ひすいの話1      −糸魚川のひすいを巡って


昨年(97年)、テレビで人気の「開運 なんでも鑑定団」という番組で石大会があったとき、女子大生二人組が、新潟県、親不知海岸あたりを旅行中、浜で拾ったというきれいな緑色の石をスタジオに持ち込んだ。担当の鑑定士は、おそらくひと目見て直感したはずだが、慎重に検討した結果、400万円というこの人には珍しい高値をつけた。それは宝石質のひすいだったのだ。

新潟県の糸魚川流域でひすいが採れるという話は、地元の人はもちろん、全国的にもよく知られているといっていいだろう。とはいえ、産地が再発見されたのは昭和初期のことで、それ以前は、長い間ミャンマーが唯一の産地とされ、日本にひすいは出ないと信じられていた。縄文時代から古墳時代初期の遺跡が、北は北海道、南は九州まで各地に点在しており、いたるところでひすいの加工品(まが玉など)が見つかっている。材料となる玉はミャンマーの奥地から中国や朝鮮を経由して、日本に渡来したというのがそれまでの通説で、日本産ひすいの発見は、考古学の常識をくつがえす大発見であった。

磨くと光沢を持ち、堅牢で美しい半透明の石を一般に玉という。なかでも、硬玉と軟玉は、輝くばかりに白く、あるいはまれに鮮やかな緑色のものがあり、「真の玉」、「玉のなかの王」とされた。両者はしばしば混同されるが、硬玉のほうが希少なため、価値が高い(ただし、硬玉の値打ちが認められるようになったのは、せいぜい2百年くらい前からで、それ以前は玉にあらず、として相手にされなかった)。また加工も難しい。現在、普通はこの二つをもってひすいとする。カワセミの羽根のように鮮やかな緑色の玉という意味である(⇒No.70参)。狭義には硬玉だけをひすい、または本ひすいと呼んでいる。純粋なひすいは白色で、クロムをわずかに含むことにより、美しい緑色になる。名前の語源とは別に、ひすいには七色あり、青いひすいがもっとも珍しい。(過去には長い間、青いひすいは存在しないといわれてきた。)
鉱物学的には、硬玉はジェーダイト(ひすい輝石)であり、軟玉はネフライト(透閃石−緑閃石)であって、別の鉱物である。いずれも、硬度は低いが、繊維状結晶が複雑に絡まりあって、非常に粘り強い性質を持つ。上質のひすいは強靭で、鋼のハンマーでも歯が立たない。強靭さでは硬玉より軟玉の方が優れている(⇒No.326参)。

清朝以前の中国では、玉といえば軟玉を指した。硬玉はほとんど知られておらず、18世紀以降になってから、ミャンマーで(再?)発見され、中国に流れるようになった。はるか西の辺境、コンロン山脈とタクラマカン砂漠の間を流れるユー川(玉河)で産する軟玉は、古代都市ホータンから、いわゆるシルクロードを辿って運ばれ、数千年の昔から中国人に愛された。タクラマカン砂漠の西端の町カシュガルの名は、玉という意味の古語カシュから来ており、シルクロードの始点ともいえる玉門関は文字通り、玉の関所だった。古語カシュは、西ではクシュ、ヤシュと訛り、ギリシャに至ってヤスピス、ラテン語ではラピスという言葉になった。玉は東方に渡り、当時は日本の玄関であった日本海側で玉文化を開いた。出雲の玉造。そして新潟近辺、つまり越(こし・高志)の国であり、越はカシュが訛った言葉とも考えられる。古代朝鮮語ではクシルである。玉文化が日本に渡来した当初は、おそらく大陸で加工された玉を使っていたのだろうが、やがて玉産地が発見されると、職人が招来され、産地を中心に工房が作られ、次第に日本独自のまが玉文化となって各地に広まっていったのだろう。日本のまが玉は朝鮮半島にも伝わっている。越では、世界的に珍しい硬玉が採れ、高度な加工技術が発達した。出雲は砂鉄や銅、錫など豊富な資源を持ち、古くから金属文化が開いたが、碧玉の産地でもあり、おもに加工していたのは碧玉のようだ。しかし、出雲大社に残っているまが玉は最上質のひすい(硬玉)である。越に産したひすいを、越の技術で加工したと想像され、相互の文化交流を窺わせる。実際、出雲の大国主命は、高志の女王沼河比売(ぬなかわ姫)のもとに押しかけ亭主にきたという神話が古事記にある。越の玉は、当時非常に貴重視、あるいは神聖視されていたようだ。

