天空の剣の話    −隕鉄を鍛えた刀


鉄鉱石や砂鉄(いずれも酸化鉄)を還元して鉄を作る技術が発見される以前、人類は、純然たる鉄の塊を拾ってきて鉄器を作っていたらしい。その歴史は、概ね石器時代にまで遡る。当時の人々は、鉄を始めとする金属を普通の石と区別しておらず、石と同様、珪石などの硬い槌で打って形を整え、磨いて仕上げた。鉄器は石器と同じ形状に加工され、同じ目的で用いられたのだった。
それから長い時代を経て、人々は鉄を火によって加工することを覚えた。それはもっとも早い地域でもBC2500年以降のことで、グリーンランドのエスキモーなどは、20世紀に至っても、まだ石で叩くだけでナイフを加工していた。しかし、たいていの民族は、年代差はかなりあるものの、やがて鍛接という新しい技術で鉄器を加工するようになった。

多くの金属は(金属に限らないが)、表面を充分清浄で平滑な状態にして重ね合わせると、分離したかけら同士を一つにくっつけることが出来る。これは、条件が整えば原理的に常温でも可能だが(例えば金のように)、鉄の場合は、熱しながら打撃を加えることで、はるかに容易につなぐことが出来た。また、同じ方法で容易に変形させることも出来た(鍛造)。鍛接は、金属の溶解とともに、石器時代と金属器時代とを明確に区分する画期的な技術だった。ここに石と鉄とは、明らかに異なった性質を持つものとして認識された。1100℃程度(わりと高温)で溶解する銅のような金属は、融かして型に流し込んで自由に造形出来たが、さらに融点が高く、当時は溶解不能だった鉄でも、鍛接によって、より大きく、より複雑な形状に加工することが出来たのである。
金属器時代に入ると、人々の手足となって働く道具は、石器時代とは比べ物にならないほど性能が向上した。生産(作業)効率は、著しく高まった。その一方で、おそるべき殺傷能力をもった剣や斧が生み出された。ひとつの文明と別の文明とは、互いに脅かしあい、生命を賭けた覇権争いが始まった。特に鉄兵器の鍛造技術は、それを持つ民族と持たない民族との明暗を、まるで月世界の昼と夜のようにくっきりと分かった…。

とはいえ、そうした鉄器の素材となったのは、相変わらず、どこかから「拾ってきた」鉄だったのである。
そしてその鉄は、人類にとってかなり象徴的なことなのだが、天からの贈り物であった。(cf. No.140

地上には、大雑把に言って、地球の内部で生成し、地表に昇ってきた自然鉄(No.92)と、天上を起源とする隕鉄(ギャラリーNo.94)とが、存在している。多くの考古学者たちは、人類が最初に手にし、その後も精錬法が伝授されるまで使い続けられたのは、主に隕鉄の方だったと考えている。
地球起源の鉄は地表ではすぐに酸化してしまう。高純度で錆びにくいものか、ある種の環境下で再還元されたものだけが自然鉄として残る。肉眼的な鉄塊を得られる土地は案外少なく、どこでも手に入るとはいえない。一方、隕鉄は万遍なく地表に降り注がれているから、大地が剥き出しの場所では、ずっと見つけやすかった可能性がある。隕鉄もやっぱり錆びるが、表面が頑強な皮膜で覆われているため、内部は腐食されずに残っている。数千年前には、現在よりはるかに多量の隕石や隕鉄のかけらが地表に存在していたと考えられる。そのため、人類は隕鉄を使っていたとされるのである。ただし、入手しやすかったといっても、大量の隕鉄が至る所に散らばっていたわけではない。膨大な埋蔵量を誇る鉄鉱石(酸化鉄)が利用可能になるまで、長い間、鉄はきわめて珍しい金属であった。

