コロラド州の州都デンバーは海抜約1マイル(1600m)の高原地帯にあり、通称マイルハイ・シティと呼ばれている。南北に長いフリーウェイが通じて、その東側は概ねだだっ広い平原、または緩やかな丘陵地帯、西側は30分ほど車で進めばロッキー山脈の裾に達する。リタイアした起業家や投資家などのお金持ちが好んで住むボウルダーはその麓町のひとつで、小さな古い鉱山町もいくつか散らばっている。北へ1時間ほど(100キロほど)走れば落ち着いた住宅地域であり大学都市のフォート・コリンズがあり、南へ1時間行けば観光都市コロラド・スプリングスに至る。
このフリーウェイ25号線沿いの景観は、デンバーの北側ではほとんどランドマークのない平原だが、南に向かうと、ところどころに浸食されたメサ地形を示すテーブル山やら大和朝廷の墳墓のような饅頭形の(モレーン状の)起伏を望んで飽きない。
コロラドスプリングスあたりでは西側はよほど山なみが近くなり、緑色の低い稜線を越えてむき出しの岩肌を持った独峰が顔を覗かせる。標高4,300mのパイクス・ピークである。アメリカ・ザ・ビューティフルを標榜する一大観光名所で、頂上に登れば周囲
360度を眼下に見晴るかすことが出来る。鉱物愛好家には、アマゾナイト(天河石)と煙水晶のステキなコンビネーション標本の産地として知られるが、世間では自動車のヒルクライム・レースの聖地として知られているらしい。
鉱山町クリップル・クリークはパイクスピークの南西の麓町である。コロラド・スプリングスから約60キロくらいか。麓といっても海抜は3000m近く、薄い空気に慣れる前にいきなり行くとヤワな日本人は高度障害に苦しめられる。波打つ連丘にひっそりと抱かれた静かな高原の趣きがあって、今でこそ車で簡単に辿り着けるが、19世紀中頃の開拓時代には周囲から隔絶した町といって差し支えない環境だったと思われる。樹林帯の限界高度に近いが景観はのどかで美しい。
コロラドでは1850年代にゴールドラッシュが起こり、60年代もブームに沸いた。大勢の山師たちが金を追って果てもない高原の丘陵地を歩き回った。しかしこのあたりは金が出ないとされたので、たいていの山師は近づきもしなかった。ただ一人、ロバート・ミラー・ウォマック(通称ボブ)という男は、カウボーイ仕事の傍ら15年近くもあたりの川筋を探して歩いていた。そして1890年10月20日、ついに念願の金を見つけたのだった。初めのうち、飲んだくれでホラ吹きの彼の発見を信じる者はなかったが、ひとたび金鉱を見ると目の色が変わり、数千人の山師が洪水のように押し寄せてきた。コロラド州最後のゴールドラッシュであった(補記1)。ほどなくW.S.ストラトンが最大の鉱脈のひとつ、インデペンデンス脈を掘り当てる。ここにクリップル・クリークは鉱山町として確固たる礎石を築く。
ちなみに町名のいわれは、その昔、ある牛飼いが馬に乗って小川を渉って土手を上がるときに滑落した故事によるらしい。馬は足を砕き、男は腕を折った。以来カウボーイらはその小川をクリップル・クリーク(手足の不自由な小川)と呼んだ。小川沿いに最初に出来た町はフレモントと名づけられたが、ボブがポーバティ・ガルチ(やせこけ谷)に金を見つけたとき、人々は先のエピソードを思い出してクリップル・クリークと改名したのだった。(補記2)
クリップルクリーク周辺の丘陵
町の遠望
鉱山のある丘(左側の丘)
1890年の町の人口は500人ほどで商店も 2,3軒しかなかったが、1892年頃から爆発的に増え、1893年には1万人が、1900年には2万人が暮らしていた。その前後の2、30年間、町は世界一のゴールドキャンプと謳われて、全盛を誇った。目抜き通りには商店や娯楽施設が並び、鉄道が通じて日に30便の列車が止まった。教会も学校も病院もホテルも建てられた。黒人が多かったが、たいていの家にピアノがあったというから、生活は随分潤っていたのだろう。とはいえ金鉱の発見者だったボブは
1909年の夏、無一文で亡くなった(彼は鉱区の権利をあまりに早く、安値で手放してしまっていた)。厳しいもんである。
いきなり降って湧いたような町だから、いろいろな騒動も起こった。Wiki