玉文化が衰退してゆく奈良時代になっても、ひすいは高く評価されていた。万葉集巻13に次の長歌がある。
「ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも」 (ぬな河の底にあるうるわしい玉。私がやっと探し求めて手に入れた玉。やっとみつけて拾った玉。この玉のように素晴らしい君が年をとって老いるのが、ほんとうに惜しい。) 古代人はひすいに「神仙・不老長寿」の霊力を見ていたという。越の国自体、古代には神仙境と考えられていた。この長歌は、玉や水によって不老不死の生命を得たいものだが、君は年老いていってしまうと嘆いているのである。

ちなみに古代世界で玉の文化が栄えたのは、中国、ニュージーランド、メキシコ、(それと日本)であるが、いずれも玉は単なる装飾品でなく、霊力の宿った呪術的な石として扱われている。中国ではセミをかたどった玉を死者の口に含ませたり、耳の穴に入れたりして埋葬した。玉には防腐作用があると信じられていた。ひすいの板を連ねた衣装を着せた例もある(どうも碧玉か軟玉のようだが)。ニュージーランドではヘイティキというお守りのようなものが、今でもあるという。手にした人の生命力を宿すとされ、たくさんの人に触れられることで力を増す。従って、古いほどよく、故人とともに埋葬された後、掘り出されて再び子孫が身につける。これらは軟玉であった。

メキシコでは、オルメカ−マヤ−アステカの三つの文化にわたって、生命力を与えるものとして硬玉が使われ、お守りや祭器、仮面などが作られた。死者であっても生命力に触れる必要があると考えていた彼らは、死者とともにひすい細工を埋葬した。ひすいを持っていると死後も食べ物に困らないという。アステカ遺跡の人身御供を投げ込んだ井戸からは、人骨と共に多くのひすいがでてきた。口に含ませたらしい。これらのひすいはグアテマラのモタグア谷で採集されたと言われるが、はっきりしない。
また、日本ではどういう風に使われていたのかも、よくわからない。権力の象徴ではないかといわれている。現代の私たちは、あまり石の霊力を信じていないが、広い地域で、おそらく独自に開いた文化が、同じような石観を持っていたのは興味深い。

ひすい(硬玉)の産地はごく限られている。先にあげたグアテマラは別として、事実上の主要産地はミャンマーと日本の糸魚川だけだといってもよい。ひすいは、一万気圧以上の非常に強い圧力が働いて出来るが、さらに低温であることも条件となるため、例えば地中深く、高温高圧のかかる場所では生成されないと考えられる。ミャンマーと糸魚川の産地はどちらも、高温低圧の条件を満たしているようだ。ミャンマー北部の産地には、マンダレー構造線という、大陸の下に陸塊が潜り込む断層があり、糸魚川はフォッサマグナ、大地溝帯と呼ばれる東−西日本を分ける大断層が走っているため、比較的浅いエリアで(おそらく水分が供給されるような低温の場所で)高圧が与えられるのだろう。ひすいの産出には蛇紋岩(かんらん岩が水和作用で変成して出来る⇒No.331参が関係し、地下数十キロという地殻の浅深部から上昇してきた蛇紋岩が、ひすいの岩塊を取り込んで地表に現れる。こうした大地の圧力が集まるところは、いわゆるパワースポットとして、強いエネルギーを発するといい、古来聖地が多い。ひすいが独特の霊力を持つとされていたことはそのあたりも関係しているかもしれない。

