ダイヤモンドの話3  −ダイヤのかけら6つ


かけらの1.コイ・ヌールの話

19世紀の終りから20世紀の初めにかけて、エクセルシオルやカリナンといった大粒ダイヤが南アフリカで発見されるまで、世界で最も大きなダイヤモンドといわれたのは、インドから来たコイ・ヌール(光の山)だった。このダイヤが歴史に初めて登場したのは西暦1304年のことだが、発見されたのは今から5000年以上昔のことだといわれている。その起源は失われて定かではない。ここに紹介するのは、インドではこんな言い伝えがあるというお話である。

その石は、現在ハイデラバードと呼ばれている都の近くにある村の住人が、自分の農場で働いていたときに見つけたものだった。その男が、畑の中を流れる川で鍬を洗っていると、川底の砂の中から鈍く光る大きな白っぽい石が現われたのだった。石がとても「いいもの」に見えたので、男は、拾い上げて家に持ち帰り、子供たちに与えた。子供たちは、しばらくその石で遊んでいたが、やがてあきてしまうと、窓辺に飾っておいた。そして、それきり誰もが石のことは忘れてしまった。

ある日、村に一人の修行僧がやってきた。仏陀の生まれる前のことだから、仏僧でなかったのは確かだが、ともかく、国中を流浪しながら悟りを求めて歩いているのだった。一夜の宿を求められたので、男は快く招きいれて、食事やお茶を出してもてなした。僧は、流浪の途中で見聞きしたいろいろなことを話してくれたが、その中に川のなかから出てくる宝石の話があった。自分はその川がどこにあるか知っているから、教えてあげてもいい、あなたはちょっと苦労するだけで、ここで畑を作っていたのでは一生かかってもなれないようなお金持ちになることが出来るよ、というのだった。そのとき男は、私は貧乏暮らしでも今の生活に満足しているのです、と返事をしたが、翌日、僧が村を出て行ったときから、川の中の宝石のことが、頭の中でだんだん大きな場所を占めるようになっていった。なにしろ、たった1個の石が、彼の稼ぎの何年分もにあたるほど値打ちがあって、それが、川の中に落ちているというのだから。

男は、せめて川の名前を聞いておくのだったと思ったが、とうとう、農場を売り払って、自分で「あの川」と宝石を探しにいく決心をした。男は妻と子供に、「5年だけ辛抱してほしい。5年経ったら帰ってくる」といって出掛けた。

彼は国中を巡り、一生懸命に働いてお金を貯めては、伝説の場所を探して歩いた。旅を続けるうちに、宝石はダイヤモンドという石だとわかり、それがどんなものかということも分かった。けれども、ダイヤモンドがポンポン拾えるような川は見つからなかった。約束の5年が空しく過ぎて、男はふるさとの村に帰ってきた。
そうして再び我が家を眼にしたとき、ふいに、昔窓辺で鈍く白く濁って見えた石のことを思い出した。男は、叫び声を上げた。その石がなんだったのか、やっと気がついたのだ。それは、どんな都の市場でも見たことがないほど大きなダイヤモンドだった。

− そうだ。「あの川」は、自分の農場の真中を流れていたのだ。

けれども、男は、もう農場を売ってしまっていた。その農場こそ、何千年も後に、もっとも沢山のダイヤモンドが掘り出された、キストナ川のほとり、ゴルコンダ王国の伝説的な鉱山となる場所だった。

男は、自分の愚かさを知って泣いた。それでも、彼は幸運だった。彼には、我が家が残っていた。妻も子供も彼を待っていてくれた。そして家の窓辺には、この世でもっとも素晴らしいダイヤモンド、コイ・ヌールが置かれていたのだから。

