665.フィゼリ鉱 Fizelyite (ルーマニア産)

 

 

Fizelyite フィゼリ鉱

フィゼリ鉱(板状)と毛鉱(針金状)
 −ルーマニア、マラムレシュ地方、バイアマーレ、Herja鉱山 産

 

エジプト、ギリシャ、中国やインドの古い冶金術、薬品の調製術を自在に取り込み、イスラム文化のもとに集成されたアラビア錬金術が、いつ、どんな経路でヨーロッパに伝わったかは興味深い問題である。時期的には11世紀以降というのが大方の見方で、そのあたりに大きな節目があることは確からしい。
一方、経路についてはさまざまな条件がこの時期に出揃う。ひとまずは複数のルートから相補的に、大きな速度差、温度差、曖昧さ、ときにエキゾチックで幻惑的な魅力を伴って伝わったのであろう、と言うほかなさそうである。

イスラム帝国は最盛期の8世紀後半にはアラビア半島から北アフリカ沿岸に広がっていた。今日のモロッコあたりはイドリース朝の、ジブラルタルを越えたイベリア半島は後ウマイヤ朝イスラムの領土であった。
しかし東方ではコンスタンチノープルを拠点とする東ローマ帝国(のちにビザンツ帝国)がボスフォラス海峡の東側、アナトリア高原に至る版図を維持し、イス ラム圏を睨んでいた。ビザンツ帝国は10〜11世紀頃の200年間、充実した国力を蓄え、ヨーロッパとアジアを結ぶ一大拠点として繁栄を謳歌する。
均衡が崩れたのは11世紀の後半である。急速に興ったセルジュク・トルコがアナトリアを席巻してコンスタンチノープルに迫り、ビザンツ帝国は存立すら危ぶまれる危機を迎えた。トルコがカリフの実権を奪ってキリスト教徒の聖地巡礼を迫害している、という訴えを捉えて、11世紀の末に十字軍の第一次遠征が挙行された。
その少し前、ヴェネチアはビザンツ帝から東地中海貿易の権利を獲得していたが、第4次十字軍では宗教的情熱の衰えた軍隊を主導し、やがて特権を得て東地中海の通商ルートを制する。
一方イベリア半島ではヨーロッパ人によるレコンキスタが着々と進行していた。

かくて12世紀までにヨーロッパ人がイスラム文化の価値に気づき、積極的に取り入れる環境が整っていた。
1)十字軍遠征によって複数の東西交通ルートが繋がった。ビザンツ文化やイスラム文化に触れた十字軍戦士、従軍者たちが、その優れた文物、知識を故郷に持ち帰った。
2)ヴェネチアによる地中海交易が盛んになり、アラビアの文物が直接ヨーロッパに届くようになった。
3)一時イスラム勢力下にあったシチリア島のパレルモを中心にアラビア語文献の翻訳が進んだ。
4)ヨーロッパ各地に大学が開かれて新しい知を吸収・消化する土壌が形成された。
5)イベリア半島のレコンキスタによってイスラム文化が取り込まれた。 殊に 1085年に失地回復されたトレドは、12世紀以降、アラビア語やギリシャ語文献の一大翻訳センターとして機能し、ヨーロッパ全土へ情報を提供し続けた。
といったことが挙げられる。
こうした東方文化流入の機運がイタリア、イベリア、(南フランス)を発信源とする知の開花、12世紀ルネッサンスをもたらしたのであり、錬金術もその流れに乗ってヨーロッパの教会や大学へ入り込んだ、とみられる。

