それゆえに、われわれに特に気に入る書物の核心、本質を窮めることは各自のなすべきことであるが、その際なによりもまず考慮すべきは、その書物がわれわれ自身の内面といかなる関係にあるか、その書物の生命力によってどの程度われわれの生命力が刺激され、実りをあたえられるかである。(ゲーテ 「詩と真実」より)
◆J.W. ゲーテ(1749-1832)作「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(1795-96)に「ミニヨンの歌」として知られる歌は、少し昔の日本人にはよくよく馴染みであったと思われる。明治以来、邦訳は数多く、映画「ダウンタウンヒーローズ」に出てくる類のバンカラ旧制高校生や文学青年にとっては基礎教養と言っていいほどの歌であったようだ(補記1)。田辺聖子さん(1928年生)が若かりし頃、「君よ知るや南の国」は女学生らの愛唱歌の一つだった。ガンバが仲間とする船乗りネズミたちは異郷(南国)への憧れを乗せて高らかに口ずさむし、梨木香歩の「家守綺譚」(このお話の時代設定は1890年代と思われる)にもその一節がすらりと口の端に上る。
「君知るや 山の道これは森鴎外の訳をベースにした詞であるが、いかにも日本人好みのロマンチックな情景が目に浮かぶようである。片雲の風に誘われて漂泊の思いきざし、自分もこの目で山を見て、この足で歩いてみたい心地に遊ぶ。年経たる龍の棲まう山…。いったいどこにある山なのだろうか。ちょっと机上検討してみたい。
私の関心は山にあるのだけれど、まずはミニヨンの歌全体を素訳してみる。
Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn,
Im dunkeln Laub die Gold-Orangen glühn,
Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,
Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht ?
Kennst du es wohl ?
Dahin! dahin
Möcht ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn.
Kennst du das Haus? Auf Säulen ruht sein Dach.
Es glänzt der Saal, es schimmert das Gemach,
Und Marmorbilder stehn und sehn mich an:
Was hat man dir, du armes Kind, getan.
Kennst du es wohl ?
Dahin! dahin
Möcht ich mit dir, o mein Beschützer, ziehn.
Kennst du den Berg und seinen Wolkensteg ?
Das Maultier sucht im Nebel seinen Weg;
In Höhlen wohnt der Drachen alte Brut;
Es stürzt der Fels und über ihn die Flut!
Kennst du ihn wohl ?
Dahin! dahin
Geht unser Weg! O Vater, laß uns ziehn !
レモンの花咲く国を知っている?
暗い葉群れの間にオレンジが金色に輝いている
青い空からそよ風が吹く
銀梅花(ミルテ)はひそやかに立ち 月桂樹(ラウレル)は高くそびえる
あなたはよく知っている?
そこに! あそこに
一緒に行きませんか ね 私の愛しい人よ
こんな家を知っている? 屋根が列柱の上に乗っている
広間は燦めいて 小部屋はほの明るい
そして大理石の像が立っていて あたしを見つめる
何をしていたの? 可哀そうな子(※1)よ、と
あなたはよく知っている?
そこに! あそこに
一緒に行きませんか ね 私を守って下さる方
あの山を知っている? そしてその雲間の小径を
騾馬は霧の中に行く手を探す
洞穴の中に 老いた龍の同胞(はらから ※2)が棲む
岩は砕けて その上を瀬があふれる
あなたはよく知っている?
