822.モナズ石 Monazite (ボリビア産)

 

 

Monazite-(Ce)

Monazite-(Ce)

モナズ石-(Ce)、ゼノタイム-(Y)(?)、錫石(黒色)、水晶(石英) 
上は白熱灯、下は蛍光灯下にて撮影
- ボリビア、ポトシ、ララーニャ、ミナ・シグロ・ヴェンテ産

 

 

モナズ石はロシアのイルメニ山地で発見された鉱物で、1829年にブライトハウプトがギリシャ語のモナゼイス monazeis/monazaine から命名した。孤独な、孤立してある、単独の、といったニュアンスの言葉だが、それが何を意味するかはいまひとつピンとこないところがある。Brauns/Spencer の「鉱物界」(1903/1912 英訳)に拠ると、ブライトハウプトはこの鉱物の結晶(群)が火成岩中にぽつんと孤立して産することを特徴と観たようなのだが、しかし我々はこれをどうイメージすればいいのだろうか。ほかの鉱物には見られない独特の産状として、という含みで。(補記3)
同様の困難は当時の人々も感じたらしく、やがて本鉱の産出が稀であるという意味に解釈されるようになった。しかし19世紀末にヴェルスバッハが明るく白色発光するガス灯用のマントルを発明すると、モナズ石に商業需要が興り、探してみればその砂鉱は相当な量が存在することが分かった。そして急増する需要に対応するため、今も新しい鉱床が熱心に探査されている、と Brauns は書いている。
その後、トリウムと希土類元素の主要資源として漂砂鉱床中のモナズ石砂が採集される時代が半世紀以上続いたのだから、我々にとってはその名に反してとても孤立してあると思われない鉱物である。

カール・アウアー・フォン・ヴェルスバッハ(1858-1929)はオーストリア人の化学者で、希土類の研究に功績があった。ウィーン大学とハイデルベルク大学とで学んだ後、1882年からウィーン大学の無給助手として働き、希土類の分離抽出法を工夫した。そして1885年、ジジミウム(ジジム:Di: Didymos 双子、に因む) をプラセオジミウム(青緑の双子:Pr:プラセオジム)とネオジジミウム(新たな双子:Nd:後のネオジミウム/ネオジム)とに分けた。
ジジムは 1841年にランタンから分離された未知の希土類に与えられた元素名だったが、1879年にボア・ボードランがさらに(サマルスキー石の研究を通じて)サマリウムを分離していた。そしてサマリウム分離後のジジム(の酸化物ジジミア)もまた実は2つの元素の混合物だったわけである。こうしてジジムの名は元素名としては部分的にしか残らなかったが、その後もセリウムとランタンとを分離した残余のランタノイド混合物の呼称として長く実用された。

ヴェルスバッハは希土類を含む金属酸化物の加熱発光現象(熱励起発光)を発見しており、この年、ガス灯マントルの特許をとった。それはマグネシウム60%、ランタン 20%、イットリウム 20% の混合酸化物で(アクチノファー: 光を放射するもの、と呼んだ)、ガス炎で加熱すると明るく発光した。ただ発色が緑色がかっており、製品として寿命が短かかったため、あまり市場に受け入れられなかった。
そこで素材を変えて、1890年に トリウム 99%、セリウム 1% の硝酸塩を使ったマントルを開発した。これを銃綿に浸み込ませたものを燃やすと、二酸化トリウムの灰殻が残って発光を続ける。融点が 3200度前後で耐火性がよく、化学的にも安定で被加熱体として好適であった(既知の酸化物の中でもっとも融点が高く、かつトリウムは融点と沸点の差がもっとも大きい元素)。発光はより白く美しかった。

トリウムとセリウムの原料として、ヴェルスバッハは当時ブラジル航路の船がバラストに使っていた砂に眼をつけた。ブラジルの海岸地方で採れるその砂に大量のモナズ石が含まれていたのである。新しいマントルはよく売れた。ほどなく米国東岸地方(ノースカロライナ)の山砂からもモナズ石が採集されるようになった。こうして大量に生産されると、需要が増えても価格は下がるものらしい。Brauns の本には、トリウムとセリウムの混合硝酸塩は当初キログラムあたり50ポンドしたが、数年後には3ポンドに下落したとある。またモナズ石砂の取引価格はトリウムの含有率で決まり、品位6%のものはトンあたり60〜65ポンド、より低品位のものは30ポンドとあるが、10年後にスペンサーが英訳版を出した頃には随分値崩れしていたようである。

販売が軌道に乗ると、ヴェルスバッハは金属細線をベースにしたより堅牢なマントルの研究を始め、プラチナやオスミウムのフィラメント加工法を考案した。この技術は 1898年には完成していたが、結局、ガス灯でなく、電灯として実用化された。 1902年に従来の炭素線に替えてオスミウム線を使った電球が発売されたのである。(その後、1911年に米国でタングステン線が開発されて、タングステン線電球が市場を席巻する。⇒ cf. No.813 補記3
次いで 1903年には発火石の特許をとった。これはセリウム 70%、鉄 30% の合金(フェロセリウム)で、その後長く煙草用のライター石として利用された。

