ひま話 ある坂田ファンによるサカタ・マンガ覚え書き2 (2021.10.9


サカタ・マンガ覚え書き」の続き。
坂田さんは 1975年に白泉社の「花とゆめ」から少女マンガ家として立たれた方で、2016年初にデビュー40周年記念本「総特集 坂田靖子 〜ふしぎの国のマンガ描き」(河出書房新社)が出版されています。詳細な年譜や作品リストが載っているので、これを読めば彼女の画業をほぼ把握することが出来ます。
ネット上では居酒屋はねうさぎさんが、長年、旗艦データベース的役割をボランタリーに果たされ、雑誌に掲載される新作の紹介もなさってきました。現在も「坂田靖子 Data Base」をご提供されています。
それはそれとして年来のファンを自任する私としても、私なりにサカタ作品(単行本)の紹介を試みたいという気持ちが出てきました。帯の惹句や、坂田さんご自身が雑誌のインタビューやホームページ SAKATA BOXの記事に吐露された裏話的コメントを交えつつ、多少のネタバレありで、どんな本なのだか(作品だか)ヒントをお伝えしたいと思うのであります。

◆坂田さんのお仕事感覚

70年代の坂田さんはデビューした白泉社と専属契約されており、同社の「La La」 には1976年からの創刊メンバーとして名を連ねました。雑誌というのはいろいろなテイストの作品がバラエティ豊かにぎっしり詰め込まれているのが有り難さで、読者はお買い得感と楽しい読書体験への予感とによって、カタいはずの財布の紐を緩めます。自らもお小遣いをやり繰りしてマンガ本を買っていたマンガ愛好家の彼女は、同人誌活動をされていたこともあって(子供の頃から本を作るのがお好きだった)、当初から自分の描く作品の質にシビアな倫理観を持っていました。
どうすれば読者は読んだことのない本をお金を出して買う気になってくれるだろうか、読んだ後で払ったお金に見合うと思ってくれるだろうか、次もまた買いたいと思ってくれるだろうか。
作品が一定レベル以上のクオリティ(読後の満足感)を持つことは、これを商品として売るプロ作家の読者に対する絶対の仁義立てであり、同時に次の仕事が回ってくるか、マンガ描きとして生活してゆけるかの生命線である、ということを自ずと肌で感得しておられたのです。(※高校時代はお昼のパン代を節約してマンガを買っていたので、いつもお腹を空かせておられた。)

雑誌には売れ行きを牽引してゆく(読者が買って読まずにいられないような)、力強い看板作品が1つ2つ必要で、それはフルコース料理に喩えればメインディッシュにあたりますが、メインディッシュだけでは料理として(雑誌として)成功しない。小気味よく楽しめて適度に気分をリフレッシュしてくれる(看板の連載に引き摺り込まれたディープな世界から連れ戻してくれる)箸休め的な、それでいて独自の世界観を示して見せる違った味わいの作品もまた不可欠だというのが彼女のお仕事感覚であり、自分がプロとして提供可能な役割と位置づけていたようです。(補記1)

元来、大河ドラマ的な重厚な作品を描く主役タイプでなく、脇を固めるサポートタイプの作家であって、軽い一品もの(エピソードが一話で完結する短編)で勝負するのが身上だと自己認識されていたのですが、それはある程度までその通りだろうと思います。
私は同時代的に雑誌で作品を読む派でなく、単行本にまとめられたものを後から買って読む派なので、一作家の作品だけを集めた本にお金を払う値打ちがあるかの方が重要に思えるのですが、作家本人としては生活資金はまずは雑誌掲載で稼いだ原稿料であり、単行本の印税は売れてきた後のボーナス(人気が出なければ単行本にしてもらえません)というか、あればラッキーな余禄だったのかもしれません。でも作家生活が長くなるほどこちらの有り難さが身に沁みてくるのではないかと思います。
ともあれ、自分一人が売れればいい、というのでなく、まず雑誌が雑誌として成功するのが前提条件で、その中に作家としての自分の立つ瀬があるという認識が、優れた心の配り方だなあと思うのであります。(実生活でもたいへん行き届いた面倒見のよい方らしい。)