そこに! あそこに
行きましょう私たちの道を ね お父さん さあ行きましょう
(SPS訳 ※1 二節目の 「armes: 可哀そうな」の古義に「親のない」の含意がある。 ※2 一つの巣で同じ時期に孵った、あるいは同じ一族の血を引く意)
◆ヴィルヘルムが旅回りの綱渡り一座から引き取ったミニヨンは、年の頃12,3歳に見える少し風変わりな少女だ。身軽な男装を旨とし、一見、男の子とも女の子ともつかない。額に神秘的な感じがあり、鼻は飛びぬけて美しかった。彼女の気持ちは体の動きや踊り(や身体症状)に自ずからのように表れるが、話し言葉に成ることは少ない。ミニヨンは購われた対価として精一杯働いて彼の身の周りの世話を焼く。ヴィルヘルムは最初からこの子の容姿にも人柄にも惹かれており、愛情を注いでやりたくもなるのだが、古い失恋の傷を引きずったまま自分の身の振り方に迷っている仕儀で、ミニヨンをどうしてやればいいか見当がつかない。ところが、ある出来事がきっかけで互いに離れがたい気持ちを持っていることが明らかになる。そしてヴィルヘルムが保護者になり父親になってくれると得心したミニヨンが、翌朝、ツィターを弾きつつ歌いかけたのがこの歌だった。
歌い終わったミニヨンは「あの国を知ってる?」と尋ね、ヴィルヘルムは「多分イタリアだね、どこで歌を覚えたの?」と問い返す。「イタリア」とミニヨンは意味ありげに答え、「イタリアへ行くときはあたしも連れてって。ここは寒いから」と言う…。
しかし「イタリアにいたことがあるの?」という問いには口を閉ざしたので、彼女の過去は謎であった。
彼女が(寒い北国ドイツに在って)ノスタルジックな郷愁を歌に託して南国イタリアの風物を数えていることは明らかであろう。どこかで覚えた歌のように述べられているが、詞に彼女の境涯が仄めかされてもいるようだ。であれば、とりあえずこの山はイタリアにあり、もしかすればミニヨン自身の故郷に近い山であるかもしれない。あるいは彼女が行ってみたいと憧れている南国の山であろうか(しかも龍がいる)。
◆ここでいくつかの設問を立ててみよう。
まずこの歌はミニヨンが作詞作曲したのか、それとも覚えた歌をそのまま歌ったのか、あるいは覚えたメロディに合わせて自分なりに歌詞をアレンジしたのか。
ゲーテは少なくとも歌詞についてはミニヨンが自分で作ったと判断したようにみえる。上に掲げた詞はミニヨンが原語で(おそらくイタリア語で)歌ったのをヴィルヘルムが(ゲーテが)ドイツ語に訳した設定となっており、その際に意味の通りにくいところを補ったため、子供らしい無邪気な表現のニュアンスは失ってしまったというのである。そこで、この歌詞は基本的にミニヨンが自分の気持ちを表現したものだという見方をとりたい。つまり歌われている内容はいずれも彼女の知識や体験、感情(願望)に基づいている、と。
次に、歌にはゲーテ自身の知識や体験、感情が投影されているとも考えられるのだが、(彼自身がイタリアへの憧れを抱いていた)、そのことを解釈にあたってどの程度まで尊重すべきだろうか。これはミニヨンと、ミニヨンを描いた作者ゲーテとの関係はどのようなものか、という問いと密接に絡んでくる。ミニヨン≒ゲーテ、であれば設問自体がさほど大きな意味を持たないかもしれない。しかし私には、ゲーテはミニヨンがどういう人物なのか(どういう運命を辿ることになるのか)、歌を訳した時点ではあまりはっきり見えていなかったように思われる。
「若い時には、夢のなかでのように、将来の運命の象がわれわれの周りに漂い、われわれのとらわれない目に、予感に満ちて、映るのではなかろうか。われわれの出合うものの萌芽が、運命の手によって蒔かれ、いつの日にか折り取りたいと願う果実を、前もって味わうことができるのではあるまいか」
これは修業時代4巻9章にある言葉だが、ミニヨンはそのような、ありえるはずの未来の(未知の)運命として彼の前に現れたのではなかったか。(ちなみに彼の祖父には明らかに予知の才能があったとゲーテは述べているが、彼自身にもその種の幻視体験がいささかなりあった。補記2)
ミニヨンやヴィルヘルムを作者ゲーテの分身として考えると、両者はともに彼のなかの性質の一翼を担っているのであるが、ヴィルヘルムが理性(感情)・論理・雄弁(言語表現)といった側面を代表しているのに対して、ミニヨンは感覚(直観)・情熱・踊り(身体表現)といった側面に特徴がある、ゲーテの優位面はヴィルヘルム型で、ミニヨンは「予感」として出現したものの、彼(の意識)にとってはうまくコントールできない要素、愛着は感じるがしっかり関わりあったり育てたりすることの難しい存在(内的人格)だったようだ、というのが私の印象である。
