813.マラヤ石 Malayaite (日本産)

 

 

Malayaite

Malayaite fluorescense

マラヤ石(黄緑色蛍光の粒、青色蛍光の粒は灰重石) 
-山口県岩国市二鹿、喜和田鉱山産

灰重石(青色蛍光)と含マンガン方解石(赤色蛍光)
-山口県岩国市二鹿、喜和田鉱山産

 

組成式 CaSnSiO5 (CaSnOSiO4)。カルシウムと錫の珪酸塩で、くさび石のチタン成分を錫に置換したものにあたる(くさび石の高温構造に相当)
錫の産出で有名なマレーシアのペラクで 1960年頃発見され、1965年に産地名をとって Malayaite と命名された。和名はマレー石ではなくて、マラヤ石が一般的(補記1)。その後ほどなく(やはり錫で知られる)イギリスやタイでも産出が報告され、日本では西南部各地の錫・タングステン鉱床(接触交代/スカルン鉱床)に確認された。豊栄、見立、土呂久、玖珂、都茂、山宝などである。概ね塊状ないし粒状。
原産地の錫鉱床は気成型(グライゼン)で、マラヤ石は錫石をコーティングして産した。自形結晶はくさび石に似た形をしている。90年代初にはカナダのアッシュ山地で(若干のチタンを含む)3cmに達するものが見つかって市場に出回ったらしいのだが、私は手元の国産(粒状)標本に満足していて気がつかなかった。

マラヤ石は短波紫外線でレモン色〜淡黄緑色に蛍光する。画像はタングステン鉱山として有名だった喜和田のものである。
喜和田は山口県の二鹿(ふたしか)にある古いヤマで、1669年(寛文9年)の開山とされる。その頃は二鹿銅山と呼ばれて錫(鉛)や銅を採った(補記2)。これらを含まない不要な石片は捨てられて長い年月の間に谷底を埋め尽くすほどに溜まったが、随分と重たい石であった。そのズリ石の価値に気づいたのが、後に日本のタングステン王と呼ばれた粟村敏顕(1849-1918)である。
粟村は1869年(明治2年)から官吏生活に入った人物で、西南戦争後に工部省鉱山分局勤務となり、佐渡、足尾、茂住(三井財閥)で鉱山管理職を経験した。その後、高根、富岡、三里鉱山の経営にあたった。1909年(明治42年)、鉱山の買収のため九州へ赴いた彼は、途次たまたまこの廃坑のことを耳にして立ち寄った。そしてズリ石数塊を持ち帰り、灰重石であることが分かるとすぐに鉱山を買い取った。鑑定にあたった渡辺渡博士は重石鉱(※当時、灰重石は白重石あるいは単に重石と呼ばれた)の発見に驚き喜びつつも、国防資源として重要なものだから採集地は厳秘すべし、とアドバイスしたという。とはいえ、その時代の日本にはタングステンの精錬法は知られておらず、鉱石活用のすべもなかったのである(西欧では半世紀ほど前から高速度鋼/工具鋼の製造にタングステン(フェロタングステン)が用いられており、その方面で重要な産業資源ではあった)。 (※追記参照)

伝え聞いたドイツ人オットー・ライメルが鉱山を視察に訪れた。ズリ石2トン余を持ち出すと、ほどなく 100万円という破格の値段で譲渡を持ちかけてきた。あるいは資金も設備も技術もすべて提供する代わりに採掘した鉱石は全量引渡してもらいたい、という。ドイツはタングステンの需要を自国内資源で賄いきれず、国外の供給先を熱心に探していた。周囲はほぼみな譲渡を勧めたが、息子の敏家が強く反対した。そこで敏顕は父子で鉱山を経営することに決め、ここに木和田(後に喜和田)タングステン鉱山が産声を上げたのだった。1911年、操業開始。当初は谷間のユリ、じゃなくてズリを運び出すだけで事足り、ほぼ全ての鉱石をドイツへ輸出した。またこの年、京都・亀岡の大谷(おおたに)を買収し、1914 年からやはり灰重石の採掘を始めた。一方で国内での精錬と用途開発を模索してもいた。
敏家はドイツを訪れて技術を学んだ。そして 1917年、静岡県三島に日本初のフェロタングステン精錬工場を開いた。当時、官営八幡製鉄所もフェロタングステンの製法を研究していたが、これは社外には秘匿されたといわれる(補記3)