ところで坂田さんの回顧談によると、昔の少女マンガ界の商業作品は特定のテーマやジャンル、作法に集中しており、というか偏っており、そこから外れる作品は存在しなかった(雑誌に載らなかった)そうです。一方、彼女が描きたい作品はその外れた方だったので、マンガ家になることを随分迷われたのだと。
しかし70年代に入る頃になると若い才能あふれる作家が次々とデビューされ、従来の枠に収まらない新鮮な作品がどんどん出てきました。そこで「こういうものを描いてもいいんだ!」と目から鱗に感動してデビューを目指して投稿を始めたそうです。(補記2)

1953年生まれの彼女が描きたかった(そしてマンガ家になって描かれた)作品というのは、戦後発展途上期の普通の日本の少年少女が日々の生活で出会う文化から自然に育まれる類のもので、60年代から70年代にかけての社会環境、彼女の場合は大阪や金沢の生活文化、学校生活、そしてマスコミ文化(映画やテレビで放映される番組や図書等の出版物)から着想されたものが土壌になっています。それは同時代の他の作家さんにも共通の嗜好/志向であって(特殊な環境で育ったのでない限りインプットはみな相似たりのはずで、どういうアウトプットが現れるかがその作家さんの個性です)、今振り返ってみると、なぜ彼女ら以前のマンガ家は描かなかったのかと不思議に思うほどですが、そのあたりが時代の空気なのであり、世代の違いというものでしょう。

作家の村上春樹さん(坂田さんより4コ上)はあるインタビューの中で、彼が10代を過ごした1960年代は、まだ日本人が外国に出るのは難しく、普通の人には外国旅行なんて夢みたいな時代だったと語っています。彼は「アメリカの番組をテレビで見て、アメリカの小説を読んでいました。アメリカの文化はそこら中に溢れていました。それなのにアメリカに行くことはできなかった。アメリカに限らず、他のどの国にもです。」と述べています(「夢の中から責任は始まる」より)
インタビュアーがアメリカ人だったので話題がアメリカに集中していますが、当時の日本にはヨーロッパ文化も同じくらいふんだんに入ってきました。もともと日本は海外の大陸文化に憧れを抱き続けた辺境の島国ですが、戦後の急速復興期には西洋の文化生活が輝かしいオーラをまとって見えており、出かけて行って直接触れることが出来ない分、いっそう熱心に息吹を求めたのかもしれません(占領政策の延長線で米欧礼賛が推進された事情があったかもしれませんが、少年少女はそれをデフォルトとして受容したのです)。
村上さんはそんな時代に多感な少年時代を送ったわけですが、坂田さんにも同じことが言えて、日本とは明らかに異なる文化がメディアを通じて入ってくるのを、地道な日本式の日常生活の中で(マンガと同等の)フィクションとして楽しんでこられた一人でした。それはいわば当時の日本の子供たちが遠くにあって嗅ぎつけた異文化の華やかな夢の香りであり、未来への予感でした。そしてその香りから、愉快でお洒落でエキゾチックな、ユーモアと魔法の雰囲気を帯びた別世界を想像の翼で膨らませてゆき、自らが表現者となって増殖させたいと願ったのでした。

坂田さんは伝説の肉筆回覧誌「ラブリ」1号(1972年)のあとがきに、こう書かれています。
「すてきなものは ありすぎたって ちっともかまいませんのに いるうちの半分も この世になく この世にあるうちの しはんぶん(※四半分)も 私達の手もとには ありません  すてきなものを ひとつでも さしあげたいと 思いました。…」
そうして彼女はやがて、自分が素敵だと思うものをどんどん世に送り出す人になったのです。

デビュー作「再婚狂騒曲」はエルドンという古代英国風の名前(エラダン/聖なる丘の意)をもつ13歳の少年が主人公のドタバタ・コメディです。28歳の母親をママンと呼んで甘え、再婚話を次々と壊してきた歴戦の士で、新しい求婚者に手を引かせようとフェンシングの試合を挑みます。
坂田さんによると、この作品はたまたま「花とゆめ」に客演した萩尾望都さん(1969年デビュー)の作品と同じ号に掲載されました。萩尾さんの熱心なファンたちが出版社にファンレターを出し、テイストの近い坂田作品を「これも面白い」と書いてくれたそうです。新人にレターが来ることは珍しく、お蔭で編集長が、「自分には分からないけれど、読者が面白いって言ってるから好きに描いていいよ」と任せてくれて次の仕事に繋がり、その後も描きたいものを自由に描かせてもらうことが出来た、自分はすごーく運がよかった、と語られています。ちなみに坂田さんは萩尾作品にぞっこんでした。