を見ると 1896年の火事のことがさらっと書かれているが、バンクロフトの下情に通じた著述によると、それは4月25日の午後のことで、いわゆる夜の蝶たちがダンスホールで喧嘩騒ぎを起こし、ストーブ(高原だからまだまだ寒い)を蹴倒したのである。木造の建屋はまたたく間に炎に包まれ、風に煽られて燃え拡がり、飛び火して商業地区を中心に町の半分を焼いた。そして4日後にはまた火事が起こって残り半分が灰になった。しかし勢いのある時分のことだから、人々はまだ余燼の舞う中で今度はレンガ造りの建物にしようと話し合い、町は2,3ケ月のうちに再建された。今日残る歴史建造物はこの年に遡るものである。ついでにいうと火事による死者は6名だった。(隣町のビクターも同じ目に遭っており、1899年、やはりダンスホールから出た火事で町が全焼した後に再建された。)
翌1897年の6月、歴史に残るもう一つの出来事があった。町で人気のパブのマダム、パール・ド・ベールがモルフィネの過剰摂取で亡くなったのだ。彼女には数百人の「友達」があったので、葬儀は町を挙げての盛大なものになった。もっとも葬列に加わりたい殿方と、妨げようとする妻たちの間ではぎりぎりまで激しい攻防があった、とバンクロフトは述べている。野郎どもの間ではパールは文句なしの人気者だったらしく、ずっと後、1978年に町の商工会がパール・ド・ベールの日を催している。そのとき公募され一等を獲った詩は次のように歌う。
パール・ド・ベールよ、なぜいない?
あんたは去ってはならぬのに
どこの鉱夫のあばら屋に、あんたはかくれているんだい?
トムかハリーと一緒かい、それともデュークかマックかい?
いつぞやうわさに聞いたけど
あんたはいまでも盛大に 乱痴気騒ぎをしていると
そうであったらよかったに
愛しいあんたは このやまの 鉱夫連中の人生に 華やぎ与えてくれたひと
石や金を掘る鉱夫たちはけして石部金吉なんかでなく、ちゃんと情の通った人間だったわけ。
これよりずっと有名な歴史的事件は10年近くにわたる激しい労働争議だった。上の2つの事件もその期間中のことである。
きっかけは1894年、ある鉱山のオーナーが労働時間を8時間から9時間に増やしたことである。当時西部の鉱山で働く鉱夫たちの多くは鉱夫西部連合(WFM)という組合に入っていたが、この組合の力を借りて大規模なストライキが始まった。オーナー側はデンバーからスト破りを呼び寄せ、両者の対立は不可避となった。鉱山のミルやシャフトが吹き飛ばされた。扇動者たちは拘束され、有蓋車に詰め込まれて遠くニューメキシコやカンサスの大平原に運ばれ、身一つで放り出された。知事は鉱夫たちを鉱山主側の暴力から守るためとして州兵の出動を要請したが、その後も血なまぐさい騒動はやまず、1903年までに公権の目的は組合勢力の一掃に移っていた。最後はシャーマン・ベル将軍麾下の軍兵1000名がクリップルクリークを制圧して秩序を回復し、ようやく町に平和が戻った。その間の鉱山側の損失は(逸失利益も含めると)数百万ドルといわれ、3500人の鉱夫が仕事を放棄し、33名の死者を数えたという。コロラドでもっとも激しい労働争議のひとつであった。
1900年代初、クリップルクリークにはおよそ
400の鉱山が稼働していた。最大の鉱山はポートランドで、半世紀間の操業で
6千万ドル相当の金を掘り出す。ほかに、ゴールド・コイン、キャッシュオンデリバリー(代金引換え)、エルクトン、ヴィンディケイター(弁護者)、インデペンデンス、プリンス・アルバート、メアリー・マッキニー、エルパソ、クリスマス、ハーフムーン、ワイルドホース、シッティングブル(座り込み牛)、ジョー・ダンディ、クレッソンといった鉱山があった。
町の東側のエクリプス・ガルチ(くらがり谷)にあったクレッソンは、おそらくポートランドに次ぐ鉱山で、質のよい鉱物標本はたいていここから出たものである。