※ハシズムの「クラクフのラビ、エイシクの物語」と同構造のお話。 cf. No.416


かけらの2.ニザムのダイヤの話

やはりインドの大粒のダイヤで、グレート・ムガールという石がある。ゴルコンダの都から旅程7日のところにあるキストナ渓谷のコラールで1650年頃に発見され、当初およそ790カラットの大きさがあったといわれている。ゴルコンダの宮廷に出入りしていたペルシャ人のジェムラという野心家がこの石を手に入れ、栄達に利用する機会を窺っていたが、その前に王に反逆を疑われて、命からがらムガール帝国に身を寄せることとなった。そしてダイヤは、第5代皇帝シャー・ジャハンへ捧げられたのだった。その後、当時インドを訪れていたヴェネチア人ボルジオによってローズ・カットを施されたが、きわめて不味いやり方でカットされたので、あまり見栄えのしない小さな石になってしまった。それでも280カラットの大きさがあったが、激怒した皇帝は、褒美を与えるどころか、1万ルピーの罰金を命じて、ボルジオの命の代価とした。
この石を6代皇帝オーランゼーブの宮廷で実見したフランスの宝石商タベルニエは、もしボルジオがそれ以上のお金をもっていたら、皇帝はもっと高額の罰金を課しただろう、と述べている。

ところで、このダイヤは、タベルニエが書き留めた以外の記録が残っておらず、以後は消息不明となって、どうなったのか様々な推測がなされている。しばしば、コイ・ヌールや別の有名な大粒ダイヤ「オルロフ」(ムガールの星)やペルシャ王室の「ダリア・イ・ヌール(光の海)」と同一視されることがあるのはそのためだが、ここでは、グレート・ムガールの後日談のひとつを紹介したい。

ゴルコンダで発見され、デリーに都をおくムガール朝皇帝の所蔵となった280カラットの「グレート・ムガール」は、その名前の由来を守って、以後もずっとムガール朝の子孫に受け継がれ、密かに生まれた土地であるゴルコンダへと移されていた。
およそ200年近く続いたゴルコンダ王国クトブ・シャヒー朝が17世紀末に滅亡すると、デカン高原の中央、ハイデラバードの都は、その後をムガール朝が知事するところとなり、18世紀の初めにニザム朝ハイデラバード王国として独立した。グレート・ムガールは、その時、夥しい数量に上る重代の家宝の山と共にこの高原都市へ運び込まれたのである。王国はその後、大英帝国と結んで、インド最大の面積と人口を擁し、浴びるほどの金銀財宝を保有する大藩王国となった。

時は流れ、20世紀も半ば、グレート・ムガールは、しかし、宝石としては実に寂しい扱いに甘んじていた。時の藩王、第7代ニザム、ルストゥム・イ・ダウラン、アルスト・イ・ゼマン、ワル・ママリク、アシフ・ジャー、ナワブ・ミル・オスマン、アリカーン・バハドル、ムサフフル・ムルク、ニザム・アルムルク、シパー・サラル、ファテー・ジャン高貴殿下(イグゾーテルテイド・ハイネス)は、稀代の大金持ちにして、稀代のドケチ老人であった。

1日3度の食事は、いつも白チーズとお菓子と果物とビンロウジュ、そしてアヘンの煮汁だけだった。たくさんの銀食器をもってはいたが、使うのはブリキの食器だった。
殿下は、下町で買った数十円のサンダルをはき、よれよれのパジャマを普段着にしていた。35年間かぶり続け、汗と埃でコチコチになったトルコ帽を、なおも愛用していた。
父祖たちが住んだ豪壮な宮廷には住まず、家臣にもらったボロ家に住んでいた。家財道具といえば、ワラ布団とテーブルがひとつ、イスが3脚。あとは灰皿と屑カゴがあったが、どちらも年に1度だけ、自分の誕生日にしか中身を捨てなかった。ボロ家の一室を執務室としていたが、そこは物置のようなところだった。古い机やらクモの巣のかかった書類の束を詰め込んだ書類棚が、めったやたらにおかれていた。とはいえ、引き出しという引出しや古い金庫の中には、家宝の宝石がぎっしりと詰め込んであったのだ。そして放り出されたいくつものトランクの中には、当時の値段で何十億ドルという紙幣が詰まっていた。ネズミたちが好んでこの紙幣をかじるので、年に何百万ドルもが巣づくりの材料に消費されていたという。彼の藩王国では、ネズミの方が高価なおうちに住んでいたのであった。

グレート・ムガールは、その部屋の一角にある事務机の引き出しに、古い雑誌にくるんで、しまいこまれていた。殿下は、時々事務机に座って手紙を書いたが、その時には、このダイヤを文鎮代わりに使った。文鎮を買うお金がもったいなかったからである。

