710.ルビー Ruby  (ベトナム産)

 

 

コランダム(ルビー) −ベトナム、北部地域産

ルビー カット石 −ミャンマー、モゴック産

 

赤い宝石の代表格ルビーといえば、ヨーロッパでは古来ペルシャやインドから渡って来るものが知られていたが、近代に入るとミャンマー・マンダレー北方のモゴック(モーゴク)宝石地区で採れる「真紅で大粒で無傷の」宝石が最上とみなされるようになった。20世紀初の植民地時代には現地にイギリス資本のルビー採掘会社が設立されたほどで(補記)、宝石商のルイス・コルニツァーはシャム(タイ)やセイロン(スリランカ)でもよいルビーが採れるがビルマ(ミャンマー)産には敵わないと述べた。
最上のルビーの色が鳩の血の色(ピジョン・ブラッド)に喩えられることは日本でもよく知られているが、実際にそれがどんな色か指摘できる人は少ない。だいたい日本人で鳩の(新鮮な)血の色を識別できる人がどれだけいるのかという問題は別にして、またピジョン・ブラッドの定義が業者さんの間でも一致しないということも別にして、そんな宝石は普通の人はまずお目にかかることが出来ないからである。
コルニツァーは「宝石、それは石ではない。宝石、それはあまりにも希少なもの。」と書いたが、かつては宝石商といえども最上の宝石に出逢う機会は生涯に何度というレベルなのであった。
とはいえ、一般大衆社会が宝石ビジネスのターゲットとなっている今日、伝説クラスの宝石だけを追っていてはおまんまが食べられないことも事実で、商業市場を維持するには質の揃った大量の製品を安定供給出来ることと、不断の宣伝活動とが必須となる。そのため実際に流通しているか否かは別にして、ルビーならばミャンマー産のピジョン・ブラッド(deep ruby red)、というのが宝石信仰を支える強烈なブランドイメージとして温存されている。
ついでにいうと、春山行夫は「宝石としてもっとも高価なのは英米で「鳩の血色」(pigeon's blood)と呼ばれ、フランスでは「雄牛の血」といわれている濃血色のもので、これは流行色の名前にもなっている」と述べたが、20世紀後半にはピジョン・ブラッドはモゴック産の最上のルビーを指す語となり、ブルズ・ブラッド(bull's blood)の形容はタイ産の最上のルビーに与えられるようになった。(後者は極上赤ワインの色の形容でもある)

モゴック産のルビーは 1960年代初まではまだある程度の量が出回っていたが、ビルマの軍政社会主義化を機に西側諸国では調達が困難となり、市場の関心はこれに次ぐタイ産に移っていった。タイ産でもよいものは数が揃わなかったのだが、やがて熱処理による調色技術が確立されると、タイ・ルビーとタイの宝石商はわが世の春を迎えた。チャンタブリなどで大規模採掘が始まり、一般市場向けに大量のルビー宝飾品が出回るようになった。
近代以前と違って機械化時代の鉱山は、花火のように一瞬の大輪の花を咲かせた後、急速に凋んでいく。90年代までにタイのルビー資源はほぼ枯渇したという。しかし1987年にベトナム北部のイェン・バイで、1990年(91年?)にはミャンマーのモン・シューで潤沢なルビー鉱床が発見されたため、これらを押さえたタイの宝石商は引き続きルビー市場を掌握することが出来た。

品質のよい宝石は元来希少なものだが、大衆社会に向けた絶対量の不足は、今日では大規模採掘と熱処理をはじめとする改質技術とによって十二分に補えるようである。逆に言えば、ルビー、サファイヤ等の色石を扱う業者にとって、加熱処理はその事実を顧客に明示する限りなんら問題視すべきものでない。むしろこれなくしては市場が成り立たない必要条件とさえいえるのである(一方、非加熱石にはプレミアがつく)。
とはいえ技術は日進月歩であるし、改質作業は西洋圏に入る前に行われる。新しい技術による(あまり適切といえない)処理が施された石が、そんな石の価値についてのコンセンサスが成立しない間に市場に流れ込むこともないではない。そこが西洋圏の宝石業者にとってつねに頭痛のタネだといえる。