クリップルクリークの高品位金鉱はほとんどがテルル化物で、代表的な鉱物としてはシルバニア鉱、カラベラス鉱、クレンネル鉱などがあった。これらはふつう脈の隙間に結晶を作り、平たい多結晶集合体をなして産した。クリップルクリーク独特のものとしては、カラベラス鉱の仮晶を留めた自然金やメロナイト(テルル化ニッケル鉱)があった。いずれも光輝に富んだ、形も美しい逸品揃いだったが、かなり脆くもあり、たいてい採掘作業で損なわれてしまった。小さな完全結晶はマイクロ鉱物蒐集家の人気の的で、紫色の蛍石のマトリックスの上に載ったものは殊に珍重された。
クレッソン鉱山には面白いエピソードがある。1894年に開かれたこの鉱山は1910年頃には採算が悪化しており、オーナーは頭を痛めていたらしい。1911年のある日、シカゴ・サロンで二人の保険外交員と一緒に酔っ払った彼は、興に任せて鉱山をカタに賭け事をした。そして負けて、譲渡証にサインしたのである。彼はむしろ厄介払い出来たとほっとしたかもしれない。しかし新しくオーナーになった元保険社員は、リチャード・ローロフスという有能な差配を雇い、なけなしの資金をはたいて鉱山につぎ込んだ。リチャードは積極的に新技術を導入してコスト削減を図り、操業を低品位鉱の大規模採掘に切り替えた。するとクレッソンは数か月を経ずして黒字に転じ、配当まで出来るようになったのだった。
新生クレッソンにはさらに幸運が舞い込む。1914年11月24日、第12レベルで働いていた鉱夫たちは、前触れもなくいきなり口を開いた晶洞に遭遇した。マグネシウムを燃して穴の中を照らせば、巨大な洞の中で自然金やカラベラス鉱やシルバニア鉱の結晶が煌めいていた。洞の大きさは高さ12m、奥行き6m、幅は5mあり、その壁も床も天井も、すっかり結晶で覆われていた。リチャードは盗難を防ぐため、洞の口に鋼鉄製の金庫扉をはめ込み、武装した張り番をつけた。
この巨大な晶洞は国際的なニュースになって、「アラジンの洞窟」だとか、「宝石店」だとか、「宝箱」だとか「百万長者洞」だとか取沙汰された。掘り出された高品位鉱は袋詰めにされ、錠前付のボックス車に封じて製錬所に送られた。ライフルと銃身を切り詰めた散弾銃(より広範囲に散弾が散って危険このうえない)で武装した護衛がついた。この洞から120万ドルに相当する金が採れた。写真撮影が禁止されたので、往時の様子は今では分からない。標本として残った結晶もわずかしかない。しかしデンバーの自然史博物館にはこの洞からでたテルル化鉱物の標本が展示されている。
洞が発見された数日後、ポートランド鉱山の社長がクレッソンを訪ねて、この洞を見せてもらったという。彼はこう語っている。「あの素晴らしい晶洞に立っていたとき、私はいったいどうやってこんな天然の造化が可能だったのだろうと思っていた。その金銭的価値なんか思いもしなかった。なんと表現したらいいか分からないが、世界中の金山の歴史を見渡したって、こんな法外な発見はないだろうよ」
クレッソン鉱山はその後も半世紀以上操業を続けて、約5千万ドル相当の金を産出した。
クリップルクリークの鉱山の多くは二次大戦中に活動を中断したが(国中の金銀鉱山がそうだった)、戦後再開して
50年代初に好景気を迎えた。しかしその後は急速に産量を落とし、ほとんどの鉱山が
1960年までに操業を終えた。クレッソンも1964年に閉山を迎えた。ある寒い、風の強い日だった、とバンクロフトは述べている。
この時点でクリップルクリークに産した原鉱金は1900万オンスにのぼった。金額にしておよそ5億ドル相当。米国でこの記録を超えるのは、ひとりサウス・ダコタ州のブラックヒルズ(4500万オンス)のみである。
鉱山町としてのクリップル・クリークの歴史はいったん終わり、1961年には市のほとんどのエリアが国定歴史建造物に指定された。採金活動は完全に止んだわけでなく、かつてのズリから低品位鉱を浚って屋外リーチング法による金の回収が続けられてはいた。それでも多くの人々が町を去り、多数の空き店舗と絵のように美しい空き家屋が残った。完全なゴーストタウンでないにしろ、人口は数百人まで減った。1970〜80年代には、旅行者は寂れて崩壊してゆく歴史的な街並みを見るためにクリップルクリークを訪れたという。町には旅行者めあてのレストランやバーが数軒あるきりで、あとはいたるところに荒れ放題の家屋が取り残され、割れた窓からレースのカーテンが丘を渉る風に揺れて見える、といった風情だったらしい。80年代の末にはズリ鉱も底をついた。しかしコロラド州は1991年、この町での賭博を認める法令を通した(コロラド州は原則的に賭博禁止)。多くの歴史的建物がカジノに改装されて観光客を引き寄せるようになった。カジノから上がる豊かな歳入が町に活気を呼び戻した。
