189.エメラルド4 Emerald (ロシア産) |
木の根っこと宝石とは相性がいいらしい。No.188のトパーズに続けて、ロシアのエメラルドを紹介しよう。
1830年の秋、エカテリンブルグの北東100キロに位置するタコワヤ川の流域で、一人の農夫が緑色の石の結晶を見つけた。これが名高いウラル・エメラルドの始まりであった。
「ベロヤルスク地区の農民たちが、樹脂を含んだ松の切り株、枯れ木、枯枝を採集していた。中の一人が、風に薙ぎ倒された樹の根の間に、緑色を呈する石の小さな結晶をいくつか発見した。彼は2人の仲間にその石を見せ、協力して樹の根のあたりを掘り起こした。そしてさらに数個の石の破片を得て部落に持ち帰った。しばらく経って石は売り払われ、エカテリンブルクへもたらされた。が、何分、樹の根に覆われ破壊された脈の上部から分離され、永く四季の変化を蒙ってきたために、もともとの色彩は失われていた。そのため質の悪いアクアマリンと判断され、最低の価格で取引きされた。
私は、アクアマリンとみなされた石の発見を部下の監視人から聞き、数日後、その小片を入手した。20余年に亙ってエカテリンブルク研磨工場に勤務してきた私は、つねに石の観察を怠らず、それらの識別に習熟していた。それで、一目でその掘り出し物がアクアマリンではないことを察知したのである。この石は重く、硬く、断片はガラスより透明で、国外の緑柱石よりさらに堅牢だった。細部に亙って検討した結果、この品がエメラルドであるとの確信を抱いた。すぐに坑夫たちと採集用具を集め、発見地に赴いた。雪も寒さも探索の熱意を妨げることは出来ない。多くの試掘坑を穿ち、エメラルドの脈に達し、母岩付きの結晶を採集した。本品がエメラルドであるとの確信はさらに強まっていった。」(フェルスマン著「おもしろい鉱物学」より抄出)
と、エカテリンブルク研磨工場の工場長が、ケレン味たっぷりに書き残している。アクアマリンとエメラルドはどちらも緑柱石の一種だから、一目でアクアマリンでないと察知したのは、その微妙な(?)色の違いを見分けたということか。ウラルのエメラルドは、写真のように、金雲母と石英を伴って産する。国外の緑柱石よりさらに堅牢だ、とはいかにもソビエトらしいが、同じ鉱物でも産地によって硬度や加工性に違いがあるのは本当だ。
ついでながら、アメリカ、メイン州のトルマリンも、発見のきっかけは、2人の子供が、暴風で倒れた木の根元から緑色の結晶を拾ったことだったという。
cf. No.879 フェナス石(タコワヤのエメラルドのエピソード)、 No.79 アレキサンドライト
追記:エカテリンブルクの北西 56km にイズムルドニイ・コピ・ベルトと呼ばれるベリリウム鉱床帯がある(イズムルドはエメラルドのロシア語名)。幅 2km長さ 25kmにわたって広がるこのベルトから、本文にあるように 1830年に最初のエメラルドが発見された。以来エメラルドの宝飾品はエカテリンブルク帝国ラピダリーの主要産品となった。glimmerite (キラキラ輝く石の意)と呼ばれる金雲母に富む片岩中にフェナス石や金緑石(アレキサンドライト)を伴って産する。
1917年に社会主義革命が起った時、ロシアは世界最大のエメラルド生産国だった。新生ソビエト政府は引き続き宝石原石の採掘を続け、30年代までのある数年間に採集された結晶は
250万カラットを数えた(すべて宝石質というわけではないだろうが)。30年代半ばから70年代初にかけては原子炉用のベリリウムの採掘が主業とされ、宝石用原石は副産物として扱われたという。まあいいお小遣いになったということだろう。
その後、再び宝石用が主業となり、91年の体制崩壊後はロシア・パナマ・イスラエル資本のジョイント・ベンチャー企業エムラルが権利を得て、大規模採掘を続けている。巨大な露天掘り坑と地下坑道採掘の両方が行われているそうだ。最大の鉱山はマリインスキー
Mariinsky
と呼ばれる。ほかに中小鉱山がいくつもあって競合が激しい。
標本ラベルによくマリシェワ Malysheva
と記載されているが、現在のマリシェワはこのベリリウム・ベルトの中央付近の町の名で、イズムルドの町の北にある。帝政ロシア時代、多数存在した中小鉱山(群)をタコワヤ鉱山と総称したが、そのなかにマリシェワ鉱山(群)があって代名詞的に残ったとみられる。
ウラル産の鉱物標本の流通はソビエト時代には事実上停止していたが、90年代以降、再び出回るようになった。
90年代後半は随分沢山の標本が出回ったが、おそらく新産品ばかりでなく、それまで採り貯めていたものも相当数含まれていたと考えられる。基本的に宝石品質でない。(2020.5.5)