ルビーやサファイヤなどの原石コランダムの熱処理は 1960年代に始まったとみられ、70年代中頃には調色プロセスが確立して評価も定まった(つまり問題視されなくなった)。しかしその後 84年頃明らかになったルビー表面の小孔へのガラス充填処理や、88年頃に気づかれた表面拡散法による淡色コランダム(ギューダ)への青色着色は、単なる熱処理とはいささか趣きを異にした。そして92年頃始まったとみられるモン・シュー産ルビーのクラック融合処理はさらに困った状況を西洋圏に提示した。(cf.No.712

上の画像はベトナム北部地域産のコランダム標本。鉱物趣味界では「ルビーの原石」で通るが、もちろん宝石質ではないし、色も宝石ルビーのそれではない。イェン・バイのLuc Yen 鉱山は(諸説あるが)1987年に農夫がルビーを発見したのを機に開かれ、88年には機械化採掘がはじまった。事業は95年に官営化され、2003年に民間資本へ譲渡されて現在に至るそうである。その頃から鉱物市場へも質のよい結晶標本が出てくるようになった。
この標本は民営化の少し前に鉱物ショーで手にいれたもので、業者さんはスピネルだと言ったが、六角柱状でモソモソした蛭石のような結晶形は、はっきりコランダムのそれである。
ちなみに 95年にベトナムのハノイを訪れたことがある(旅のひとコマ No.7)。そのとき街角の宝飾店で見せてもらった半透明のルビーの原石は素晴らしかった。すごい値段を言われてどのみち買えるはずもなかったのだが、ときどき思い出して惜しかったなあと懐かしく思う。この時はサンプルとして数センチ大の不透明な塊をお土産にした。

下の画像はルビーのカット石。 98年にヤンゴンを訪れた時に市場の2階の宝石屋さんでお土産に買ったもの(鉱物記「ひすいの話2」参照) 。モゴック産ということだったが、果たして。
その頃ヤンゴンでは色目のやや若い、ピンクサファイヤに近いような鮮やかなルビーが人気を博していて、モゴック産と言われていた。一方タイでは、新しい産地からやや紫色を帯びた極上のルビーが出たとのニュースが流れており、バイヤーが目の色を変えていた。

補記:春山「宝石」によると、英ルビー鉱業会社は44人のヨーロッパ人/ユーラシア人を雇ってダムを作り電力で汲み上げ、大規模露天掘りした砂礫を洗って宝石を回収した。1904年にはルビーだけで 20万カラットが採集されてロンドンの市場に運ばれた。しかしその後産量を落とし 1931年頃から住民の採掘だけになった、と述べている。バンクロフトによると、1886年に英国がビルマを植民地化してほどなくビルマルビー鉱業社が設立された(1889年)。ロンドン・ボンド街の著名な宝石商ストリーターがこれを率いて近代的な機械採掘を行い、2,30年間は成功した。その後産量を落として1925年に解散(事業清算)した。(但しリース権はさらに6年間存続した)
より詳しくは Peter.Keller著「Gemstones and Their Origins」(1990) P.92 参照方。

補記2:日本ジュエリー協会常任理事(当時)桃沢敏幸著「ジュエリー言語学」(2007)の「ピジョン・ブラッドの項に、「どんな色かはっきりしない。鳩はそこら辺にいくらでもいるが、その血を見たことのある人は何人いるだろうか。」とあるのはケッサクだと思う。

補記3:例えばニューヨークの宝石商アラン・カプランが手掛けた15.97カラットのルビーは最良のもののひとつで、「クラシックな」ピジョン・ブラッド・カラーをもっているとされた。一時ニューヨークの自然史博物館に展示されたが、その後競売にかかった。その写真はKeller の本(上述)に載っているが、カラー印刷でどこまで正確に色再現されているのか私には判断がつかない。かなりピンクに近い、彩度の高い明るい赤色で、紫味をもたないように見える。
ピジョン・ブラッドについてはNo.716も参照方。

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