2作目の「ボク ネコ オバケの大作戦」は孤児院から叔母の元に引き取られてきた遺産相続権のある少年と言葉を喋る猫とが協力するドタバタ・コメディ。大階段のある邸に天蓋付きベット、メイド服を着た家政婦等々、富裕な欧米風のテイストです。再婚狂騒曲と同時に投稿していた作品。

3作目「サーミュの家」はマホー大学100人中99番で卒業した若い女性サーミュが財産はたいて買った古家に移り住むお話。家に棲みついていたオバケたちは彼女を追い出しにかかりますが、「窓べにカボチャをつたわせて、千年の年を生きた魔女みたいにくらすのが学生時代からの夢だった」と語るサーミュは負けません。やはり無国籍西洋風(イメージの中で育まれたフィクショナルな西洋風)の作品。早くから見せ始めたオバケ大好きの傾向。ハロウィン好きもすでにカボチャに現れています。こうしてサカタ伝説は始まったのであります。(いずれも単行本「エルドンの夜」所収)

◆初期の作品1 (単行本)

この4冊は 1975年から78年にかけて「花とゆめ」「LaLa(らら)」に発表された作品が収録されています。初期の坂田さんは読み切り短編を多く描かれましたが、同じキャラクターが出てくるものがいくつかあり、〇〇シリーズと銘打たれています。デビュー作のエルドンが主人公のものはエルドン・シリーズ。ジムという少年(と頼りになるお手伝いさんのラーラ)が出てくるのがジム・シリーズ。
学校のクラスの班分けでD班に属する5人組(と校長先生)が活躍するのがD班レポートです。道交法違反しまくりの頭文字Dとか、ミドルネームにDのつくアウトローの一族とか、モートレイクの魔術師ディー博士とか、とかくDがつくと一波乱なしではすみません。

掲載誌が中高生女子向けなので、基本的に坂田さんもお嬢様方に喜ばれそうな元気いっぱいの少年が活躍するコメディ作品を心がけたと思しいのですが、時折、彼女自身が「シリアス」と呼ぶ傾向が入ってくることがあります。彼女のシリアス作品は、やり場のない悲しみや閉塞感・無力感・絶望感が主人公を破局的な行動に向かわせるストーリーが特徴で、それもまた「描きたいものリスト」の一環をなしたのでしょうが、商業誌に向かない(需要がない)ド・シリアスなものは同人誌で発表するスタンスを持たれていたことを勘案すると、単行本収録作は商業レベルでも受容されたということでしょう(※雑誌に連載されず単行本が初出のものも)。ギャクやパロディ満載の短編に交じえて読むと、違った味わいの料理として光彩を放っているように思います。(補記3)

◆「エルドンの夜」(1977)
 エルドン・シリーズ3作ほか、コメディ系・ファンタスティック系の作品もろもろ。スラップスティックにドライブされた会話は、多分当時の幾分知的でおませな若年女子層の日常生活に共振する嗜好だったと思われます。「ベニスで死ね」の科白は今の若者でも分かるのかな(※トーマス・マン原作の美少年モノ・ヴィスコンティ映画(1971)が元ネタ)
美形で艶っぽい少年が活躍するこれらの初期作品(特に「薔薇だらけの庭」)を読んで、後にジュネ誌に活躍の場を提供した編集者さんは慧眼だなあと思います。
坂田作品に時折出てくる「にっこり笑顔で強引を通す女性」もすでに萌芽あり。ラストの「遥かな船」は一転して救いのないシリアスなお話。単行本が初出。いずれもイギリス風もしくは無国籍西洋風。

裏表紙見開きの宣伝文句は、「花とゆめが生んだユニークなまんが家坂田靖子の作品は決して単なるドタバタコメディではない。独特な描線の醸しだすおかしみ、上質な笑いは、さしずめフランス産高級葡萄酒のコク。そして一瞬ドキリとさせるところなど、なかなか大人の味わいです。それになんと10編収録。」
未成年女性にフランス・ワインのコクを語ってどーする?と思いますが、ちょっと背伸びした大人の気分が当時の標準。(男は黙ってサッポロだったりセブンスターだったり。)