以来、喜和田粟村は市況に応じて休止期を挟みながらも稼動を続け、二次大戦後は概ね十数人規模で運営された。自前の選鉱設備を持たず、採った鉱石を大谷鉱山に送っていたが、大谷は 1982年に操業を停止した(鉱害問題を抱えた大谷粟村は 1983年に破産手続きをとった)。喜和田は別会社となって存続し、近隣の玖珂(くが)鉱山に選鉱を委託した。その玖珂も 1992年に閉山すると、喜和田は鉱石の持って行き場を失くして操業停止のやむなきに至った(補記4)。折から中国の輸出するタングステンが市場を席巻して建値の大幅下落を招いていた。円高の進行も逆風となった。
その後は暫く成り行き不透明の時期があり、再稼働の目途が立たないまま、元の鉱山長の長原氏が山守りを務めて施設の維持を図った。採り貯めた鉱石の一部は氏の手で標本市場に持ち込まれた。美しい青色に蛍光する灰重石をアピールし、いささかなりとも費用の捻出が試みられたのである。鉱物ショーで氏のお姿を垣間見られた方は多いだろう。また鉱山の歴史を伝える「光る石資料館」も地元に開かれた。閉館までの15年間に 16,000人が訪れたという。

上の標本は90年代中頃に入手したもので、青白く光る灰重石の星々に交じって、レモン色に光る粒が散らばっている。「マラヤ石です。喜和田にも出るんですよ」ということで、いただいておいた。夜灯りを消して UVライトで観察すると、実に神秘的な気分に誘われる。最後まで採掘されていた第11鉱体は 120mx 40mx 50mに及ぶ大規模かつ極めて高品位な鉱体で、探鉱(UV)ランプで坑道を照らすと坑壁を走る灰重石の脈がいっせいに光って、さながら「地下世界の天の川」であったと伝えられる。「地底は青かった」という、その余韻ないし片鱗をわが杣に持ち来たり、わずかに留め置く気がするのである(補記5)

喜和田の坑口は 2005年に封鎖された。しかしレアメタルが脚光を浴びてタングステン市況が回復したことから、2007年の夏に一時的に開かれ、採掘後坑内に残されていた約2,000トンの鉱石が15年ぶりに運び出された。ロシアのプリモルスク鉱山に送って精錬しようというのである。同時に再開発も検討されたが計画だけで終わった。2008年の夏、長原氏はヤマを降りた。ヤマは未採掘の鉱体を残したまま再び閉じられ、天の川は闇に沈んだ。

cf.No.819 イギリス産

追記:日本での重石鉱(灰重石)の本格的な発見は明治30-32年(1897-99)頃のことらしい。山梨県の乙女坂/倉澤の水晶鉱山からライン鉱が多数発見され、32年末にこれを調査した神保博士は灰重石と共産する産状や形状から、ライン鉱は灰重石の結晶形を保って成分が別のタングステン鉱に置き換わったものであることを示した。俄かに重石鉱山会社が作られて明治35年から盛んに重石を掘ったが、40-41年頃に採り尽くしてしまい、事業は宙に浮いた。しかし重石採掘権の設定は残り、大正・昭和初期にかけて頻りと採掘権者が入れ替わる間に、今日知られる主要な鉱脈筋が明らかになった。
ライン鉱は明治10年頃(8年?)に来日したライン氏が金峰山産の標本を持って帰欧し、12年(1879年)に氏の名をつけた新鉱物としてリューデッケにより報告されたもので、その後日本の学界には 32年頃まで後続の標本が知られなかった。但し、乙女坂/倉沢(※合わせて後の乙女鉱山となる)で水晶を掘った人々の間ではトーロー仏と呼ばれて、水晶鉱を重たくする困った石として知られていたらしい。トーロー仏とは機嫌が悪くなると重みを増して持ち上がらない仏様で、この石が出ると水晶の質が悪くなると言われた。学界ではライン鉱の形状を鑿(ノミ)に喩えているが、地元ではカマキリの頭の形あるいは体型に擬えて、蟷螂(とうろう:カマキリ)仏と洒落たのではないか、というのが私の見立て。仏、つまりツル(脈)を追って開いたカマ(晶洞)は、キレてオシャカになっていたわけである。そんなもん、ほっとけー。
和田・日本鉱物誌(1904)は、灰重石は明治18年に豊前三の嶽で2,3ケの結晶が見出されたこと(cf. No.196 補記 三ノ岳鉱)、また甲州神金で篠本博士が発見し、やがて乙女坂/倉澤に第二の産地が見つかったことを述べている。