1947年、イギリスがインドから撤退し、インド社会主義共和国が誕生したとき、殿下は、新しいインドに併合されるのを拒否し、ハイデラバード王国を夢見た。だが、それはアラビアンナイトの如き、一夜の夢にすぎなかった。数ヵ月後、新生インド軍の武力介入を受け、広大な彼の領土は無理やり共和国に組込まれてしまった。殿下は利殖にたけ、ありとあらゆる財産を持っていたが、国民の支持だけは手にしていなかったのである。

こうして、グレート・ムガールは、占領のごたごたにまぎれて、またも歴史の影に隠れてしまった。現在は、おそらく子孫の一人に受け継がれ、密かに保管されているものと思われる。少なくともその当時よりは、宝石らしい扱いを受けていることであろう。

(参考にした原典では、このダイヤはコイ・ヌールとされている。けれども、筆者は280カラットという大きさや、コイ・ヌールの知られている消息から推測して、おそらく失われたグレート・ムガールだろうと思う。ちなみにハイデラバードには、ニザム・ダイヤとよばれる伝説上のダイヤモンドがあった。細長い不規則な形に刻まれた約280カラットの石で、1857年のセポイの蜂起の際に破壊されたという。ゴルコンダ産だという以外、その来歴はあやふやである。カットの形は違っているが、私は、この二つは同じ石なのではないかと想像している。)

ハイデラバード藩王国には、もうひとつ文鎮代わりに使われたダイヤモンドの記録がある。この老人の父親、第六代ニザムが買った182.5カラットの石だ。この話も面白いので、次のページに記しておこう。かけら2のそのまたかけら。)

 


かけらの3.ダイヤモンドの見つけ方

ダイヤモンドが産出する地相には、3つのタイプが知られている。キンバーライトと呼ばれる青灰色の珍しい火山岩はそのひとつだ。ロシアやアフリカのいくつかの有名なダイヤ鉱山は、キンバーライトが地底から筒状に突き上がってきた特殊な土地で発見されている。この岩石が懐胎するダイヤはごく微量で、1,000,000グラムの母岩から、0.2グラムのダイヤが採れれば、御の字、1グラム採れた日には、「飛び上がってションベンちびって馬鹿になっちまう」、というくらい少ない。
それでもキンバーライトの筒は、ときに直径数百メートルに及び、深さはそれ以上になるから、これらの岩をすべて破砕していけば、採集できるダイヤの総量は膨大なものになる。

キンバーライトは、しばしばダイヤモンド発見の水先案内役を務めてきた。この岩を見つけるのは、少なくとも、ダイヤを発見するよりも容易だからだ(もちろん漂砂鉱床では別)。
例えばシベリアのミールヌイの鉱山は、狐が巣穴を掘るために掻き出したキンバーライトを、休暇中の調査員が偶然に発見したのが発端だった。どうしてこんな辺境の地に調査員がいたのかというと、ダイヤモンドと共にキンバーライト中に含まれることが多いガーネットの分布を手がかりに、このあたりに鉱脈が眠っているだろうとめっこをつけて調べていたからだった。その経緯は、「ダイヤモンドの話2」で触れておいた。

同様の例が、アフリカのレソト王国にある。
レツェング・ラ・テライと呼ばれるその土地は、ドラケンスバーク山脈の中腹、海抜3000メートルという高地にあった。1960年頃、2人の西洋人が、この陸の孤島、「アフリカの屋根」を訪れた。彼らは、キンバーライトのパイプ(周りの岩石を筒状に貫いたキンバリー岩の塊)があることを耳にして、一山当てようとやってきたのだった。2人は、土地を支配していたバスト族の女酋長を説得して、パイプを掘ってもいいという約束を取付けた。そして原住民たちの力を借りて、探鉱を続けた結果、1967年、
ついにバスト族の女性の手で600カラットのダイヤが発見されるに至った。それは世界で11番目に大きなダイヤモンドの原石だった。以来、この鉱山は大粒で質の良いダイヤモンドが出ることで有名になった。
ところで、2人が女酋長を説得するまでには、大変な根気と努力が必要であったろうと思われる。というのは、このパイプは、彼らがダイヤを採掘する以前から、原住民たちの鉱山となっていたからだ。彼女たちは、青灰色の岩の中からチタン鉄鉱を掘り出し、化粧品として使っていたのだ。女酋長にパイプを手放させるために、2人は、資生堂やエリザベス・アーデンの化粧品を山と積み上げたのではないだろうか? もちろんそんな話は伝わっていないのだけれど。
ともあれ、キンバーライト中には、ダイヤの他にガーネット(パイロープ)やチタン鉄鉱が含まれており、これらの鉱物もまた、ダイヤ探索のよき道標となる。