ゲーテ≧(≒としてもいい)ヴィルヘルムの関係は意識的・主体的なものとして容易に認めらるが(ヴィルヘルムの語る幼年時代の思い出はそのままゲーテのそれである)、ゲーテ≧ミニヨンの関係は不可測的で、むしろとまどいに満ちていたと思われる。ミニヨンとゲーテとは、ある程度までは別の人格と考えた方がいいのではないか。
ミニヨンはゲーテに(ヴィルヘルムに)自分を語らなかったので、彼はミニヨンが何者であるか、その後の人生の中で見定めようと努めたと思われる。実際、ミニヨンの故郷をどこにするかで長く迷った。ゲーテはミニヨンを出来るだけ手元におこうとしたが、一度は都合により手放してしまった。最終的には優勢なヴィルヘルム要素、つまり理知的判断によって彼女の運命を描くほかなくなった。その結果は悲劇に傾いた。ゲーテはシェイクスピア劇中のハムレットの死が芸術的必然である(とヴィルヘルムは主張している)ように、ミニヨンの死を「修業時代」における必然と判断したと見られるが、よくはなかったと私は思う。ゲーテは深く哀悼の意を表しつつ、ミニヨンを鎮めてしまったのである。
そこで彼が作品に示したミニヨンの素性に関する説明は、ありえたいくつもの可能性の中のひとつだったという視点で捉える必要があろう(ミニヨンの死をむざと認めたのであるから、それは理知/残酷な分別にのみ、都合のよいシナリオであろう)。私たちが歌の解釈にあたってゲーテ自身の意図や体験を無視することは無論愚かな振る舞いだが、ミニヨンにはミニヨンの考えがあって然るべきだという見方も忘れてはならない。ある側面では彼女はゲーテ/ヴィルヘルムの導き手であったのだから。
なおゲーテの作品は彼自身の現実の生活を詩化したもの、という捉え方はかなりの程度で真実味を帯びている。
◆さて、3つの節からなる歌の中でミニヨンがヴィルヘルムに問いかける「国」、「家」、「山」は同じ場所にあるとみるべきだろうか。
「そこに! あそこに」と素訳で示した箇所をミニヨンは抑えがたい憧れをこめて歌った。彼女は知っている風物に対して憧れたのか(これまで戻ることの叶わなかった場所に)。それともまだ見たことのないものに憧れたのか。
あるいは寒いドイツに対する存在として、晴朗な暖かい国イタリアのイメージをただ漠然と想い浮かべたのであって特定の場所を仄めかしていないということも考えられるだろうか(いやそれでは、「知っている?」という問いが成り立たない−やはり具体的なイメージがあるのだ)。
第一節の「国」がイタリアであることは動かしがたい。レモン、オレンジ、ミルテ、ラウレル。いずれも地中海性気候下にある中南部イタリアの風光を特徴する植物と考えられる。
第二節の「家」はイタリア風(地中海風)の建築様式をそなえており、大理石の置物もイタリアを想わせる。そしてミニヨンは、なにしろ地図を広げては、そこが暖かいところかどうかにだけ関心を寄せるような子であるから、彼女の憧れる「家」が寒い土地にあるとは思われない。知っている場所(彼女の故郷)であるにしろ、未だ見ぬ場所であるにしろ、やはり南国イタリアの家(邸宅)だろう。
では「山」はどうか。私はミニヨンが寒さを嫌うという点ひとつだけでも、「家」と同じくイタリアの暖かい場所にある山だろうと信じる。
しかし、彼女がドイツに在り、またゲーテもドイツ人であることを考えると、ドイツからイタリアへ向かう途中にあるアルプスという見方も出来なくはない。その山はまさかミニヨンの憧れではありえないけれども(ゲーテの憧れではありうる)、越えていかねばならない関門であり、憧れの地につながる道なのだから、その道程をもまた憧れを以て語る、ということはなきにしもあらずだろう。ならば、この山は古来、人々が南北を往還してきたいくつかの街道筋(峠道)のどこかにあるのだ。
実は文学研究者の間ではむしろこの考え方が当然視されているようなのだが、それを紹介する前に、ミニヨンの歌が書かれた頃までのゲーテの旅行経験と、「修業時代」の成立過程とについて触れておく必要がある。
◆文学者としてのゲーテ(1749-1832)の名声は彼が25歳のとき、1774年9月に出版された「若きウェルテルの悩み」に熱狂的な崇拝者がついて社会現象を起こしたことに始まるが、生活者としての彼はすでに弁護士・法律家として働いていた。当時のドイツはその数
300以上と言われる領邦国家がひしめいていたが、ゲーテはその一つ、ワイマール公国(人口約12万人、ワイマール市部に約6千人)の若い君主の知遇を得て、
