909.ひすい輝石 Jadeite (ギリシャ産) |
日本では明治後半期から昭和初期(20C初〜前半)にかけて、ミャンマー産の宝石ひすいが中国/香港経由でもたらされて一世を風靡した時代があった。
同じ頃、古代遺跡や寺社から出た磨製石器や装飾玉類(勾玉など)の中に硬玉(ひすい輝石:
Jadeite)を素材とするもののあることが指摘された。そしてその由来が取り沙汰されたが、当時国内には硬玉も軟玉(Nephrite)も産地が知られなかったので、概ねミャンマー産のものが何らかのルートで渡来したのだと推測された。
その後、日中戦争頃に新潟県の硬玉産地が発見されて、やがて兵庫県、島根県等にも産地のあることが分かったが、今日では専ら新潟産が用いられたと考えられている。少なくとも縄文期の石器に新潟/富山産のあることは確からしく(加工場も発見されている)、出土状況からみて
6~7,000年前には使われ始めたようだ。
欧州では少し早く、19世紀後半(ダムーアが Nephrite や
Jadeite を定義した後)から同様の産地問題が「ジェードの謎」として取り沙汰されていた。各地の遺跡から軟玉や硬玉製の石器・装飾器・護符の類が出土する一方で、欧州内に産地が知られなかったからである。玉の出るアジア(やニュージーランド)とヨーロッパ(やアメリカ大陸)間の交易が語られた。
その後、 軟玉については 1885年に J.F.クンツがポーランドのヨルダンスミュールに初生産地を報告し(発見者はヘルマン・トロービ)、1906年にイタリアのモンテロッソからセストリ・レバントにかけての地中海沿岸地方からも報告された。スイス東部のサローフにも産地がある。
硬玉は 1903年にイタリア・アルプスのピエモンテ(モンテヴィーゾ)で、その後、シベリアや旧ユーゴスラビア、またウラル極地方等に産地が知られた。こうして欧州圏内での玉器の生産と流通が語られるようになった。
現代は化学分析技術が進歩して、石器や宝石の組成の特徴から原石の産地を判断することが一般に行われている。硬玉製品でも同様の試みがなされ、さまざまな推測が示されているが、欧州ではイタリア産の硬玉(ひすい輝石〜オンファス輝石)が広い範囲で利用されたとみられ、ギリシャやトルコ産の硬玉(ひすい輝石)は比較的産地に近い地域で利用されたようである。原石へのこうした志向は(日本でもそうだが)、ある時代に盛んに交易されたらしいのに後になるとその形跡が見られないといったケースや、近くに産地があるのに遠隔地の製品を好んで使ったらしいケース、産地がよく分からないケースなど未だ多くの不明点があり、考古的な謎の解明はなかなか難しいようである。
画像の標本はギリシャのシロス島産のひすい輝石。シロスはエーゲ海のキクラデス諸島に属する小さな島で、ミコノス島の西隣にある。島の斜面にひすい輝石の巨礫(ボルダー)が見られ、古くはこの石材を磨いて美しい暗緑色の磨製石器が製作された。バルカン半島の南東岸や、アナトリア半島西岸また内陸部の遺跡からこうした石器が出土している。
アナトリアのチュクリチ・ホユク Çukuriçi Höyük から出た石器はシロス島産で、BC
6,500~6,200年頃のものと考えられている。硬玉を利用した石器として、現時点では世界で最も古い例(8,000年以上前)といえる。
因みにトルコにはブルサ近くのオルハネリにひすい輝石の産地があるが、これは一般に淡紫色のもので、チュクリチ・ホユクの緑色石器とは異なる(cf.
No.919)。また欧州に広く分布するイタリア産の硬玉石器は利用の始まりが
BC5,500年頃からと見られている(こちらも日本よりは古い)。
この標本は細柱状の結晶が放射状に集合した様子が観察できる。磨いても強靭な石器は作れないだろうが、鉱物標本としてはありがたいものである(ひすい輝石の自形結晶はわりと珍しい)。