モナズ石の供給源としては、1909年頃、南インドのトラバンコールの海岸(今日、放射能海岸と呼ばれる)に巨大な漂砂鉱床が発見された。1912年から出荷が始まり、二次大戦が終わる頃には世界生産の半分近くをインド産が占めた。この沿岸地域は海底に大量のモナズ石が堆積しているとみられ、海から打ち寄せられた漂砂鉱が残留して濃集する。採集してもしばらくすると新たなモナズ石砂が上がってくるので、尽きることがないという。
ちなみにこの頃には希土類の主用途はライター石に移っており、一方トリウムは放射性元素としての側面がクローズアップされていた。大戦後に独立したインドは 1948年にモナズ石砂の輸出を禁じた。国内で精錬して原子力燃料となる(可能性のある)トリウムを備蓄するためである。副産物として得られる酸化希土類はしかし、外貨獲得の格好の商材となった。やがて南アフリカやボリビア、オーストラリアなどでも、モナズ石が希土類鉱石として、あるいはトリウム鉱石として採掘されるようになった。

モナズ石はセリウム族ランタノイド(軽希土類)の燐酸塩で、組成は木下博士の鉱物資源辞典(1960) に (Ce, La, Di)PO4 と示されている。Di は前述のジジムで、「ジジムとはモナズ石から工業的に得られたセリウムのない希土類の混合物、特にネオジムとプラセオジムの混合物をいう」と注釈されている。
軽希土類を 5〜11% 程度のトリウムが置換していることが普通にあり(時に 30% に及ぶ)、またイットリウム(族)を含むこともある。ポー博士の「岩石鉱物」(1996)は (Ce,La,Y,Th)PO4 の式を示している。トリウムを含むものは、同時にリンを珪素が、またはセリウムをカルシウムが置換しているとみられる。
自形結晶はふつう花崗岩ペグマタイト中に見られ、長石で囲まれている(それが「モナザイス-孤立している」の原意)ジルコン、ゼノタイム、フェルグソン石、サマルスキー石、燐灰石、コルンブ石などを伴う。比重は 4.6〜5.4(トリウムを多く含むほど比重が大きい)。重たく風化に強いので、漂砂堆積物中に濃集して鉱床をなす。

画像はボリビア産の初生鉱床のモナズ石。気になるγ線量を測ってみたが、まったく出てこなかった。おかしいと思って調べると、シンカンカス博士やポー博士の本に、ララーニャの(旧)錫鉱山からはモナズ石の美晶(たいてい双晶)が出て、トリウムを含まないことで知られる、とあった(トリウムを含まないものは珍しい)。
ララーニャ産は比較的ランタン成分が多いのが特徴で、モナズ石-(Ce)とモナズ石-(La)とがある。鮮やかなピンク色をしているが、色調は光源によって変わり、太陽光や白熱灯下では上の画像のような感じだが、蛍光灯(昼光色)下では草緑色になる。ネオジムによる効果という。
標本商氏は、ピンク〜緑色のモナズ石と緑がかった茶色透明のゼノタイムが共産すると能書きしているが、ちょっとアヤしいと思われる(ゼノタイムは四角柱状で結晶形が異なるが、色調では区別できない)。

 

補記1:サマリウムを分離した後のジジミアは依然複数の元素の混合物だろうと予想されており、1882年にはプラハ大学のブラウアーが分光器によって二群の吸収帯を確認していた。しかしヴェルスバッハ以前には誰もジジミアを分別することが出来なかった。
希土類元素は相互に性質が似ているため、イオン交換樹脂膜法(及び溶媒抽出法)が確立するまでは分離が難しかった。軽希土類のセリウム族は 1803年にセリアが発見され、最終的に7つの元素(セリウム、ランタン、ネオジム、プラセオジム、サマリウム、ユーロピウム、(ガドリニウム))に分離されたのは 1901年のことだった。一方、重希土類のイットリウム族は 1794年にイットリアが発見され、最終的に10元素(イットリウム、テルビウム、ガドリニウム、スカンジウム、エルビウム、ホルミウム、ツリウム、ジスプロシウム、イッテルビウム、ルテチウム)に分離されたのは1907年だった。こうして放射性核種のプロメシウムを除く、希土類16元素が揃った。
最後を飾ったイッテルビウムとルテチウムとの分離は、G.ユルバンとヴェルスバッハがそれぞれほぼ同時に発表し、またこれに先駆けてC.ジェームズが大量のルテシア(ルテチウム酸化物)を得ていたという。ユルバンはネオイッテルビウム(後にイッテルビウム)とルテシウム(後にルテチウム)の名を提唱し、ヴェルスバッハはアルデバラニウムとカシオペイウム(後にカシオピウム)の名を提唱した。発表時期はユルバンがわずかに早かったという。ドイツ語圏では1950年代までルテシウム(パリの古名にちなむ)よりもカシオピウムの名が普及していた。

補記2:ヴェルスバッハの発明したマントル(のホヤ)は、ドイツでアウアー灯、米国ではヴェルスバッハ・マントルと呼ばれた。原料のレシピは 1,000グラムの硝酸トリウム、10グラムの硝酸セリウム、5グラムの硝酸ベリリウム、1.5グラムの硝酸マグネシウム、そして2,000グラムの水という。トリアとセリアの比は厳密に 99:1 であるべきで、98:1 でも 100:1でも輝度が著しく落ちるのであった(あらゆる比率が試された)。ちなみにヴェルスバッハの座右の銘は plus lucis 「もっと光を」だった。

補記3:日本の鉱物書では長石中に「埋没して」という言い方も好まれる。つまり、斑晶の集合に囲まれて産し、石基と直接に接することがないということだろうか(ペグマタイト中の鉄ばんザクロ石のように)? このことはモナズ石が安定で、他鉱物に置換されたり、他の物質と反応しにくいことを示していると考えられる。

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