「夜のお茶会」(1977) 
第二単行本。イギリス風もしくは無国籍西洋風が主体ながら、作品の幅が少し広がって、日本のお話、お耽美なお話も入ったバラエティに富んだ短編集に仕上がっています。
表題作はジム・シリーズの初め。2作入ってます。「しっかりお姉さんとやんちゃな弟分」のパターンは坂田さんの十八番。
ノラ猫さんこんにちは」は日本のお話で、塀に干した綿布団や瓦屋根の一軒家、裁縫ミシンや(サザエさんがドラ猫を追うような)室内用の箒、羽織をはおって炬燵に入る若い女性が妙にしっくり。「われこそはたまずさがおんりょう〜」の科白は、NHKでやってた人形劇「新八犬伝」(1973-75放映)で、おどろしい怨霊が登場する時に必ず切った口上です。
チャーリーの受難日」あたりからストーリー展開に余裕が感じられ、マンガ家稼業がイタについてきたと思われます。エルドン・シリーズは2作入ってます。坂田さんお気に入りと思しい、床面から天井まで上がる全面ガラス張り格子窓が描かれてます(このシチュエーションがある種の英国的印象を与える作品がいくつもあります)。
ミス・キャニオンさようなら」はイギリスの若い女性家庭教師モノ。ミュージカル好きの坂田さんは「メリー・ポピンズ」もお気に入りの一つ。 ラストの風景はゴッホ描く糸杉(星月夜とか)のテイスト。これは未発表作品で単行本が初出らしい。ゴッホ風糸杉はいくつかの作品に出てきて、後に「糸杉」というシリアス作品も描かれます。
春待ち月」のナレーション「時は戦国 嵐の時代」は「少年忍者 風のフジ丸」(1964-65放映)の歌詞。「殿」という呼び掛けは時代劇の定番です。(坂田さんは退屈の殿様のファン。)

見開きの宣伝文句。『メランコリックで、リリックで、ちょっぴりハッピーでまことに馬鹿々々しい坂田靖子のまんがは、熱狂的ファンを全国的にひろげつつある。本巻には、既刊「エルドンの夜」に登場したエルドン君をはじめ、ラーラに弱いジム君、初の時代劇「春待ち月」など、珠玉九編を収録。』
アンニュイで、ファンタスティックで、ちょっぴり哀しくてまことに騒々しい、と言い換えても通ると思います。

「青絹の風」(1978)
コメディが2編(ジムとエルドン各1つ)で、ほか4編はしっとりした抒情的なお話やシリアスなお話で構成された短編集。
表題作は、売れない芸術家が有名詩人を頼って自作を盗用されます。三木露風の詩に寄せた題名。
夢見たものは」は生きる哀しみに満ちた姉弟もの。ラストに立原道造の詩が詠われます。坂田さんは道造のファンで、SAKATA BOXに「立原道造 -風の中の詩人」というコラムを書かれてます。補記4に一部を抜粋。
もとはといえばライラック」はエルドン・シリーズのコメディ。「たたりじゃ〜」の科白は 1977年に映画化された「八墓村」から流行語となり、いろんなシチュエーションで多用されました。なんでもかんでもタタリで済ませることが出来て便利でした。

見開きの宣伝文句。『メランコリックどたばたコミックといった感じの作風で既刊「エルドンの夜」「夜のお茶会」など読者の支持を得てきた坂田靖子がシリアスな漫画を描いた。それがまたいい。表題作「青絹の風」の他、魅惑の作品 5編をそろえた傑作集です。巻末に書下ろし「金沢雪ばなし」を付す。』
坂田さんは大阪生まれで金沢に育ち、そのまま金沢に腰を据え根を張り、デビュー後はめったなことでは動かない金沢のヌシとなりました。さながら千年の年を生きた魔女の如く。外国風の作品を多数描くも、それは渡航経験のない彼女の頭の中に醸し出された架空の世界であり、現実の外国とは違います。そもそも彼女は独自の世界を創作しているのであって、その世界が実際の土地や時代の風俗に一致するかどうかは重要でないのです。