古代の人々は、隕鉄をとても大切に扱い、畏敬の念すら抱いていた。第一に希少であった。第二に天上を起源としていた。これは、鉄には天空の力が宿っていることを意味した。
半ば土に埋まり、焦げ茶色の皮をかぶった隕鉄を、どうして天上と結びつけたのかという疑問はあるが、長い年月には誰かが落下現場に行き遭うこともあっただろう。この数年の間にも、嵐の夜、来客と食堂で談笑していたら屋根を突き破った隕石が隣室に落ちてきたとか(三保関隕石:1992年12月10日落下)、ガレージで大音響がしたので見に行くと自動車のトランクが隕石で中破していたという事件があった。後者はピークスキル隕石(1992年10月9日落下)として売りに出され、潰された自動車は客寄せに使われたので、ミネラルショーなんかでその写真や実物を見た方もおありだろう(新宿ショーにも来た)。隕鉄と天空を結びつけるのは、思うほど難しくないのかもしれない。
「ごらん、この荒地に落ちている重くて冷たい石は、みんな星のかけらなんだよ。生命の種を播くために落ちてきたんだ」「まあ、信じられないわ」「本当の話さ。ぼくらの体だって、もともとは同じ星のかけらだったんだ。だから二人は生まれてくる前からの知り合いなんだよ」などど語り合ったカップルもいたかもしれぬ(なに言ってんだか)。

エリアーデは、インド・ヨーロッパ系の民族には、天空は石で出来ているという共通の信仰があったと書いている。ときどき落ちてくる隕石は空のカケラであった。古来、宗教上の御神体として、天から降って来た巨石が祭られることも多い。メッカのカーバにある黒い石は隕石といわれ(cf.No.713 補記1)、モーゼの十戒を刻んだ石も空から降ってきた。京都貴船にも天降石がある。コルテスがアステカ人を征服したとき、君たちのナイフはどこで手にいれたのか、と尋ねると、彼らは黙って天を指差したという。
アルタイ系の民族には星と神々にまつわる信仰、隕石群の近くに築かれたストーンサークルや鉄器文化の存在を示す遺物が密接に関連しているという。(→アルタイの隕鉄群

つけ加えるなら、古代人にとって、鉄は特殊な性質の(割れずに伸びたり曲がったりする奇妙な)石であった。磨けばぴかぴかに光り、濡らすと錆びた。冷やりとして、それでいてすぐに温まった。叩くと澄んだ高音を響かせた。同じ様子に見えて、硬い鉄も柔らかい鉄もあった。その繊細さゆえに、生命を宿すものに思われ、神聖視されたということもあろう。青光りする鉄は、見る人を一種のトランス状態に誘うことさえあった。このような鉄器はしばしば実用品である以上に聖物として扱われてきたのである。特に剣や斧などの武器は、そのまま神秘的な霊力に直結して、敵を打ち滅ぼし、持ち主と同胞の命を救った。天来の武器を持つ民族は、まさに天から降り来った神々の末裔として畏れられた。

トルコはアナトリア高原、アラジャヒュユクの遺跡から発掘された剣は、BC2300年頃のもので、柄と鞘が黄金、刀身が鉄製だった。同時に出土した鉄器に、4〜5%のニッケルが含まれていることから、剣もおそらく隕鉄を鍛えたものと考えられている。シリアのラス・シャムラの神殿から発見されたBC1500年頃の鉄斧は、2.25%のニッケルを含むから、やはり隕鉄だという。エジプトのツタンカーメンの王墓から出た剣は、BC1400年以前に鍛造された隕鉄。イラク、ウル出土の短剣は10.9%ニッケルの隕鉄で、BC2500年頃のもの。これらは、手ごわい武器として戦場を血で染めたが、平時には、崇拝の対象、あるいは、特定の人物のみが触れることを許された呪力を持つキッチュとして扱われた…。

日本では、隕鉄を星鉄、隕星、天降鉄(あめふりてつ・あふりてつ)などと呼び、やはり霊的な力が備わった鉄と信じた。製鉄技術は、AD4世紀以降に大陸から渡来したといわれる。それより古いBC200年頃の弥生時代の遺跡からも鉄器が出土しているが、おそらく大陸から持ってきたものだという。AD6世紀以降、日本の鉄は独自の発展を遂げ、砂鉄を原料とするたたら製鉄に結実した。玉鋼や包丁鉄など一風変わった性質の鉄が生み出され、日本刀に神秘的な切れ味と強靭さとをもたらした。余談だが、日本刀の作刀技術は、平安中期には体をなし、鎌倉時代に絶頂期を迎えた。現代のたたら製鉄で作った玉鋼は、当時の古鉄に及ばないという(磁力選鉱で採集した砂鉄を使うしかないので、やむをえない)。
こうしてみると、日本の鉄器は最初から還元・精錬された鉄を使った様子だ。原料は多量に遍在する砂鉄や鉄鉱石で足り、希少な隕鉄を探し求める必要はなかった。そもそも日本では鉱石を精錬して鉄を作る技術自体、天から下った金屋子(かなやご)の神に伝えられたものとされ、隕鉄でない鉄もやはり天の霊力を備えたものと考えられていた。
しかし、上述の通り、天から降ってきた鉄への信仰は古くから根強く存在していた。それは大陸渡来の鉄が、その初め、天から降ったものとして崇められていたためかもしれないし、(中国ではBC14〜11C、殷代安陽期、河北省藁城台西遺跡に出た青銅の武具(まさかり)の本身の先端に隕鉄が、また北京市劉家河出土のまさかりの鉄刃にも隕鉄が使われていた。当時の中国ではまだ製鉄法が確立していなかったとみられる)、あるいは大陸文化の流入以前に隕鉄(や隕石)を石器の一種として利用していた可能性もある(世界各地に例がある)。