もうひとつ、ちょっと変わったダイヤ鉱山発見譚を紹介しよう。

1962年、南アフリカの企業デ・ビアス社は、ボツワナ(当時ベチュアナランド)でのダイヤ探鉱権を得るため、地質調査員を派遣して、マウトラウス河流域の探査を始めた。以前に河の岸辺で3個のダイヤが発見されており、流域のどこかにダイヤ鉱脈が眠っていると考えられたからだ。調査員たちは、ほぼ4年間にわたり、河の源流地方をくまなく歩き回った。だが、1個のダイヤも見つけることが出来なかったし、キンバーライトのパイプも発見できなかった。
途方に暮れた調査員の一人が、極めて大胆な仮説を思いついた。それは、「大昔、アフリカ南部に大規模な土地の隆起運動が起こったため、マウトラウス河の上流は分断されてしまったのかもしれない。もしかしたら、本当の源流は隆起した山脈を越えた反対側の土地にあったかもしれない」、というものだった。彼らは、最後の切り札として、その可能性に賭けることにした。そうして山脈の北、カラハリ砂漠のはずれまで探鉱キャンプを移動させた。
だが、そこは何といっても砂漠だった。どうやって大量の砂の下からダイヤの鉱脈を探せばいいのだろうか。どうやってその深みから土壌サンプルを入手すればよいのか。乾いた砂漠の砂のように、彼らの希望もまた、さらさらとこぼれ落ちてゆくようだった。

幾日か過ぎた。調査員たちは、あてもなく、ただうろうろと砂漠を歩き廻った。ある日、彼らは、塔のような形をした奇妙な土の柱を見つけた。蟻塚だった。乾燥した砂漠にもたくさんの白蟻が住んでいたのだ。その瞬間、疲労困憊の極にあった彼らに、天才のひらめきが舞い降りた。これが使えるのではないか?

蟻たちは、巣を作るための湿った砂を得ようと、砂漠の表面から100メートル以上も穴を掘り、地下の土を地上に持ち上げてくる。ならば、その土を調べればいいではないか!
かくて調査員たちの日々は、蟻塚から土壌サンプルを採集しては、分析を加えることに捧げられるようになった。
そして1967年3月、彼らは、ついに原住民たちが「オラパ」と呼んでいる土地にたどり着いた。その土地の蟻塚の中に、ガーネット(パイロープ)とチタン鉄鉱の痕跡を発見したのである。上述の通り、これらはキンバーライト中に含まれる鉱物だったから、その下にはキンバーライトがあるに違いなかった。そしてキンバーライトの中にはダイヤが。
試掘作業が始まった。コア・ボーリングのドリルがたちまち鉱脈の中心を貫いた。ダイヤモンドが文字通りあふれ出てきた。気がつけば、あたり一帯、直径1キロ近い範囲がすべてキンバーライトのパイプであった。

(付記:レソト王国のエピソード中、チタン鉄鉱を化粧に使うという話は、筆者にはもうひとつピンとこない。けれども純度の高い二酸化チタン(合成ルチル)は、きれいな白色をしており、非常に安定かつ安全で、人体に悪影響がないので、顔料や化粧品に使われている。だから、多分、煮たり焼いたり、呪文を唱えたりして、黒いチタン鉄鉱から白い粉末を作るのだろう。

付記2:チタン鉄鉱、灰チタン石、くさび石といったチタン鉱物は、風化すると Leucoxene 白チタン石と呼ばれる、ルチルや鋭錐石の混合物となる。理想的には白色不透明の物質だが、たいていは黄色〜褐色である。レツェング・ラ・テライでは、あるいは特に質のよい化粧のりのよい白色微細粒が混じっていたのかもしれない。

 