そして1994年には町の東側、隣町ビクターとの間に、大規模露天掘り鉱山が開かれた。低品位の鉱石を大量に掘り出し、また極低品位のズリ鉱を含めて、シアン化物を使ったおそるべきヒープリーチ抽出法による採金が丘の上で行われるようになった。鉱山はクリップルクリーク&ビクター金山カンパニー(CC&V)が経営し、年中無休、昼夜二交代12時間シフトで操業されている。従業員は300名強。この鉱山もまたクレッソンと呼ばれる。
地下採掘は2、3の坑道を除いて行われていないが、将来いくつかの坑道は再開の可能性があるという。2005年時点でクリップル・クリークの総産金量は2350万オンスというから、いったん終焉した後の産量もそれなりのものと思われる。近年は年産約
25万オンスという。
というわけで、今日みるクリップル・クリークは、カジノの町として、また現役の金鉱山を擁する鉱山町として、観光客を集めている。町を歩けば、目抜き通りはカジノ(兼ホテル)と飲食店と土産物店とで埋められ、独特の退嬰的な雰囲気が流れている。通りを観光用のトロリーがゆく。町の看板に
9494FTの文字が目につく。かつて金が発見された標高(2894メートル)を示すキーワードである。
あるカジノの隣に、いろんな土産物をおそろしくごたごたに陳列した(ドンキホーテみたいな)土産物店があって、中でアイスクリームを売っていた。かなりリーズナブルな値段の巨塊を買って店を出て、歩道におかれたベンチに座って嘗めながら、カジノで遊ぶ通りすがりの家族連れを眺め、ヒープリーチの丘を眺めた。
薄い空気と低い気圧がもたらす激しい頭痛はいっこう収まらず、帰り道はアメリカ初体験の若い相棒に運転してもらって引き揚げた。
(補記1):ボブが金鉱を発見したエピソードは、一般には上に紹介したような形で知られている。しかし実際のところはこれほど劇的なものでなかったようである。ボブは1878年にすでにポーバティ・ガルチの岩石に金が含まれていることを知っていた。数年にわたって鉱区を設定したり探査活動を行ったりしたが実を結ばず、いったんは鉱区を手放した。しかし1890年に再度買い戻してやり直した。その時分析された鉱石サンプルの含金量は相当なものだったが、それでも援助者を見つけることができなかった。そこでやや捨て鉢にサンプルをコロラド・スプリングスの商店の窓に展示したところ、誰かがそれを金鉱(テルル金鉱)と認めたのだった。 1891年の秋には大勢の人々がポーバティ・ガルチに押しかけていたという。
(補記2)町名の由来にもいろいろな説があり、「暴発した銃の銃声に驚いた家畜が駆け出して、沢を越えて足を折った」というのもある。しかし最近では、故郷バージニアのクリップル・クリークを偲んで、ボブ・ウォマックがつけた名前ではないかといわれている。
露天掘り&ヒープリーチングが行われている金山
観光鉱山(地下に下りて坑道を観光できる)
古い鉱山器具の数々
古い縦坑に立つ櫓
町の入り口あたりに保存されている機関車
クリップルクリークとビクターは同じ鉱脈を掘った隣町
目抜き通り 並びはカジノと土産物屋と食べ物屋さんと。見上げると鉱山の丘
目抜き通り 鉱山の丘と反対に向かう側。やはりカジノなんかが軒を連ねる。
歩いて5分ほどで抜けてしまう通り。
アメリカ西部の最後のゴールドキャンプだそうな
(アラスカでゴールドラッシュが起こるのはこの後)
住民1200人ほどの小さな町。 鉱山では300人ほどが働いているらしい。
土産物屋さんにトルコ石のサンプルが…(非売品)
丘の中腹にヘリテージセンターがあって、昔の鉱山の様子を紹介している
2006年に出来た施設らしい
パイクス・ピークの山頂から眺めるクリップルクリークの金山
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