「ぼくらは優等生」(D班レポート1) (1978)
表題作含め3作のD班ものは、(おそらくイギリスの)ミドルスクールに通学する男子生徒5人組のお話。ではイギリスのお話かと言うとそうでなく、日本の「時事ネタとパロディのオンパレード」です。校長先生はケンブリッジ出身で、D班の面々も日本的でない名前を持ち、見かけも日本人ではありませんが、明らかに日本文化を生きる日本人マインドの持ち主です。例えば髪型がマッシュルームカットのマッシュ君は、ケーキなんか焼いてみたいと言うのですが、そのレパートリーは「しいたけーき」に「うなぎパイ」、「あゆショート」なのです。班長のパスコーリ君は「今日を知る男の香り-ダーバン」(※日本の紳士服ブランド)なんちて気取ってますし、トロップ君は「オニのパンツ」をはこうと歌います。イギリス人が読んだら何のことやら分からないでしょうけど、我々日本人はピンときてニヤリとするのです。

みぞに落ちて雪の中転がって雪だるまになるのは、そのまま金沢の冬と思います(雪を掻いて捨てるため側溝に蓋をしないので)。羽飾りつけて踊りながら、UFOとか、モンスターとか掛け声をかけるのは当時人気の女性デュオのものまね。テレビでやってた歌謡ショーや洋画劇場を見てると分かるネタがいろいろと。学校でボウリングの練習をしてたのも日本のブームの反映でしょう。
バレンタイン・チョコのエピソードで、「あたりまえだ 女の子が男の子に贈る日じゃないか!」のセリフがありますが、のんのんのん。それは日本の風習で、イギリスではフツーに男の子からも贈ります(赤いバラと共に)。つまりD班レポートは容れ物はイギリスで、中身が日本という仕組みなのです。読者と同じ年頃の外人風の少年たちが、同じ文化目線ではっちゃけているわけで、D班は随分人気を博しました。このシリーズから坂田ファンになった方も多かった様子。

最初は3回の連載で終わるはずでしたが、読者も編集も気に入ってくれて延長が決まったそうです。でも、「連載続行になった時に実はあまりネタがなかった。途中で描いているのが辛くなってる時期があるんです。」(ぱふ 82-2)とか。この単行本には最初の3回分が載っているわけです。
私のD班の感想を言うと、坂田さん描く若年男子はつねに無垢。というか悪に乏しい。そのわりに機知に富みすぐに策略を思いつく。しかしミッションはいつも途中からジョークになってしまう。

春いちばん」(副題:家族団欒図)はわりと正統なイギリスもの(と思います)。よるべない浮浪児や孤児(遺児)や貧民の子が、裕福な家庭に保護されて幸せを見い出すのが坂田ワールド。宝石のアメジスト(紫水晶)が出てきますが、アメシストでなくアメジストと呼ぶところが当時の日本の流儀を示す文献証拠。
ハイランド館」は洋風サスペンス映画テイストの一種の貴種流離譚。ラストはなぜかおばけワールド。
ハッピーウェディング」は未発表作品で、絵柄がえらく違います。デビュー前後に描いた作品ではないかな。坂田さんは手塚治虫や水野英子さん(女手塚と呼ばれた)の大ファンで、最初の頃は彼らに似た丸みのある艶っぽい描線を真似ていたようです。科白にある「三食・ひるねテレビつき」の主婦業は当時の日本文化の一翼でした。
お手伝いさん(家政婦)文化はそろそろ廃れかけていたかも。余談ですが、昔はお手伝いさんの出てくるTVドラマやマンガが普通にありました。大場久美子の「コメットさん」は 1978年放映の、バトンを振って魔法を使うお手伝いさん。初期「コメットさん」は1967-68年の放映。テレパスのお手伝いさん火田七瀬が登場した筒井康隆「家族八景」が1972年。和田慎二に「超少女 明日香」(1975-1976年)あり。余裕のある家庭の風習だったにしても、ある程度まで身近な存在だったのです。そして何でも出来る人のように見えたわけ。