かけらの4.宇宙をただようダイヤの話

これは、先々月の新聞の夕刊に載っていた話。「宇宙のちりはダイヤモンド工場」という見出しがついていた。内容は、宇宙空間にダイヤの星はないが、微小なダイヤモンドならいくらでもありそうだというもの。
宇宙には細かなちりがたくさん存在している。それがどうやって出来たのかは、わかっていないが、古い星が大気を宇宙空間に放出するときに出来るという仮説がある。で、その状況を実験室でシミュレーションしてみたところ、ちりの中にダイヤの層が見つかったのだという。

なんでも、メタンガスに電磁波をあててプラズマ状態にしたものを真空中に放り出すと、急冷されて、微小なちりになる。この現象は大気が宇宙に放出される段階に相当する。このとき出来たちりは、メタンガスの成分である炭素を含んでいるが、さらに真空中で100℃に加熱すると分子構造が変化して、30分ほどでダイヤモンドになるという。とすれば、当然宇宙空間でも同様の反応が(さらに高温下で)進行しているだろうから、宇宙はダイヤのエーテルに満ちていると考えられる。

ただし、このダイヤ、直径が百万分の一ミリくらいしかない。宇宙空間で、これらが凝集されて、指輪に使えるくらいの大きさに成長するものかどうか、さらなる研究を待ちたいところだ。
もし、そんなことが起こっているのなら、有史以前から宇宙のちりが降り注ぎ続けているこの大地、いつかトリケラトプスの化石と一緒に、大粒のダイヤが掘り出されるという可能性だって、なきにしもあらずである。

 


かけらの5.Kと指輪の話

敬愛してやまない、Kのエピソード。

彼は、本当に素敵な人物だった。恥ずかしがり屋で正直で、怒りっぽくて、優しくて、透明な知性と使命感とを持ち、この世界で起こることすべては何かしら素晴らしいものだと信じさせるような、不思議な雰囲気をたたえていた。誰もが惹きつけられずにおれない、美しい容貌と、声をしていた。

彼は若いときには恋をしたし、年をとってからもたくさんの人と愛情を分け合った。彼の周りにはいつも、彼の仕事を手伝い、彼の世話をし、ともに喜びを分かち合う人たちがいた。

エミリー夫人はKが若い頃からの知り合いだった。そう言ってよければ、信奉者だった。彼女は、Kに魅かれ、Kの仕事のためにすべてを投げ出すことも辞さないほどだった。一方Kも、ほかの人には語ることのない内心の感情を、長い手紙にしたためて彼女に送るのが常だった。Kは手紙の中で、彼女にマム、マザーと呼びかけた。2人の親密な関係は長い間続いた。実際、夫人が亡くなるまで続いたのだった。

夫人には5人の子供たちがいた。その一人、娘のメアリーは、子供の時から12歳年上のKを知り、それから70年以上にわたって、Kの友人となった。彼女は、ロンドンにいて、2人の交流をずっと見守ってきた。エミリー夫人の死をマドラス(現チェンナイ)にいたKに知らせたのも彼女だった。このとき、Kは、折り返しメアリーに手紙を書いた。

人生は不思議です。お母様にいつまでも生きていて欲しいと望むことは出来ませんが、私にとって、もうロンドンは同じ場所ではなくなりました。長い友情でした。52年間も続いたのです。ほとんど一生といっていいでしょう。私たちはすべてを通り抜けてきました。それでも、彼女に会えないのは、とても奇妙な感じがします。私は彼女を愛していました。

Kはそれから20年以上生きたが、夫人を忘れたことはなかった。メアリーが夫人の話をすると、いつも愉快そうに言った。「あなたは、お母さんにそっくりだよ。」と。

彼は、夫人がはめていた指輪をよく覚えていた。それは、ダイヤモンドとトルコ石をあしらったもので、夫人の死後はメアリーが引き継いだ。彼女は、Kと会うときには、必ず指輪を身につけた。彼が気に入っていることを知っていたからだ。ときどき、一緒に昼食を摂りながら、指輪をはずして彼に渡し、私のために嵌めてくれと頼んだりすることもあった。するとKは、しばらくの間、自分の小指にはめてから、そっとメアリーに返すのだった。

返してもらうと、いつも、ダイヤモンドが、まばゆいほど光っていたという。

メアリーは、Kの依頼を受けて、彼の生涯を綴った3冊の伝記を書いた。その中で彼女は、これは思い込みではない、と書いている。
−最初にこんなことがあった。昼食の後、孫娘の一人に会った。彼女は指輪を見るなりこう言ったのだ。
「まあ、ダイヤを磨かせたんですか?なんて素敵に光るのでしょう!」