1775年11月、招請されてワイマールに赴いた。18歳のアウグスト公(公爵)は彼を兄のように慕い、周囲の貴族たちの反対を押し切って枢密外務参事官の地位に就けた。ゲーテは行政に携わり、多岐の仕事を任された。1782年に貴族に列せられ、臨時財務長官を拝命した。終生ワイマールに留まって文学者・自然科学者としても多数の著作を発表した。
彼はフランクフルト生まれで、ライプチヒとフランスのストラスブールで学生生活を送った。ワイマールへ赴く直前の夏にスイスを旅行しており、1779年にもアウグスト公に随行してスイスを再訪した。この二度目のスイス行やハルツ山地行を別にすると、ワイマールに赴任してから10年間、ゲーテは遮二無二に公務に勤めたようである(もちろん恋愛にも)。イタリアへの憧れが目覚め、抑え難く昂ぶったのはこの間のことである。1786年9月、ゲーテは公に有給休暇を乞うてイタリアに向かう。そして2年近い高揚の日々を旅先に謳歌したのだった。
イタリアとの関わりと言えば、そもそもゲーテの父親は若い時分のイタリア旅行を常に変わらず楽しく思い返して生きた人物だった。彼が教養の仕上げ旅行としてイタリアを訪れたのは
1740年2月、折しも謝肉祭に沸くベネチアだった。そしてボローニャ、ローマ、ナポリ、フィレンツェ、ミラノなどの都市を8ケ月間かけて回った。帰国後は生涯定職に就かず金利生活を送り、旅行記をイタリア語でゆっくりとしたためることに時間を費やした。折に触れて子供たちに思い出を語り、蒐集品(大理石や鉱物コレクション)を見せ、将来イタリアを旅することを勧めた。
ゲーテが子供の頃、彼の将来について父親が夢のような計画を話し始めると、「話題はやがてイタリアの話になり、最後はナポリの叙述」に行き着くのであった。ゲーテは「いつかはこのパラダイスに足をふみいれてみたいものだという強い願い」を持った。
青年になったゲーテが最初のスイス旅行を計画したとき、母親は眉を顰めたが、父親はイタリアに足を伸ばす機会があるかもしれないと期待して賛成した。同じ年の秋には旅費をもたせてイタリアに送り出した(ハイデルベルグでぐずぐずしている間にワイマール公国の迎えが着いたと知らせが入り、ゲーテは勇んで引き返した)。(補記3)
最初のスイス行でゲーテはゴットハルト峠(サン・ゴタール峠)からイタリアを望みスケッチを描いたが、友人がこのまま峠を下って行こうとけしかけるのを、「なんの準備もなくそんなことを企てるのは僕の気に入らない」と断った。1779年秋のスイス旅行はゴットハルト峠が最終目的地であった。山岳ガイドは、ブリークから(通年開いている)シンプロン峠を越え、ドモドッソラ、マッジョーレ湖、ベリンツォーナを経由してイタリア側からゴットハルト峠へ登る迂回路を薦めていたが、一行は冬も近づくフルカ峠を無理から越えて直接峠に至る道を選び、やはりイタリアへ足を向けなかった。
幼少からイタリアを賛美する環境に育ちながら、しかしこの頃のゲーテにはまだ機が熟していなかったのだろう。ゲーテにとってのイタリアは、なによりローマ・ナポリだったので、北部の湖水地方だけを通過することにさほど食指が動かなかったのかもしれない。また、十分に計画を立て、根回しをしてからでないと物事を始めたくなかったのでもあろう。
それが 1786年には矢も楯もたまらぬひたむきさでローマを目指すのである。
◆「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」は1795-96年に成立したが、遅くとも
1777年には構想があったといわれる。前身である「ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命」がこの年の
2月に書き始められた。イタリア旅行へ出るまでに6巻まで進み、親しい仲間の間で読まれた。ミニヨンの歌は第4巻の冒頭にあり、1783年か84年頃に書かれたとみられる。少女ミニヨンが歌うイタリアへの憧れは、ゲーテ自身の憧れの目覚めと分かちがたくリンクしていると思われる。ミニヨンの出現と共に子供時代の願いが活性化されたかのようである。
「演劇的使命」はイタリア旅行中に行き詰まり、このままでは駄目と判断していったん放棄された。その後、シラーとの交友を契機に