渡辺(渡邊)渡博士は、大正5年(1916)に、東京の銀行倶楽部の晩餐会でタングステンとモリブデン鉱業を取り上げた講演を行っている。その記録によると、重石鉱は錫鉱に伴って産するもので、明治30年に島津家の谿山鉱山で錫鉱に混じる黒重石(鉄重石)を見たこと、現場では烏と呼んで厄介もの扱いしていたことを語っている。(cf. No.90 ウォルフラム 狼鉄鉱)
当時はまだ重石鉱は使途に乏しかったが(顔料程度)、やがて(1900年頃から)タングステン鋼の原料として求められるようになり、ついでタングステン線の電燈が出て需要が増した。
世の中にタングステンという言葉が耳に親しくなったのは明治41年(1908)あたりで、帝大の卒業式に陛下が御臨幸された折、甲州の灰重石と鉄重石、日光奥の西沢金山の鉄重石、玖珂鉱山の灰重石、そしてタングステン鋼やタングステン燈を天覧に供したという。
その年か翌年にはそれまで顧みられなかった水戸の鈴(錫)高野の錫山に重石鉱が知られ、また高取鉱山が発見され、43年には生野の明延鉱山で鉄重石が次いで錫鉱が発見され、日本一の錫山となった。そして玖珂郡喜和田に重石鉱が発見されたのだと振り返っている。
大正2年頃の世界の精鉱(品位60%)の年産額は約8,000トン、うちミャンマー産1,730トン、米国1,400トン、ポルトガル1,380トン、豪州543トン、次いで第5位に日本298トンだったといい、大正4年には生産高600トンに増えていた。田中氏所有の玖珂鉱山が第一で月産20トン以上、粟村氏の喜和田が20トン、三菱の高取 8-10トン、恵那郡蛭川から 3トン、粟村氏が亀岡に整備中の鉱山はこの夏あたりから月産10トン位出るだろう等と述べている。

話を乙女鉱山に戻すと、ドイツは早くから日本に重石の産地が発見されないか注意していたようである。山梨の金峯山には明治維新以前にドイツ人が(水晶の)視察に来た記録があり、明治7年にドイツ公使が甲府を訪れて何点かの石を買っていった。ライン氏が重石鉱を持ち帰ったのはその少し後のことらしい。そして(それまで水晶を掘っていた)乙女鉱山でライン鉱や灰重石が大量に発見されて採掘が始まると、ある帰化ドイツ人の商会が資本を貸して生産拡大を援助し、採れた鉱石を高値で買い占めたという。

cf. No.304 輝水鉛鉱、 No.937 水晶(乙女鉱山の由来)

補記1:この時期には「マレーシア」国が成立していたが、日本ではまだ「マラヤ」連邦の響きが耳に馴染んでいたのだろう。ちなみに英語では "Malaya (マレー半島)" をマレイアと発音し、本鉱はマレイアイトと呼ばれる。

補記2:地名、二鹿(ふたしか)の由来は、平安の頃、京都の比叡山に跋扈した双頭の悪鹿退治に遣わされた梅津中将清景が、逃走する鹿を山野に追って西へ下り、ついにこの地で討ち取ったことに由来するという。清景もまた力尽きて今の梅津の滝あたりに斃れた。双頭の鹿がどういう類の生き物だったかは、何しろ古いことなので、ふたしかである。異形であるからは侮りがたい神の力を示したのであろう。まつろわぬ神殺しの伝説の一といえる。

補記3:1910年代は白熱電球のフィラメント線の素材として金属タングステンの需要が勃興した時期でもあった。フィラメントにはもともと炭素線が用いられていたが、20世紀初頃からオスミウムやタンタルなどの金属線が研究され、1904年にはタングステン線も有力候補に挙がった。そして1911年米国GE社のクーリッジが製法を改良して延性(可撓性)タングステン線を開発すると、それから4年ほどの間に他の素材をすっかり駆逐してしまった。

補記4:玖珂は慶長年間に銅・錫山として稼働し(その以前には銀を掘ったという)、喜和田と同時期に灰重石が見出されて、以降タングステンや銅を採った。銅も掘ったことから、タングステン市況に左右される度合いが少なかったという。閉山後はテーマパーク「地底王国 美川ムーバレー」となった。田中鉱業の所有となったのは 1906年、08年にかけて銅を製錬した。1911年から重石鉱の採集を始め、1917年には精鉱年産228トンを出して日本一を記録した。喜和田と同じく、当初は古いズリをさらって重石鉱を選別・出荷するだけで大きな利益を上げることができた。

補記5:喜和田はスカルン鉱床で、スカルン脈とこれを切る(晩期に生成した)石英脈の周縁にタングステンが濃集していた。とくに石英脈沿いに品位が高く、数%レベルの鉱石が生産された。名高い第11鉱体は圧倒的な高品位脈で平均 8〜10%、最良の部分は 30%以上のタングステン品位を誇ったという。長原正治氏は 1968年以来喜和田の面倒をみたヌシで、第3〜第12鉱体の探鉱・発見に携わった。光る石資料館を開いて一般見学者を受け入れた時期には「ポムじいさん」(映画「天空の城ラピュタ」に登場する老鉱夫)と親しまれた。

補記6:くさび石は一般に蛍光しないと考えられているが(含有する鉄分が不活性因子となる)、フランクリンを初めいくつかの産地のものは、やはり黄色系の蛍光を発することが報告されている。

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