鉄製の弓矢や刀剣は、しばしばそれ自体に魂があるかのようにみなされている。ひとたび放てば的を外さず、必ず持ち主の元に返ってくる矢。主人に危険が迫れば曇り、敵の血を浴びて月夜に歌う剣。そうした武器を作る材料には、しばしば霊力を持つ隕鉄が加えられた。
後述のように、隕鉄は日本刀の素材にはあまり向いていないのだが、少量混ぜるくらいなら特に困難はない。神鏡や身装品にするなら全く問題ない。一種の儀礼的アイテムとして、隕鉄そのものや、隕鉄を加えた霊剣を神社に奉納し、御神体とした例もあった(ちなみにマレー半島やインドネシア一帯では、隕鉄のカケラを混ぜた魔法剣クリスが作られた。ジャワのソロのサルタンは 1797年落下のプラムバナン隕鉄で出来たクリスを家宝とした。17世紀、ムガールのジャハンギール帝は隕鉄の刀剣類のコレクションを持っていた)
三種の神器のひとつ、アマノムラクモの剣(草薙の剣)は、この世のものとも思われぬヒヒイロカネという天来の超金属で作られたと月刊ムーで読んだ(かなり眉唾)。この剣は時代考証的に百済から来た輸入品だとか、銅剣だったという説もあるが、ヤマタノオロチの尾から出たと伝わるのだから、やはり出雲産の鉄剣であり、天叢雲という呼称が隕鉄を暗示しているように思われる。

ここで、隕鉄の性質について2、3述べておこう。
隕鉄は、自然鉄や還元法によって作られた人工鉄とは、まったく違った性質を持っている。百万年に1℃といわれる限りなくゆるやかな冷却過程で生じた結晶構造は、自然鉄でも人工鉄でも、実現しようのないものである。自然鉄は粘り強いがかなり柔らかい。一方隕鉄は、多量に含まれるニッケルが組織を硬くしている。人工鉄は、数%以下の炭素を含み、熱処理によって硬さや粘さを調整できるが、典型的な隕鉄は、炭素分が10ppm以下と少ないため、熱間加工後も、生のままの性質が保たれる(日本刀のように刃に焼きが入らない)。

通常、隕鉄は音速に近い速度で大気圏に突入し、大気との摩擦熱で表面に溶融皮膜を形成する(隕石も同じ)。この時の高熱とガスの影響で、しばしばガスホールを生じ、その周りに不純物が形成されている。こうした欠陥は、鍛造した刃物の表面に黒いキズやしわ目となって現れる。しかし、古代においては霊力を持った貴重品だったから、そのくらいの不具合は目をつぶったであろう。
発熱した隕鉄は空気抵抗を受けて減速し、進入角度にもよるが、地表付近では秒速15〜16mくらいの速度になっている。小さい隕石なら地面にクレーターを作ることもないし、充分に冷えているので草地を焦すこともない。それと気づかれずに舞い降りた隕鉄は結構あるだろう。もちろん、巨大隕石が急角度で落下するような場合は、周囲にすさまじい破壊を引き起こす。俗にコロニー落としという(うそ)。

地表に衝突した隕鉄は、衝撃型の自由鍛造が行われ、表層のキメがより細かく、より強靭になっていそうな気がする(衝撃により飛散するというもっともな説もある)が、実際にギベオン隕鉄塊を切断してみた某氏は、「表面は柔らかくて簡単に砥石(切断ディスク)が入ったが、途中から硬くなって砥石の方が変形した。銑鉄でもないのに銑鉄のような火花が飛ぶし、どう考えても不思議な鉄だ」と言っている。反対の現象が起きていたわけだ。ところが、やはりギベオン隕鉄を削った別の方は、まったく火花が飛ばなかったといっている。炭素分が少ないのだから、それで当たり前なのだが、本当にわけがわからない。部位によって違うのだろうか。
(※考えてみると隕鉄にはトロイリ鉱、シュライバーサイト、炭素など、さまざまな含有物が混在している。炭素があれば火花が飛ぶだろうし、微小なダイヤモンドが入っていれば普通の砥石は通らなくなる。)