94年から構想も新たに書き直されて「修業時代」になった。前半部分は「演劇的使命」が踏襲されているが、10年ぶりに書かれた後半部分はテーマが一変しており、前半部のヴィルヘルムの演劇体験は修業時代の試行錯誤であって、それを卒業してついに目の前に真の生活が開けた、といった枠組みで再構成されている。そしてヴィルヘルムはある結社に加わり、結社の主義に生涯を捧げることを誓うのだが、展開が唐突なので、まるで異なった世界に瞬間的に次元移動してしまったかに見える(この「卒業」は果たして成長/錬金術的変容であろうか)。前半部にあった幸せの予感と活気はすっかり消えてしまい、ただ情熱が鎮められた後の静けさと、特定の目標に重きをおいた一途さだけが目立つ。ミニヨンの故郷やヴィルヘルムに出会う前の彼女の過去は、この後半部分で初めて描かれたが、違和感を否めない。
「演劇的使命」のミニヨンの歌は、「修業時代」とほぼ同じである。ただ呼び掛けの言葉が、「修業時代」では「愛しい人-守ってくれる人-お父さん」と変化をつけているところ、すべて「ご主人さま」となっている。これはヴィルヘルムとミニヨンの出会う状況が少し違っているためだ。
ミニヨンは綱渡りの一座から、後にヴィルヘルムと行を共にする女座長にすでに買い取られており、彼女はその金額を座長に返済して自由を取り戻そうと熱心にお金を貯めていた。だがヴィルヘルムに逢って親切な心を悟ると彼に貯金箱を差し出し、不足分は立て替えて今すぐ自分の主人になってほしいと懇願するのである。二人が互いに気持ちを表わして、親とも子とも親しみあうのはその後のことだ。
また「演劇的使命」にはミニヨンが山越えの支度をする場面がある。
「ミニヨンはいつもと変わらずいそいそと彼の身のまわりを見ていたが、ヴィルヘルムの念頭からはすっかりはなれていた。ヴィルヘルムが旅仕度にとりかかっているのを見ると、ミニヨンの働きぶりはいっそうかいがいしく楽しそうになった。『このトランクなら大きすぎないから、らばでも結構運べるわ』とミニヨンは言った。−『それはどういうわけかね』とヴィルヘルムはきいた。−『あたしたちが山越えをするときのことよ』とミニヨンは言った。」・・・「彼が読み書きをしているときは、よくその前に立ったり、椅子のそばの地べたに坐ったりしてじっとしていた。そんなときミニヨンの目を見ると、燃えている炭火が灰のなかで消えてゆくのを見るような気がした。今はミニヨンは元気にしている。心は生き生きとしている。境遇の変化を楽しみにして待っているように見える。ミニヨンはぼくといっしょに旅に出たがっているのだ。ヴィルヘルムにはそれがはっきりわかった。それは新たな心配となって、彼の胸に重くのしかかってきた。」(4巻9章)
このテキストは「修業時代」では削られたが、ミニヨンの歌の第三節と合わせると、「山」は二人が一緒に越えてゆく道行きにあったように見える。龍の棲む山をわざわざ選んで旅をする必要があるのか疑問に思えるが、それは「龍」をどう解釈するかによろう。
というのは、ゲーテのスイス紀行には、1775年のゴットハルト峠までの徒歩旅行において、荒涼とした山岳の風景を「竜」と表現したくだりがあるのである。
「二十二日三時半、宿を発ち、平らなウルゼーン谷から石ででこぼこのリフィーン谷(※おそらくロイス谷の誤記)へ入っていった。ここでもすぐ、植物のあらゆる実りの欠けていることが認められた。むきだしの岩も苔むす岩塊も雪に覆われ、うしろからは嵐を呼ぶ風が雲を吹き寄せたり散らせたりしていた。流れ落ちる滝がざわめき、高く見上げる荒野から駄馬の鈴の音が聞こえてきた。行き交う人の姿はまったく見かけなかった。ここでは想像を逞しくしなくても、深淵に住む竜たちの巣を思い描くことができた。しかし、やはり心を高め壮快な気分にしてくれたのは極めて美しい滝の一つで、ニュアンス豊かにいとも雄大かつ多様にたぎり落ち、まさに絵になる滝であった。それはちょうどこの季節に融雪の水をふんだんに集め、雲に隠されたり姿を現したりして、われわれを長い間この場所に釘づけにした。」
そして、この日の旅日記に「死の谷のような寂寥の地、骨が撒き散らされているのか、竜の谷と呼びたいくらいだ」とある。どうやらゲーテは洗い晒されたように白っぽい谷間を歩きながら死の世界を想い、餌食となった生物の死骸が竜の巣の周りに散らばっている連想を持ったらしい。(ちなみに、この時ゲーテにとっての生命の国は峠より北方のドイツにあった。)
一方、ゴットハルト峠からイタリアを眺めた時のくだりには、「同行の友は元気に私に近づいて、話し始めた。『昨晩、聖職者の宿の主人が語ったことをどう思う。僕と同じように、この竜が住むような山頂からあの素敵な地方へおりていく気にならなかったかね。この渓谷をおりていく徒歩旅行はすばらしく、なんの苦労もないに違いない。ベリンツォーナで街道の開通するのがいつになるか分からないにしても、きっと楽しい旅になる。マッジョーレ湖の島々のイメージは、神父の言葉によって僕の心にまた生きいきと甦ってきた。カイスラーの旅行記以来それらについていろいろ見聞してきたので、もう誘惑に逆らうことが出来ない。』」とあり、ここでは切り立った剥き出しの岩が鋸のように連らなる峨々たる山頂を竜の棲み処に見立てている。(この友人はイタリアの湖水地方を楽しみに満ちた生の世界として捉えているが、ゲーテはその誘惑に乗らない。)
