705.水晶  Quartz (スイス産ほか)

 

 

水晶 −スイス産

 

松岡正剛 千夜千冊 0119夜から話題をもう一つ。こんな一節がある。
「もともと鉱物図鑑のたぐいの値打ちは、たいていは写真や図版によって決まる」、「それはそのとおりであるのだが、図版(イラストレーション)はともかくとして、鉱物については自分で採集した逸品を載せるということが条件になる。借り物ではダメなのだ。本書(益富寿之助著「鉱物」)は可憐な一冊でありながらも、その点でもすごい。なにしろすべての鉱物サンプルがマストミ・コレクションなのである。」

図鑑の値打ちは写真や図版で決まるが、こと鉱物に限っては自採の逸品を載せることが前提だ、と言うのだが、これはビミョウな言明である。なにしろ標本が「すべて」益富博士のコレクションであることを以て「すごい」と褒めているのだから、そんな図鑑の方が珍しいことくらい松岡氏はよく分かっているのである。
例えば 木下亀城編纂の「原色鉱石図鑑」(1957 保育社)シリーズは長い間本邦ほぼ唯一の包括的な鉱石図鑑としてデファクト・スタンダードだったが、地質調査所(当時)はじめ、相当数の企業(鉱業所)、大学、学者方に資料提供を願って成立したものである。世界的にみても、スタンダードな図鑑の類は著者/監修者が所属する国や州や大学の自然史博物館のコレクションをベースとするのが常道である。
そもそも図鑑の本義からいえば、載っている標本が自分で採集した逸品である必然性はなく、標本のライト・スタッフはもっと別のポイントに求められる。

では、なぜ松岡氏はこんな条件を神聖視したのか。なぜ我々鉱物愛好家の胸にこの主張が響いてくるのか。
そこには、戦後から高度成長期にかけての日本の鉱物「趣味」のあり方と、ポケット図鑑の位置付けと、鉱物標本の特殊性とが関わってくると考えられる。

第一に、草下氏のフィールドガイドで表明されているように、鉱物コレクションはかつて基本的に採集によって得るべきもの、得るほかないものだった。1980年代以前、海外産品を集めるという選択肢はたいていの愛好家にとって夢のまた夢であった。コレクションは自分(や仲間たち)が採集した国産品だった。

第二に、松岡氏が述べるように大方の愛好家が鉱物学に分け入らないとすれば、書棚に飾る本格的な鉱石図鑑はともかく、彼らが愛用するポケット図鑑の類は産地での採集ガイドとして活用されるべきものだった。(国内の)どこに行けばどんな鉱物が採れ、それはどんな地質のところで、どんな産状で、どんな形で、どんな鉱物を伴って見つかるか、どんな風に識別すればいいのか、といった採集に役立つ情報がキモだった。一般にアマチュアにとって図鑑は(昆虫図鑑や植物図鑑も同じだが)、手元の標本を同定する際に参考となるべきものである。

第三に、こと鉱物に関しては、一個の標本の形や色や産状は、必ずしもその種の特性を網羅しえない特殊な事情がある(種の定義は本質的成分の化学組成と結晶構造とに基づいている)。一方、ある産地で採れる標本は、しばしばその産地に特有の特性を帯びる。だからフィールドガイドとしての図鑑は、然るべき産地の標本が載っているか、然るべきその特性を提示しているか、が肝要であった。(補記1)

そして第四に、これは私の気持ちでもあるのだけど、ポケット図鑑は読者の採集・蒐集意欲をおおいに鼓舞するものが歓迎された。そのテキストは鉱物への愛にあふれ、蒐集の楽しさを伝え、標本の写真や図版はいつかきたるべき収穫物の素晴らしさを眼にもの見せ、憧れと期待に胸を弾まさしめるべきものなのだった。

以上をまとめると、理想的なポケット図鑑の著者は鉱物趣味の先達でありたい、その本は初学の少年たちを幸せに満ちた採集の日々に導き、督励し、趣味のひとつの目標地点を指し示すものでありたい、のである。著者は未来の少年の像なのだ。
著者が自ら採集した逸品を載せた図鑑が少年に向けてものすごい光を放ちうる(cf.No.704)のはそんな消息があるからで、たとえ逸品でも自分で採ったのではない標本は、一国一城の主として採集家を志す誇り高き少年の目に「借り物」として映るわけなのである。
松岡条件は、少年時代に採集を謳歌した、日本のある世代層の体験に支持されて存在しているのだ。

そう見てくると、海外産の標本がコレクションの対象として我々の視野に入っている今日、購入が採集に代わる「狩り」として重要性を増した今日、ポケット図鑑のひとつの理想は、おそらく有名博物館の収蔵品カタログ然とした「絵に描いた餅」図鑑ではなく、市場に流通している世界各地のステキな標本を、あるいは今も採集可能な(国産)標本を、蒐集の喜びを込めて紹介する類の図鑑であろう。著者が購入または採集した逸品を、惚れ惚れするよな写真によって表現したものであろう。
90年代、楽しい図鑑が圧倒的な支持を得た理由の一端も、おそらくそこにあっただろう。頑張れば手が届く、あこがれ。
図鑑は手元の標本を同定する手引きであると同時に、蒐集の手引きでもある。(補記3)

補記1:鉱物標本の特殊性の一つとして、第一級クラスの標本に関しては同じものが二つと得られないという点も挙げられる。図鑑に載った逸品は、その鉱物標本のひとつのピークとして意識されるのである。その点については博物館級の標本を載せた図鑑にも美術書としての意義がある。蒐集の役には立たないとしても。
ちなみに昔の鉱物学者が蒐集し、和田、若林、高などとその名を冠されたコレクションは、アマチュア愛好家がはるかに伏し拝む「権威」であった。しかしそれらは今日まず二度と手に入らないものでもある。

補記2:益富博士の「鉱物」には、アメリカ・アーカンソー産やスペイン産、ブラジル産、スイス産の水晶、ブラジル産のトパーズやコロラド産の天河石の標本などが載っている。もちろん博士のコレクションであろうが、自分で採集されたものではあるまい。
本の終りの方に次の言葉がある。「鉱物学をマスターするには、読書と採集と多くの標本を見たり、手にとっていろいろと試したりすることである。しかし自分の採集には限度があるので、各地の博物館の見学や地学標本商社を利用することも必要となる。」
博士が自己採集に拘らなかったことは明白である。採集の限度を越えて進みたい。

ちなみに、益富地学会館監修藤原卓解説の「日本の鉱物」(1994 成美堂出版)は、一部にアマチュアコレクターの標本が使われているものの、大部分は益富コレクション由来のものである。これもまた採集家の胸を熱くさせたポケット図鑑のひとつだった。

補記3:堀秀道「楽しい鉱物図鑑」(1992 草思社)の標本のほとんどは購入費用が出版社持ちだったため、出版当時は、筆者の手元に保管されていながら筆者のコレクションではない、というスタンスを取っておられた(cf.ひま話 楽しい鉱物図鑑標本展)。しかし図鑑には「自分で採集した逸品」も何点か載せられている。

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