一方、ビザンツ帝国(第4次十字軍以降は解体して複数の国に分かれた)からセルビアやハンガリー王国を通って神聖ローマ帝国に入る、いわば昔ながらの、陸海路を小刻みに伝った、多大な時間差を伴う、小規模な文化交流も存在したはずである。
セルジュク・トルコの台頭以前にはキリスト教徒はほぼ自由に聖地巡礼を行っていたのだし、そもそもベネチアが東方との接触を目指した背景には、陸海の中継交易者を抜いた直接取引きによる巨利を求めた側面があった。
私としては、古くから鉱山業が興ったボヘミアやオーストリアが地理的にマジャール人の土地(ハンガリー王国)と境を接することを絡めて、鉱山技術や冶金術、錬金術といった金属化学の分野では、東欧を通って伝えられた実践知識も少なからずあったと考えてみたい。
もしそうであれば、知識の伝播は11世紀末と言わず、もう1、2世紀早い伝来を想定することも可能だろう。
西欧にとってハンガリーという土地は、なにしろ魔術の国で、不思議な効能を持った宝石や薬物、すぐれた金属製品のやってくる神秘の土地としてイメージされていたと思われる。若返りの妙薬と呼ばれた美容液ハンガリー水や、エリクサの別名を持つ貴腐ワインのトカイ酒といったハンガリー産の奢侈品には錬金霊液のイメージがダブって映る。15世紀にはパラケルルス(1493〜1541)がハンガリーやマケドニアに遍歴の足を延ばしている。(補記)

画像はフィゼリ鉱。組成 Pb14Ag5Sb21S48。鉛と銀とアンチモンの硫化塩。
ルーマニアの有名産地の品で 1980年代に出回ったもの。アンドール鉱と同じく、リリアン鉱グループのひとつ。
ルーマニアのトランシルバニアあたりは古くはローマの属州であり、11世紀頃からハンガリー王国の領土となった。その後ドイツからの植民が行われた歴史もある。マラムレシュもその影響を受けた土地だ。ハンガリー産とされる古い金属鉱石は、現ルーマニアの鉱山地帯に出たもの、というのが相場だそうだ。

(補記)古代ローマ時代以来、イスタンブール/エディルネからバルカン半島を通過してヨーロッパ(ウィーンなど)に至る3つの街道が整備されていた。ひとつはエディルネ〜ソフィア〜ニシュ〜ベオグラード〜ブダ(ハンガリー)〜ウィーンと辿ってゆく。後にオスマン帝国がウィーンに向けて進軍してゆく軍用道路となったルートである。オリエント急行の路線でもある。ほかの2つは、イスタンブールから黒海を北上し、ドナウ川沿いにルセ〜ヴィディン〜ベオグラード(〜ブダ〜ウィーン)と進むルート、さらにバルカン半島を東西に横断するエディルネ〜テサロニケ〜モナスティル〜オフリド〜ドゥラス(アドリア海に出てドゥブロヴニク〜トリエステ)のルート。最後のルートはローマ時代に「ヴィア・エグナティア」と呼ばれた。

ハンガリー王国の最初の大学は1465年にブラチスラヴァに創設された。1453年に滅亡したビザンツ帝国から流れてきたギリシャ系の学者たちが活動した国際的な大学だったが、20年ほどで消滅した。しかしその文化的気運はパラケルススの頃にも残っていたかもしれない。またチェコにはプラハ大学が開かれていた。
ちなみに14〜15Cにかけてはハンガリーにロマ(ジプシー)が現れるようになり、金属加工など特殊な技能を持つ集団として最初は歓迎されたという。

(補記2) いわゆるアラブ人・アラブ文化は本来的には、視覚的で目にみえる物質を重視する、主義ではなくその時その時の強烈な感情によって動く、日常は連続的に生起するというより毎瞬の創造であって、因果律の観点を持たない、抽象的な概念操作には関心がない、といった性質を持っており、学問の伝統とはむしろ心理的な距離をおく。イスラームが巨大帝国をなしたとき、ギリシャ、インド、中国などの観念的・抽象的な哲学・文化は、むしろイラン・ペルシャ系の人種またスペインなどのイスラム改宗者によって導入・発展させられたという。
井筒俊彦氏は、アリストテレスらのギリシャ思想がイスラーム圏に入ってきたのは、彼らの精神性に叶ったからではなく、「余りにも珍しかったから」だと指摘している。また「いわゆるアラビア哲学の本当の偉大な創造者達は大部分スペインの回教徒やトルコ、ペルシャ等の出身の人びとであり純粋のアラビア人ではない」という。

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