こうなると、龍の巣が深淵にあるのか山頂にあるのか見定め得ないのであるが、ともかく人界に対して下方ないし上方、つまり人間の住む世界から離れた場所として想像されていることは確かである。ゲーテにとっての龍は、美しいが不毛な自然世界、人が社会生活を持ちえない荒涼たる場所の象徴であったのかもしれない。
ミニオンの歌の龍は広い洞の中に棲んでいる。今、この山をアルプスとすれば、石灰岩(苦灰岩)や花崗岩からなる山岳地帯の中でも、主に石灰岩からなる地方の、地下水脈に沿って生じた巨大な鍾乳洞がイメージ出来る。
スイス旅行に例をとれば、1779年、ムーティエからシャモニーまでの道程で、「これらの岩塊の内部は黄色みを帯びているようにみえる。しかしながら天候と大気が表面を灰青色に変えるので、ここかしこで縞をなしたり、新しい裂け目のところで最初の色が見えたりするだけである。ゆっくりと岩石そのものが風化し、角のところで丸くなっていく。比較的柔らかいところは浸食されてなくなり、そのためさまざまな波形をした洞窟や穴ができ、これらは鋭い角や尖った端とぶつかると実に奇妙な輪郭になる。」といった描写や、シャモニー近くの村でゲーテが見物した鍾乳洞が想起される。また
1775年、「竜の谷」を歩く前日、悪魔橋(アンデルマットの北でロイス川に懸る)の近くのウルゼンの「洞窟」の暗闇を、ゲーテは「かなり不愉快な気持ちで」通り抜けた。
上記のようなテキストの存在を裏付けにして、文学研究者の間では、ゲーテはミニヨンの歌の中でゴットハルト峠の風景を歌った、と理解されるのだろう。しかし私は、これはミニヨンの歌であってゲーテ自身(あるいはヴィルヘルム)の歌ではない、ミニヨンは暖かいところに焦がれているのである、ミニヨンは活き活きとした生であって(幸せの予感であって)、彼女が龍を歌うならばそれは死の世界の象徴としてではない、彼女が龍の棲む山に憧れを籠めて父と慕うヴィルヘルムに「知っている?」と親しげに尋ねるならば、その山は冷え切った雪と氷の世界ではないし死の世界であるはずもない、兄弟の龍たちがひとつの巣に棲んで(互いの熱で暖めあって)いることさえ彼女には憧れなのだ、と指摘したい。それにイタリアへ行けるなら彼女はどの街道を通ってもまったく気にしなかったに違いない。
とはいえゴットハルト峠説がもっともらしく語られるのは、「修業時代」後半部においてゲーテがミニヨンに与えた故郷が、おそらくはマッジョーレ湖畔の町だった、ということも有力な根拠となっていると思われる。峠をアイロロ側に下り、麓町ヴェリンツォーナに出れば、谷間の湖はもはや指呼の間にある。
◆「修業時代」でミニヨンとヴィルヘルムが山越えをしてイタリアに向かうことは、気振りもなかった。ヴィルヘルムはミニヨンの「目覚めてくる自然の激しさにしばしば不安に」なり、ミニヨンを一座に預けて旅に出て、結局、よい教育を与えるために人手(結社)に託した。そこでミニヨンは冷えて衰弱し、死を予見して気質が変わり、最後はヴィルヘルムからもたらされた衝撃に胸が破れて、こと切れる。結社の手で(まるで彼らの勝利を祝うかのような)盛大な葬儀が行われた。偶然、立ち会った侯爵はミニヨンの隠れた叔父であった。そうして彼女の過去が明かされる。
日本流に言えば、ミニヨンは親や保護者に縁の薄い子だった。貴種ながら生まれた時から父を知らず、やがて母の手からも離されてミラノの近くの町で育った。作中に町の名は出てこないが、湖の畔にあり、アローナを含む地方であることが仄めかされている。
ミニヨンは小さい時から風変りな性質を示した。教えられるともなく歌を歌ったり、ツィターを弾いたりするようになったが、言葉で自分を表現することはなかった。木登りが好きで身軽な彼女は、本能のように綱渡り芸の真似をして遊んだ。不思議なほど遠くへ出歩き、飛び回っていた。帰ってくると近くのヴィラの表玄関の円柱の前に座って一休みし、それから大広間に入って立像を眺めた。その後でやっと家路に向かった。そうした日々のうちに、ある時綱渡りの一座に攫われて、遠く北の土地に連れ出され、旅の空を重ねることになったのだった。
