698.プランシェ石 Plancheite (コンゴ産)

 

 

塊状のプランシェ石(プランヘ石、プランチェ石:濃青色)、
クリソコロラ(淡水色)、孔雀石(緑色) 
-ザイール(当時)、シャバ州カムボーヴ産

 

1980年代の日本にはある種のノスタルジックな空気感がある、と私は思っているのだが(なにしろ30年も前だし)、とりわけ 1985年に至る数年間には前向きな澄んだ明るさが具わっている気がする。「いい時代になった」という感覚が若い人にも年輩の人にも共有されていたように思われ、実際そんな感懐を耳にすることも多かった。
1984年春に公開されたアニメ映画「風の谷のナウシカ」は、少女の愛が奇跡を呼んで世に数多のナウシタンを生んだ、当時の風潮を象徴するような世紀末SFファンタジーであったが(骨のある男っぽい熱血ヒーローは鳴りを潜め、美少女パワーは向かうところ敵なしで)、翌年リリースされた OVA の草分け「メガゾーン23」は、巨大宇宙船の中に再現された1980年代の東京が舞台のSF作品であった。人々は「今が一番いい時代のような気がする」と感じながら暮らしている。というのも船内の住民がいつも幸せだと信じられるよう、宇宙船を管理するコンピュータが、過去でもっとも良い時代・世界だった 80年代(85年)の東京を演出しているからなのだ。今思えば相当に黙示録的なコンセプトである。(cf.補記)

ともあれその頃、人びとは未来に対して楽観的だった。懐に余裕が生まれ、日常に必要のないものにも消費需要が昂まる気配があった。生活用品でも高額なものが売れはじめた。上昇志向に文化志向が伴い、視線は海外に向かっていた。欧米の文化がどんどん日本に入ってきて、歌謡曲の歌詞などは英語のパートの方が多いような訳わかめなものになっていた。ツアーや格安航空券を利用した海外旅行も盛んになれば、帰国子女が一種のステイタスとなってホームステイや留学も花盛りであった。
欧米の文化や文物、ライフスタイルにじかに(身近に)触れられるようになった実感が日本の空気を眩しく刺激していたことは、鉱物趣味と何の関わりもないようながら、やはりその後現れることになる幅広い愛好家層を育む土壌として作用したように思われる。それは手を伸ばせば届くところにある憧れ、なのであった。そして標本商氏たちは買い付けのためツーソンショーに出張るようになっていた。
私は80年代末から90年代にかけての鉱物趣味(とくに海外産標本蒐集)は、そうした憧れというかハイソな文化的気運に先導されたものであったと信じている。我々の主たる関心はけっして学術的ではなかった、と思う。鉱物学が含まれていたとしても、それは直観的に「おもしろい」「楽しい」部分であり、「石はふしぎ」という理解を支えるもの、つまり文化教養としての鉱物知識であった。 cf.No.706

画像はプランシェ石の塊状標本。種名記載者のラクロワに標本を提供したプランシェ氏に因んだ鉱物で、1908年に報告された。銅の水和珪酸塩で組成式 Cu8(Si4O11)2(OH)4・xH2O。秋田県の亀山盛(きさもり)鉱山に産出が報告されており、長らくプランヘ石の和名で通ってきたが、最近はプランチェ鉱とも呼ばれている。
この標本は淡水色のクリソコラや緑色の孔雀石を伴い、No.697で紹介したビスビー石が本鉱とクリソコラとの混合物であると言われれば、いかにもありそうなことと思わせる代物。プランシェ石の記載はビスビー石(1915)に先行するので、種名優先権がある。
ちなみにビスビー石 (Cu,Mg)SiO3・nH2O を記載した shaller は、同じ年、同じ原産地(シャタック鉱山)からシャタック石 Shattuckite をも報告した。これまた銅の珪酸塩で、組成式は Cu5(SiO3)4(OH)2 。組成を眺めると、ビスビー石はむしろシャタック石に近いようにも見える。水和物でないところが、ビスビー石やプランシェ石との違いのようだが、プランシェ石の含水分は沸石水の性質を持っており、結晶構造はシャタック石と類似だそうだから、この3者の同定にはビミョウなところがありそうに思われる。

(補記)1984年の映画「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」は、今の日常生活を至高の時と感じて永遠に続けたいと願ったラムの夢が具現化された世界を描いた。同じ年、芹沢広明は「ナイン完結編」において、今を一番輝く夏の時と呼び、夢の時と観じ、「変わらないでね」「あの日のまま 生きていてね」と歌った(エンドレスサマー)。1985年、TOM CAT★は「サマータイムグラフィティ」に「私はけして変わらない」と歌った。1986年にヒットした Tube の「シーズン・イン・ザ・サン」は「太陽の季節よ止まれ…いつまでもこのままでいたいのさ・・・夏よ逃げないでくれ、もう少しこのままでいたいのさ」とこれから始まる時を憧れの言葉に封じた。人はそれぞれに眩しい神話の時、夏の時を生きて、それが束の間と知りながら、いつまでも変わらずにと願ったのだった。もちろん現実の時は過ぎて、当時の我々は「その後」を生きた。
余談だが、1982年、ヨーロッパでは 白いギターを手にした 17歳の少女ニコル(西ドイツ)が、ユーロビジョンソングコンテストで「ここに少しばかりの平和を」(Ein bißchen Frieden)を歌い、優勝に輝いた。東西のドイツではこの曲が毎日のようにラジオに流れたという。ベルリンの壁の崩壊に先立つこと 7年、エロイカとNATOの少佐がミーシャと遊んでいた時代である。1980年のモスクワ・オリンピックはアフガン侵攻を受けて西側諸国の集団ボイコットをみた。
私はDW(ドイチェ・ヴェレ)の日本語国際放送でこの曲を聴いてた。日本語曲名はこのときの紹介に拠る。英語バージョンは "A Little Peace"。

(補記2)よくよく考えてみると、「バラが咲いた」(1966) は、「いつまでも ここに咲いてておくれ」と歌うし、「わたしの青い鳥」(1973)は、「どうぞいかないで このままずっと」と歌う。してみると、現状の永続を祈るのは幸せを感じる日本人の普遍的な心性であるか。

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