鍛接についていえば、隕鉄は一種のステンレス鋼だから鍛造できないはず、という意見がある。しかし現に古代鉄器は鍛接されているから、何らかの技法が存在したに違いない。また隕鉄は鍛造用の人工鉄と比べると燐や硫黄分が比較的多い場合があり、中低温で加工すると結晶粒界に溶融点の低い硫化物や燐化物を作ってもろくなる。従って、鍛接する端から砕けてしまうとも言うのだが、950℃程度の高温で鍛えれば、なんとか態をなすという。このくらいの温度なら人類はBC3000年以前に実現していたので、結論、なんとかなったのだろう。
なお鉄に含まれる炭素が少ないほど、燐が鉄の性質を損なう限界濃度も高くなる。隕鉄は極低炭素のため、比較的燐の悪影響に強い素材ではある。しかし極度に多い場合は(0.2%以上)、やはりどうにもならない。

日本では、明治以降、何人かの刀匠が、隕鉄を使って剣の製作を試みている。
一番有名なのは、明治31年(1898年)、農商務大臣榎本武揚から、時の皇太子(大正天皇)に献上された流星刀である。素材には、明治23年、富山県白萩村で発見された隕鉄が用いられた。漬物石に使われていたのを、譲り受けたものという。榎本は、霊験あらたかな日本刀の素材には隕鉄がぴったりだと考えて、作刀を思い立った。しかも少量を玉鋼に混ぜるのではなく、隕鉄だけで作らせようとした。請け負った刀匠、岡吉国宗は、かなり苦労させられたらしい。岡吉から榎本に宛てた手紙に、「星鉄で刀を作ることは伝授も経験もなく、玉鋼と同じ方法を試みたが困難だった。色々考えながら3度やり直した結果、白熱するまで加熱してようやく出来た。研ぐと美しい地肌が出た…」という意味の言葉が残っている。日本刀は、本来赤熱状態で(より低温で)、折り返し鍛錬するもので、白熱するのは作法に外れるが、ともかくも、なんとかやり遂げたのである。
なお、上申書には、「皮金には隕鉄のみを用い、刃金には、30%の玉鋼を混ぜたものを用いた」と記してあるという。前述のように、隕鉄だけでは刃に焼きが入らないから、これは賢明な措置であった。白萩隕鉄の成分は、ニッケル9.3%、コバルト0.8%、燐0.06%、銅0.14%、硫黄0.22%、炭素0.22%、残りが鉄である。

最近では、国立歴史民族博物館の田口勇教授(当時)という方が、何度か隕鉄剣を試作している。一度は、トルカ隕鉄100%で、ナイフを2振り作ってみたが、一片は、日本刀の作法通りに鍛接してボロボロになり、まったく使い物にならなかった。他の一片は同じ条件でなんとかナイフになったという。ニッケル7.8%、燐0.22%、硫黄0.003%…。おそらく燐の多さがわざわいしたと考えられる。
この後1994年には、ギベオン隕鉄を使って挑戦し、試行錯誤の末、成功している。ギベオンは、燐分が0.03%程度で、もっとも鍛造しやすい隕鉄だそうだが、日本刀特有の折り返し鍛錬には、やはり苦労した様子である。刀匠法華三郎の体験談によれば、鍛錬の温度は思い切って融解直前まで上げる必要があったという。流星刀の場合と同じだ。さらに、最適温度と不適温度の間には、わずか30〜50℃程度の差しかなく、その違いで、鍛着したり、しなかったり、溶け落ちそうになったりしたとある。氏は、炎の色を見て適温を感じ取り、成功させたという。まさに熟練の技である。

他には、福島県「星の村天文台」の大野氏という方が、アリゾナ隕鉄100%の日本刀を所有されているという。成分は知らないが(キャニオン・ディアブロ隕鉄か)、学者筋のお話では見事な出来栄えだとのこと。刀匠は藤安将平。