これがミニヨンの素性についてゲーテが与えた説明であり、歌に与えた解釈である。衰弱したミニヨンを見舞いに訪れたヴィルヘルムは、暫しの時を再び彼女と過ごした。疲れやすくなったミニヨンはヴィルヘルムの腕にすがって散歩をしながら言う。「ねえ、ミニヨンはもう木にのぼったり、はねたりしないわ。でも、いまでも、山の峰から峰へとび歩いたり、屋根から屋根へ、木から木へとんでみたい。鳥たちが羨ましいわ。あんなにかわいらしく、仲良く巣を作っているのが羨ましい」
親のない子として育った彼女は、いつも一人で遠くまで出かけて、山や谷をさまよい歩いていたのだろう。戻ってくるとヴィラでひと休みし、広間の大理石像をじっと見つめた。すると立像は彼女に話しかける。彼女は像を相手にその日にあった出来事を語って心を満たす。彼女を導く心の声は、気持ちを集中させた外部の対象から聞こえてきたのである。ちなみに攫われてからのミニヨンは早朝のミサに出て、胸のうちに聞こえる聖母の声を頼りに生きた。歌の第二節の「家」は彼女がいつも佇んだ故郷のヴィラの思い出であり、第三節もまた彼女が逍遥した「山」の思い出だろう。(ゲーテは「山」を必ずしもゴットハルト峠としなかったように見える。)
侯爵は姪を育ててもらった礼をヴィルヘルムに丁重に伝え、姪の遺産を譲ることを約束する。そしていつかミニヨンの故郷を訪ねてくれるよう頼んで去ってゆく。その願いは十数年後に果たされる。
ゲーテは「修業時代」の続編を予定していなかったが、30年以上を経た晩年になって「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」(1829年)を出版した。その中でヴィルヘルムは各地を遍歴した後、かねての約定によってイタリアを訪れ、ミニヨンにゆかりの土地を回って歩くのである。若い画家と出会って道連れになるが、この画家は(「修業時代」を読んで)ミニヨンにぞっこん魅了され、ミニヨンの姿を彼女が生きた環境の中で描こうと思って旅に出たことになっている。
二人は大きな湖に着き、ヴィルヘルムは以前教えられた場所を次々に探し出そうとする。そして画家はいくつかの場面を描き、絵の中に生き生きとしたミニヨンの姿をおいた。絵のひとつは、「険しい山の中で、切り立った岩に囲まれ、滝のしぶきを浴びながら、口にも言えないほど異様な(ジプシー風の)群れの真ん中に、優雅な男の子のような少女が輝いている」もので、「恐ろしいまでに迫り合った岩塊が力強く描き出されていた。一切を断ち切る黒い峡谷がそそり立ち、大胆にも架けられた橋が、外界につながる可能性を示していなかったならば、一切の出口がふさがれているような恐怖を感じるほどであった。また画家は、詩心豊かな真実の感覚で、ひとつの洞窟をも描き出していた。それは巨大な結晶の作り出す自然の産物とも、おとぎ噺に出てくる、恐ろしい竜の栖とも言えるようなものであった。」(2巻7章)。
ここに描写されている橋はゴットハルト峠の悪魔橋を連想させるが、空想的に湖の近くに持ってこられたようだ(すると「山」はやはりゲーテにとってゴットハルト峠がモデルなのか?)。龍の棲み処たる洞窟も忘れられていない。そしてその湖と岸辺では、「自然によって種まかれ、人の手によって養い育てられた、溢れんばかりの植物の世界が至るところに彼らをとりまいていた。すでに、最初の栗林が彼らを喜び迎えてくれたのであるが、いま糸杉のもとに坐り、月桂樹がそびえ、柘榴が赤らみ、オレンジとレモンが花開き、同時に暗い葉陰からその実がきらめくのを見たとき、彼らは、悲しい微笑みを抑えることができなかった」のだった。
二人は湖に浮かぶ島々を巡り、おそらくイゾラ・ベッラ(美しヶ島)と目される島で、知りあった婦人方と浄福の時を過ごす。激しかった過去の出来事は遠く去り、静謐で、清浄な光に満ちた、ただただ美しく澄明な、この世のものとも思われない、ほとんど絵空事の世界である。ゲーテ晩年の境地であろう。
◆それにしてもなぜゲーテはマッジョーレ湖畔の町を故郷に選んだのだろうか。ミニヨンは歌の中で湖のことは何も言っていないのに。(それにローマやナポリと比べると冬場は随分寒いところだ。)
彼がこの谷間の湖と湖に浮かぶ島々を知っていたことは、先に引用したゴットハルト峠の紀行から明らかである。しかしこの地を訪れたことがあるかどうかは怪しい。おそらくないと考えられている。ゲーテは1795年にワイマール絵画アカデミーの G.M.クラウスが持ち帰った何枚かのマッジョーレ湖の水彩画を見て感嘆し、この絵をもとにミニヨンの故郷を描いたとも言われている。
1786-88年にゲーテはあれほど憧れたイタリアの地を踏み、行きたいと願ったところはほぼすべて旅をして回ったはずだが、本来その中にミニヨンの故郷となるべき土地があったのではなかったか。