 

付記(K:ジドゥ・クリシュナムルティ。彼を愛する人たちからは、尊敬を込めて、クリシュナジ、または親しく、ケイ(K)と呼ばれた。)

付記2:晩年のKの世話をして、もっとも身近にあったマリーア・ジンバリストの回顧録に、Kが宝石を身に着けて石を「磁化する」エピソードが何度か言及されている。彼女の記録ではメアリーのこの指輪はただトルコ石として触れられる。
「磁化する」という言葉が具体的に何を意味するか明瞭でないが、マリーアによると、Kは自分が宝石を身に着けていると何らかの影響が石に及んで、そのエネルギーが暫く留まると考えていたらしい。Kはマリーアの指輪を預かって、マリーアが彼と離れて一人で行動する時はそれを嵌めていて欲しがった。彼女を保護するだろうと言うのだった。
こうした観念(ないし経験則)は、聖人の衣服や所持品が持つ奇蹟的効果への信仰、親しい人からの贈り物を身に着けたり形見に持つ習慣などに現れて、世界的に普遍と思われる。
なお、Kは生涯にわたって自分が(なんらかの存在に)保護されているという感覚を持っていた。(2022.8.22)

cf. No.338 (バーバラ・ブレナンのお守りの見解)   ミュンヘンのレジデンツ1(聖遺物)

 


かけらの6.ムトフィリのダイヤモンド

草原の狼子チンギス・ハーンから数えて6代目。元朝皇帝、フビライ・ハーンが、中国、東南アジア、中央アジア、北方インドに及ぶ広大な版図を支配していた頃(13世紀後半)、ヴェネチアの商人、ニコロ・ポーロの息子マルコは、フビライの寵臣として、17年間にわたって皇帝の御用を務めた。彼は、帝国の都市や近隣国のさまざまな土地を何度も訪れた。
後に苦難の旅路を経て、23年ぶりで故郷に帰還したとき、長い旅の間に収集した地誌を知人たちに語った。こうして、ジェノヴァでの虜囚生活中にまとめられた聞き書きが、後世に名高い「東方見聞録」である。

その中から、ダイヤモンドについて、マルコの語った言葉を聴こう。

 

ムトフィリ国

マアバル(注1)から北へ500マイル行くと、ムトフィリ王国(注2)に着く。独立国であり、むかしは王が支配していたが、40年前に他界した。そのとき皇后は、「私は夫をとても愛していた。もう新しい夫を迎えるつもりはない」と宣言し、以来彼女が王権を握っている。思慮のある人物で、夫と同じくらい、いやもっと巧みに領土を治めている。住民は偶像を崇拝し、肉、米、ミルク、魚類、果実を常食としている。

ダイヤモンドが採れるというのはこの国のことだ。

国内に高い山岳地帯があって、いくつかの場所がダイヤの産地として知られている。冬の雨期には、すさまじい豪雨が続くので、山に入ることは出来ない。山からは、ごうごうと急流が流れ下り、平野では川が氾濫する。雨期が過ぎて、流れが落ち着くと、住民たちは川筋を探す。すると、川床や畑に積もった土の中から、大雨で砕かれた岩とともに流されてきたダイヤモンドが見つかるのだ。

一方、夏(乾期)には雨が降らないから、山の中へ行けば、もっとたくさんのダイヤを見つけることが出来る。ただし、太陽の熱が非常に高いし、一滴の水も得られないので、これは並大抵のことではない。山中には多くの害虫がいて、その上、胴の太い大蛇が、絡まりあって毬を作るほど棲んでいる。この蛇の毒はきわめて強く、毎年大勢の人が噛まれて死んでいる。それでも、危険を冒してダイアモンドを得ようとする人々は後を絶たない。行けば、必ずダイヤが拾えるからだ。しかし、彼らも、蛇の巣となっている岩窟にだけは近寄らない。