最後に日本刀の折り返し鍛錬について、簡単に書いておこう。日本刀は鍛錬した硬い玉鋼で柔らかい包丁鉄をくるみ、形を整えたものだ。この外側の硬い鉄を作るには、まず、たたら製鉄で得られた玉鋼(ぐちゃぐちゃのスポンジ状)の小割りを平たい餅のような形に叩いて伸ばし、細かく砕く。その中から適当なかけらを拾い出して延べ板の上に並べ、熱間鍛接する(最適の鋼にするため、炭素量の違う玉鋼を混ぜ合わせる)。そうして厚さ4.5センチ、長さ12.5センチ、幅6センチ程度(寸法は一例)の角材を作る。この角材を熱しながら長辺方向へ倍ほどに打ち伸ばす。次いで、中央あたりにタガネで刻みを入れて二つ折りに返し、重なった面を叩いてくっつける。すると元の角材の寸法になるから、さらに同じことを何度も繰り返す。これを折り返し鍛錬という。鍛錬が終わると、所定の形に打ち伸ばして(包丁鉄も挟み込む)、刀身とする。この後、焼きを入れて研ぐ。
ところで、隕鉄で日本刀を作るとき、問題になるのは、折り返した面がちゃんとくっつくのかという点である。これは、単に隕鉄塊を打ち伸ばして剣の形にするのとはまったく次元の違う問題だ。玉鋼に隕鉄を混ぜたものなら多分それなりにくっつくだろうが、隕鉄100%で作ろうとしたところに、現代人らしいマニアックなこだわりがある。

さて、理論的には、鍛接した鉄は完全に一体となって、折り返したことも分からないはずだ。しかし、実は玉鋼は部分によって成分変化の大きい不均質な鉄なので、折り返す度、成分の異なる層がパイ皮のように重なってゆく。しかも倍々ゲームで増えてゆくので、10回折り返すと1024層になる。日本刀は通常20回前後の折り返しをするから、仮に全層数えられるとしたら100万層をこえる。こうして性質の違う層(たとえば、柔らかい層と硬い層)が複合して積上げられることによって、非常に強靭な刃物が生まれるのである。繰り返すが、これは玉鋼の性質が均一でないから可能なので、高度に管理された現代の鉄では、いくら折り返し鍛錬しても層が出来ず、折り返す意味がない。よく玉鋼でなくては日本刀は作れないと言われるのは、高品質の洋鉄では折り返しても性能が向上しない、ナマクラ刀しか出来ないという意味だ(洋刀には洋刀の良さがあるのだが)。その点、隕鉄にはウィドマンシュテッテン模様で知られる成分偏析があり、決して均一でないから、折り返してくっついてくれれば、なかなか優秀な剣になるのかもしれない(とはいえ現代では実用器というより、やはり儀礼器・祭具としての位置づけとなろう)。

日本刀は肌目に美しい模様が現れる。折り返し鍛錬で生じた層の反映である。伝統的な玉鋼の刀では、板目、あるいは柾目模様が出る。鎌倉時代の古い刀には杢目に出たものもある。折り返し方の工夫や刀身を取る向きで、ある程度まで模様をコントロールできるので、わざと模様を変化させた鑑賞用の刀を作る刀匠もいる。
隕鉄を鍛えた刀は、ニッケルと鉄が層を作り、屋久杉の年輪のような、派手な模様が現れる。上述のギベオン剣には、日本刀にない独特の板目肌と杢目肌が浮いて、刃縁は柾目肌に出たという。
これを美しいと思う人もあれば、異様だと思う人もある。ダマスカス剣みたいだと表現する人もいる。筆者には、霊力を持つ鉄で鍛えたに相応しい、神秘的な模様のように思われる。
現代では、隕鉄に霊力があるなど、一笑に付す人も多いだろうが、こうした不思議な模様を目にしたなら、やはり天空の剣に宿った宇宙の力を感じずにはいられないだろう。

(2001.1.15)SPS
(2019.10.19 一部改訂・補筆)