さて、盛んだった玉文化はいつか衰退し、糸魚川のひすい産地も忘れられた。再発見には千年以上の時の経過と、ある人物の登場を待たねばならなかった。相馬御風。大正時代の文人で、早稲田大学の校歌「都の西北」の作詞者だった彼は、壮年以降を故郷の糸魚川で過ごし、考古学に熱中した。長者カ原の遺跡を発掘し、美しい緑色の玉斧を拾ったりしている。その後、この遺跡から緑斑のある白い石が採集されたが、当時の鑑定では、碧玉の一種だろうと言われていた。この頃から、彼の頭の中に、玉の産地を巡って漠然とした考えが育ち始めていたらしい。
そして、昭和13年、御風は、就任の挨拶に来た姫川発電所の所長にひすいの探索を勧めたとされる。所長の鎌上氏は、長女の義父、伊藤栄蔵氏に探索を依頼し、その後、伊藤氏は、姫川の支流 小滝川の土倉沢で、青い大岩を発見する。その青い石こそまぼろしのひすいであった。分析の結果、石の組成は、日本各地で出土する大珠や、まが玉の成分に一致することがわかった。(ミャンマーのひすいとも一致するとの説もある。)やがて、青海川の流域でもひすいが発見され、付近の長者カ原や寺地の遺跡は、縄文中期以降の、ひすい加工部落の跡であることもわかった。こうして越の国一帯に玉の文化が栄えていたことが、再発見されたのである。

実は御風は、その間の経緯を書き残していないので、探索を勧めたはっきりした根拠はわからない。ただ、先に書いた万葉集の歌にある沼名川、古事記の中の高志の国の沼河比売と玉を巡る神話、倭名抄に記された「沼河郷」などの文献や、奴奈川神社の実在、長者カ原で拾った緑色の石などから、姫川(旧名 奴奈川)こそひすいの産地に違いないと推論するようになったのだろうといわれている。
作家の松本清張氏は、ひすいの発見史に関心を持ち、万葉考古学を唱える教授を登場させたミステリー「万葉ひすい」という作品を残している。ご興味の方は一読を勧める。(新潮文庫の短編集「駅路」に収録されている)

ところで再発見された小滝川と青海川のひすいは、昭和30年ごろに天然記念物に指定され、以後採集を禁じられたので、今でも河原にひすいの白い大岩を見ることができる。緑色のきれいなものは少ない、というかほとんどない。質の良いものは、採集禁止になる以前に土地の人らに穫り尽くされたのである。発見者の伊藤氏も、一時は香港に新潟ひすいを輸出されていたということである。

新潟県青海町橋立産のひすい

けれども冒頭の女子大生たちのように、上質のひすい採集の可能性は今でもある。糸魚川流域ではどこでもその可能性があり、宮崎海岸−親不知−糸魚川市にかけて、姫川や青海川が海に注ぐあたりでは、雪どけで川が増水する時や、大雨の跡などが狙い目である。天然記念物指定地域以外での採集は禁止されておらず、このあたりの海岸は別名ひすい海岸といって、実際にひすいを拾いにくる人々が大勢集まってくる。年に何人かは幸運な人がいて、かなりの値打ちものを拾ってくるということだ。常連も多く、3000万円の石を拾って以来やめられなくなった人とか、三国連太郎氏が拾った石の話とか、エピソードは豊富である。

この海岸では、ひすいではないが、クロムを含んで緑色をした奇麗な石がいくらでも拾える。ひすいと思って騙されるので、土地の人はきつね石と呼んでいるそうだ。また、硬玉だけでなく、軟玉も採れる。ひすい(硬玉)を見分けるには、やはり本物に接するのが一番だが、「2−3分間手で暖めたあと、唇を触れると冷たく感じる」、「透明感がある」、「質が緻密でかたく、重い」、「叩くと澄んだ音がする」、「緑の発色が鮮やかで上品である」などいくつかのポイントがある。

探すのはおっくうだが、お金はあってひすいが欲しいという人は、東京や京都で開かれる鉱物展示会や各地の銘石店を訪ねれば、新潟ひすいの原石が手に入れられる。
眺めるだけの人には、4年ほど前、糸魚川市営で開設されたフォッサマグナ・ミュージアムにひすいの展示室があるという。筆者はまだ行ったことがないが、総工費17億円、展示物の購入に4億円を投じたという、素晴らしい博物館だそうだ。

98.12.27  by SPS.

