあるそうで、当時、深紅のルビーと紫がかったバラシウスとを色や質感で区別していたことが伺われる。こうした観念から、後に両者を別種の宝石と考えるようになったのかもしれない。
東方見聞録の注解には、シギナン(Syghinan)山はアムダリヤ河上流のシグナン河流域の山地のことと書いてある。
しかし、実際にバラス紅玉として流通していたのは、カブールの東方60キロほどにあるジェグダレク(Jegdalek)で採れたルビーだったらしい。G&G誌の特集(2000年夏号)によれば、ジェグダレクの鉱山は700年以上に亙って採掘され、マルコポーロの時代には、クビライ・カーンを初め各国の貴顕に当地のルビーを売り込む富裕なイスラム商人たちが活躍したという。彼らはルビーとスピネルとをしっかり区別していたそうだ。
マルコポーロから200年後の1472年、ベネチアのジョゼッペ・バルベーロは、ペルシャの王アンスムカッサンの宮廷に大使として派遣された。そのとき、国王から宝石で飾ったハンカチーフを見せられた。ハンカチにはたくさんの宝石と一緒に、約2オンス半(345カラット)の重さがあるテーブル型に磨いたバラスルビーが載っていた。
また、17世紀の旅行家タベルニエは、30年以上にわたってインドの諸王国を巡り、100〜200カラットに及ぶ108個のルビーを目にした。彼自身も2オンス半のバラスルビーを扱ったという。当時のペルシャ王は165カラットのルビーを持っていた。こうして歴史を辿ると、昔は大粒のルビーがごろごろ転がっていたような印象を受ける。
余談だが、マルコポーロはバラス紅玉に続けて、「この国では碧玉もまた別の山に産出し、紅玉と同じ手段で採取される」と語っている。おそらくエメラルドのことだろう。アフガニスタン産のエメラルドは長い間歴史に忘れられていたが、20世紀の後半にパンジシール川流域の渓谷で鉱脈が再発見された。鉱物記「青金石の話」に示した地図の、ダッシュ・イ・ラワットあたりに鉱山が点在する。また、分析によって、ヨーロッパに伝わる古いエメラルドの中には、エジプト産やオーストリア産とともに当地のエメラルドが使われていたことも分かっている。
補記:中世英語の Balas、古代仏語の Balais、ポルトガル語の Balache、アラビア語の Balakhsh、いずれもルビーを意味した。
cf. ひま話「ルビーとスピネル」