追記1:人類が初めて知った鉄は、隕鉄だったという考えには反対もある。その根拠は、隕石の落下はかなり珍しい現象で、充分量の鉄の供給源となりえないこと、表面の厚い酸化皮膜のために鉄として認識しがたいこと、また非常に固いので、切り出して加工に供するのが困難なことが挙げられている。実際、巨大隕鉄のいくつかは、適当な大きさの塊を切り出すことが出来なかったために、手つかずのまま放置されていた。また、あまりに固かったので鍛冶屋の金床に使われていたという例もある(ツーソン・リング隕鉄はアリゾナ州ツーソンのメキシコ軍砦に据えられていた。遠くから金床を輸送するのが困難だったので近場の鉄で間に合わせた、とも言われる)。しかし一方で、別の隕鉄のいくつか(例えばトルカ隕鉄)は切り出されて農耕器具に加工されていたし、長年に渡って地域の需要を満たしてもいた。
隕鉄の利用技術と、鉄鉱石の溶解技術との間にはまったく相関性がない。反対陣営は、鉄の溶解が知られて初めて隕鉄を鉄として認識できたのだとしている。しかし、初期の鉄器が石器の一種として扱われていたと考えるなら、天からの石が、鉄らしくなければならなかったと考える必要はないだろう。

申命記 8-9 に(あなたの神、主があなたを良い地に導き入れられるからである。…)「その地の石は鉄であって、その山からは銅を掘り取ることが出来る。」とある。してみると、鉄は銅のように山で鉱脈や露頭から掘り出す必要はなく、地面に転がる石ころとして拾えるものだったと思しい。やはり隕鉄であろうか。

追記2:榎本武揚は駐露公使としてロシアに赴任した時(1874-78年)に、隕鉄で作った鉄刀を見たことがあって、製作を思い立ったという。1898年(明治31年)に「流星刀記事」を書いた。成分の定量分析が載っている。この時作られたのは長刀2本、短刀3本だった。長刀の一本は天皇家へ献上、一本は武揚が設立に関わった東京農大へ収まった。また短刀の一本は隕石が落下した富山県に寄贈され、富山市科学博物館に所蔵されている。残り二本のうち一本は戦時中に行方不明になったといい、最後の一本は長く榎本家に伝わっていたが、2017年に小樽の龍宮神社に寄贈された。武揚が建立した縁の神社である。
武揚が見た鉄刀は、おそらくイギリスの博物学者ジェームズ・サワビーが南アのグッド・ホープ隕鉄(Cape of Good Hope)から切り出して製作させたサーベルで、1814年にロシア皇帝アレクサンドル1世に献じられたものだろう。この隕石はニッケル分が高く(15-17%)、ウィドマン・シュテッテン構造を持たない優良な可鍛鉄として知られた。19世紀後半のヨーロッパでは隕鉄には可鍛性のものと非可鍛性(鋳鉄性)のものとがあると考えられていた。(隕鉄と地球起源の自然鉄の間に幾分の混同もあったが。)

cf. 隕石の話2

白萩隕石(隕鉄)から鍛造された4振りの刀剣のうちの一つ。
「隕石の見かた・調べかたがわかる本」(誠文堂新光社 2010年 より)

追記3:田口教授が、最初トルカ隕鉄を試したのは、おそらく、19世紀末にルドヴィッヒ・ベック博士が、トルカ隕鉄の鍛造に成功したことを知っていたからだろう。博士は、「実験は完全に成功し、適度の鍛接熱で容易に鍛造できた、溶接性も良好だった」としている。ただし、鋼のように焼き入れを行うことは出来ず、刃物には向かないとも書いている。実際、トルカ渓谷のインディアンたちは、この隕鉄からは、鋤、鍬、鉈などの道具を作り、刃物類は、すべてスペイン人から買っていたという。
「たいていのトルカ隕鉄は可鍛性だが、全部が全部そうではない」とも書いており、田口教授は、たまたま悪い試験片に当ったのかもしれない。
ベック博士の実験を担当した機械師は、「隕鉄の鍛造は簡単でした。もちろん石炭で加熱しては駄目で、純粋な木炭と充分な鍛接熱が必要です。鉄を赤熱でなく、白熱状態でハンマーにかけなくてはならず、何度でもその状態に熱しなければなりません。」と報告している。キーワードは「白熱状態」にありそうだ。(2001.2.18)

追記4:トルコのカマン・カレホユック遺跡の調査で 2005年に発見された(約4000年前の)2ケの小鉄片はナイフの刃の一部だったとされるが、隕鉄でなく、(製錬した)鋼であった。従来、製鉄の初めは古代ヒッタイト帝国に発達したとみなされてきたが、むしろカフカス地方を含む南西・南中央アジアに発達したのではないかと考えられるようになった。また同じ時期頃からインドでも鉄の冶金技術が興っていたとみられる。


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