(備考)  糸魚川ひすい発見の時期は、文献によって、昭和4年、昭和ひとけた、10年、昭和13年というように異説があるが(さらに早く、大正6年、大正12年にも(幻の)発見があった)、伊藤栄蔵氏が鎌上氏に小滝川のひすいを示したのが昭和13年8月、日本産ひすいの発見が学会に発表されたのは昭和14年であった。
…と考えられていたが、国石ひすいの選定過程で収集された資料を再検討した関係者は、伊藤氏による発見は昭和10年(1935年)の可能性が高いとの見解を示している。 2020.8.18

 

−この文章はある小冊子に寄稿したもの(98.3.18作成)を転載しました。後日談として、以下に補記を追加します。−

補記:

糸魚川ひすいの話を寄稿させて頂いた後、それを読まれたH氏が、是非ご案内しましょうといって下さり、7月に機会を得て、フォッサマグナ・ミュージアムを訪問することが出来た。望外の喜びだった。ミュージアム内には当然ながら、糸魚川、小滝産のひすいについて、詳しいパネル・実物展示があり、成因や地質上の特徴などについても説明があった。

改めて、勉強し直してきたわけだが、パネルの説明によると、私たちが従来ひすいと呼んできた鮮翠色の石は実は「ひすい輝石」ではなく、「オンファス輝石」に属する鉱物だそうだ。(少なくとも当地のものは。)
大半が白いひすいの塊の中に緑色の部分が混ざる典型的なひすいの切片を偏光顕微鏡で観察すると、白い部分と緑色の部分の間に明らかに境界があり、結晶の大きさにも違いがあることに疑問を持って、詳しく分析した結果、白い部分はひすい輝石、緑色の部分はオンファス輝石だと判明した、とあった。

一瞬、知ったかぶりの拙文を想い、隣でパネルを読むH氏をそっと盗み見た。
私と同じ思い違いをされている方がいたら、是非一度ミュージアムをたずねてごらんなさい。眼からうろこが落ちるでありましょう。

ついでながら、さらにその後(98年11月)、全国紙の新聞に、新しい鉱物の発見記事が載った。 新鉱物は糸魚川石という名前で、発見の経緯は、たまたま拾った緑色の混じる白いひすいに青灰色の部分を見つけ、分析したところ、新鉱物であったという。 研究し尽くされたかに思えた糸魚川ひすいであったが、まだまだ思わぬ秘密を隠しもっているようである。 誠にめでたい。

99年7月 SPS

糸魚川石の後、99年1月には蓮華石が、2000年10月には、松原石が新鉱物として認められた。いやあ、出てくる出てくる。これらの鉱物についての詳細は、「フォッサマグナミュージアム」のサイトで見ることが出来ます。GO!

2001年3月

糸魚川・青海地域の緑色のひすいがひすい輝石でなくオンファス輝石だという説が発表されて20年以上が経過した。2016年には日本鉱物科学会で日本の国石を選定する会員投票があり、「ひすい」が一等に推された。その後、内外に国石「ひすい」のPRをしている。
宝石機関紙として国際的に有名な G&G誌(GIA)の2017年春号には、フォッサマグナミュージアムやひすい原石館から提供された試料を使って宝石学的研究を行った報告が載っている。糸魚川・青海地域の緑色のひすいはミャンマー産やロシア産と同じくひすい輝石に属するもので、発色の要因は鉄及びクロムとなっている。⇒ 翡翠展 補記2 参照。(2020.6.14)

補記:日本の玉文化がもともとは大陸から渡ってきたという説は、ひすい輝石の産地が新潟県に見出されたことで、あまり主張されなくなっている。むしろ、5000年以上の歴史を持つひすい文化として、日本独自の、あるいは日本が世界にさきがけたものだという考えが一般に広まっているようだ。私はどちらかというと、大陸から渡ってきた技術だと思っている(cf. 軟玉の話1_追記1)。素材として軟玉(または蛇紋岩)から硬玉になったことで攻玉技術が大きく変わった、と考えられているが、そのあたり実務的にそれほどの飛躍が必要だったのかどうか、納得がいかない。
中国、清朝の髪の毛一筋の違いが良し悪しを分けるとされた翡翠の超絶技巧細工とはわけが違って、縄文時代の大珠、弥生〜古墳時代の勾玉ともに、加工にはさほど細かい技術を要しない。糸魚川流域の玉作遺跡の発掘による知見では、同種のひすいの円礫を使って、おおまかな形に原石を割り欠き、石英を多く含む砂岩で研磨を行ったと推測されている。これは、ニュージーランドで軟玉の細工に硬砂岩が用いられたのと同列であるように思われる。軟玉の加工と硬玉の加工は、原始的な器物についていえばほとんど共通の技術なのではないか。

cf.  No.490 青色ひすい (ひすい文化の中国との関わり、衰退について) 


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