 見開きの宣伝文句。『坂田靖子の新境地、愉快ないたずらっ子 5人組の大活躍 −D班レポートを中心に編んだ初期傑作集です。「窓辺のバレンタイン」「ぼくらは優等生」「ミュージカルアワー」「春いちばん」「ハイランド館」の他、「私の映画狂時代」と未発表作品「ハッピー・ウェディング」を収録しました。』

続きはページを改めましょうか。
いやあ、坂田マンガってほんっとにいいものですね。それでは、また「サカタ・マンガ覚え書き3」でお会いしましょう。(…って、ホントに続くかなぁ…)

 

cf. ベル・デアボリカ

補記1:「私はまんが描きを職業としているのですが、種類的にはサブ担当でして、メインに立って本を売るタイプのマンガ家ではありません。(サブ担当というのは、要するに雑誌の中での薬味とか調味料とかデザートみたいなものだと思っていただけばわかりやすいかと思いますが、メインの作家さんは、人気連載で雑誌の売り上げを伸ばし、よりたくさんの人に面白がってもらって雑誌の業績を直接引っぱっていく、お肉とか主食とかのようなお仕事。
それを読もうと買ったら一緒に載ってて、他にないような話で面白かったんで、次に「この人も載ってるんならこれも買おう!」という、雑誌の個性づけとか、濃さとか、グレードや雰囲気なんかを上げていく側の担当が、サブの役割です−−−と自分では判断しています)」2001.7.20 sakata box より

補記2:坂田さんによると、昔は「少女マンガの主人公は少女でなくちゃいけない」というルールがあったそうです。それでマンガ家になろうと思った時、「私がおおいに面白がって読んだり観たりした、男の子が大冒険する話や、イキな老紳士が活躍する話や、すてきなご夫婦がシックに暮らす話etc...を描けない」ことに気がついて非常に困ったとか。しかし潮目が変わってやがて「男の子が主人公だったりしても、読者の人が読んでくれるようになって」、おかげで私もマンガ家になれた、と仰ってます。(cf.「考えるのは漫画のことばかり」(魔法圏)より)

補記3:村上春樹さんはアメリカの作家フィッツジェラルドの短編と長編の書き分けについてコメントしてこう言っています。「彼は基本的に短編小説は生活のために、雑誌に依頼されて書いたけれど、長編小説はあくまで自分のために自発的に書いたということです。…だから短編小説のほとんどは、営業政策上ハッピーエンドにしなくてはならなかったけれど(モーツァルトが長調の作品ばかり作らされたのと同じです)、長編小説の場合はその必要がなかったわけです。…彼は何の留保もなく、自分というものを長編作品の中に詰め込むことができました。」(「短編小説はどんな風に書けばいいのか」より)
坂田さんの場合は、商業雑誌掲載の短編とそれ以外の短編(前者の単行本化に趣きを添える形で初めて世に出たり、同人誌に発表された作品)とで分けて同様のことが言えそうに思います。前者はお洒落でお気楽な楽しい作品で、生活費を稼いだ。後者はシリアスないしド・シリアスな作品で、お金にならなくてもいい覚悟で描いていた、と。もっとも後者であっても単行本(短編集)に収録する場合には商品価値が生じたわけですが。また同人活動的に描いていって、後で商業誌に発表の場を得た作品もあります。「ベル・デアボリカ」はその一つ。(「青絹の風」もそうかな) 作家として名前が売れれば、その人の描いたものなら地味でシリアスでも読んでみたいと思うファン層が生じてくるのです。

補記4:『で、その人の書く詩なんですが、「普通、人に見せるのが恥ずかしいから書かないよな・・・」 というような、俗に「少女趣味」と揶揄されてバカにされるようなタイプの詩を、この人は平然と書いていました。
いや、「平然と」 というのは違っていて、「堂々と」 というのでもなく、「これ以外に書きたいものはないんだ!」 という、ものすごい戦闘姿勢で書いていました。
−−−で、この人の詩には、そうして書かなければいけないほどの、 (「甘い」だの「少女趣味」だのという批判にかまっていられないほどの) ものすごくしっかりした骨組みがあるのであります。 (私は何となく、”さすがに建築家だな・・・”と思いました。 建築家というのは頭の中にある夢の風景を、実際に現実に、しかもものすごく頑丈に具現化する、大変珍しい種類の職業です。)』(2002.8.  sakata box より)
 


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