ある山中に大きな深い谷があり、谷底には多くのダイヤモンドが転がっている。ここには大粒で質の良いダイヤがある。けれども、あまりに険しいため、誰も谷底へ下りてゆけない。仮に下りられたとしても、そこは蛇の巣で、群がる毒蛇に、たちまち噛みつかれてしまう。そこで、ダイヤ採りの人々は、なるべく脂肪の少ない肉をもってゆき、谷底へ投げ込む。この辺りには白鷲がたくさんいて、山の中で獲物をあさり、蛇を食べているのだが、肉が投げ込まれるのを見ると、目ざとく舞い下りて掴み上げ、岩の上に運んでつつきはじめる。見張り役は、鷲が岩にとまるやいなや、大声をあげて追い払い、飛び去ったあとへ駆けつける。驚いた鷲が残していった肉には、谷底にあったダイヤモンドがいっぱい突き刺さっているから、それを集めるのである。

ダイヤモンドを採るには他にも方法がある。この辺にある白鷲の巣に忍び寄って、巣の中からたくさんのダイヤモンドを回収することが出来るのだ。それらは谷底に投げ込まれた肉やら獲物の蛇と一緒に運び込まれたものである。また鷲を捕まえて裂くというやり方もある。胃の中にダイヤモンドが見つかるからだ。以上のように、ダイヤモンドを取る方法は3つある。

世界広しといえど、ムトフィリ以外の地方ではダイヤモンドは産出しない。逆に、ムトフィリでは、大粒で質の良いダイヤが沢山とれる。ヨーロッパに持ってこられるのは、そのうちの、ほとんど屑みたいなものだけだ。真珠もそうだが、素晴らしいものは、残らず大ハーンやこの地方の王侯が手に入れてしまう。実際彼らは、世界最大の宝を無尽蔵に蓄えているのである。

注1:今のインド亜大陸南東部、コロマンデル海岸あたりという。(南西のマラバル海岸ではない)
注2:ムトフィリは港の名前。本当の国名は、テリンガーナ王国。今のハイデラバード北東方にあるワランゴールを首都とする。後のゴルコンダ王国という。
注3:マルコがムトフィリに足を伸ばしたことがあるのか、それとも聞き書きをまとめただけなのかは、よくわからない。
注4:時珍の本草綱目の金剛石の「集解」に、「西域およびウイグルの高山の頂上に出て、鷹や隼が食べたエサにくっついて腹に入ったものを、河北地方の河原の砂積地へ糞と共に落としていく」と伝聞が記されている。ちなみに金剛石の項の記述は、西方で鍛え研ぎ上げた鋼の刀剣の描写と思しい部分がある。

補記:7世紀頃に成立したとみられる「東方もの」のひとつ、「アレクサンドロス大王からアリストテレス宛の手紙」には、ヨルダン渓谷に住む蛇の話がある。この蛇たちは首のところに宝石を蔵している。その宝石はエメラルドである。蛇の目はその宝石の光を集めることで光っているという。(ちなみにルビーが夜に光るという俗信があったことをうかがわせる記述もある)
この「手紙」にはダイヤモンドは出てこない。当時はヨーロッパに知られていなかったのだろう。
また12世紀頃に知られ始める「司祭ヨハネの手紙」には、宝石として「自然石(なにを指すか不明だが、おそらく水晶や真珠などそのまま宝石になりうる美石と思われる-SPS)、エメラルド、サファイヤ、ルビー、トパーズ、クリソリトス、オニキス、緑柱石、紫水晶、紅玉髄」が挙げられている。もっとも高貴な宝石はエメラルドだったと思われる。
この手紙には別の箇所に「ダイヤモンド」(アダマス)が出てくるが、「普通の石でも火でも、あるいは鉄をもってしても消耗できない」もので、巨大な挽き臼車に使われていた。おそらく宝石としての石ではないと考えられる。
中世のヨーロッパで宝石のダイヤモンドが登場するのは12世紀以降のことで、マルコポーロの頃には、貴重な宝石として「ダイヤモンド」が知られるようになっていた。

補記2:地中に棲む(毒)蛇が金銀の鉱脈や地中の宝を守っているという信仰は、いつどこで始まったか定かでないが、ヨーロッパではずっと後々まで続き、ゲーテも「ファウスト」の中で採用している。錬金術的には、地中の宝物を手にいれるために(奸智に長けた)ヘビの試練をくぐりぬけなければならない。

(2000.5.23 SPS)


このページ終り