ミニヨンと歌とが「演劇的使命」に現れた頃−ゲーテがイタリアに憧れていた 1783-84年頃は、彼はまだミニヨンの故郷を知らなかった。10余年を経て「修業時代」を書いた時、ミニヨンの情熱は鎮められ、死して永遠のものとなって管理されるよう定められた。彼女は諦めるにはあまりに貴重な存在であったが、溌剌とした生気を放つままに生かして共に歩み続けるつもりもなかったのである。
その選択をしたゲーテはもはや、かつてイタリアを旅をする中で目にし味わった憧れの土地のどこをもミニヨンの故郷とすることが出来なくなったのではないか。そして辺境の見知らぬ町、山に囲まれた大きな湖の畔の静かな町を選んだ。湖は魂を眠らせるにふさわしい場所だからである(水底に死者の国を投影するイメージは、「修業時代」のミニヨンの母親のエピソードに明らか)。また、炎の娘が復活して再び燃え上がらないよう、冷たい雪解け水の中に沈めて冷やしておかねばならないからである。そうして「諦念のひとびと」は、まるで生きているかに見える不朽の体や、ひたすら美しい想像上の絵画から、静かな、制御可能なインスピレーションを抽き出し続けなければならないのであろう。「遍歴時代」では画家が「ミニヨンの歌」を歌い始めるとすぐに止められる。みなは生々しい感情で心を乱されたくないのである。
実はゲーテがこの地方を選んだと思しい理由がもうひとつあるが、それは後で述べることにしたい。ただこのこともまた、彼にとっては湖の底に沈めておくほかない愁いなのであった。
ともあれ、もしゲーテがミニヨンに別の運命を与えていたなら、故郷の場所は違っていただろう、と私には思われる。それは「演劇的使命」に登場した、幸せの予感にあふれたミニヨンにふさわしい、暖かい生命と熱気に満ちた場所だったはずだ。
◆では我々は「演劇的使命」が中断された時に戻って、ゲーテのイタリア旅行を辿ってみることにしよう。この時の見聞は 30年後に「イタリア紀行」(1816-17)としてまとめられたので、あらましの様子を知ることが出来る。
1786年の不順な夏が終わる頃、ドイツが寒さに向かい始める季節、ゲーテは友が誕生祝いを催してくれたカールスバートをひそかに抜け出してイタリアを目指した。そしてその年と次の年の冬を暖かなローマとナポリに過ごした。
9月3日にカースルバートを発ったゲーテは、雨天が続くミュンヘンを経てミッテンヴァルトからインスブルックに向かい、チロルアルプス、いわゆる石灰アルプスをブレンナー峠に越えた。ドイツとイタリアの文化が混在するボーゼン(ボルツァーノ)からトレントへ。ガルダ湖を船で南下してヴェロナへ、そしてヴィチェンツァを見物してベネチアへ向かった。それからボローニャのパデルノ山で重晶石を採集した後、イタリアを縦貫するアペニン山脈(これも石灰質の山であるが)を進み、アッシジを経てローマに入った。ゲーテは憧れを抑えかねてローマまでの行程を急いだ(と本人は言うが、カールスバートを出てからほぼ2ケ月、我々から見れば十二分に時間をかけている)。
10月29日、ローマに着いて漸く息をつき、官憲を怖れて身元を隠しながらも思うさまに羽をのばした。あっという間に4ケ月が過ぎ、次いでナポリに享楽の日々を営み春を迎えた。アウグスト公はゲーテが数ケ月ほどで戻ってくるものと期待していたが、またゲーテの方も今にも帰りそうな里心のついた手紙を抜かりなく出してはいたが、実は初めからシチリア島に足を伸ばす計画だったようだ。
島で1ケ月を過ごした後、再びナポリへ。そしてローマに戻り、なんだかんだ言い訳しながら10ケ月の間腰を据えた。塑像造りなどさまざまな技芸を学び、社交や創作活動(や恋愛)に没頭したようである。またどうしても復活祭を見たかったらしい(二度目の謝肉祭も)。
アウグスト公はシビレを切らし、給料は元のまま(年棒 2,000ライヒスターラー)好きな文化方面の仕事に専念してよいから戻ってくるようにと命じた。ゲーテは潮時と見てさっさと帰路に就いた。といってもシエナ、ボローニャを経てミラノに入るまで1ケ月の遊山旅である。ミラノでは博物学者のピニ(cf.No.431 氷長石)を訪ねている。コモを通って湖水地方を見物しながらシュプリューゲン峠の古道をスイスへ抜けた。クールからコンスタンツを経てワイマールへ帰った。1788年6月18日帰着。さぞ満足したことだろう。帰路、マッジョーレ湖に寄ったかどうかは分からない。
◆父親の思い出話に始まって、ゲーテは紀行書や旅行案内書、絵画、調度品、会話などあらゆる媒体を通じてイタリアのイメージを育んだと考えられるが、「演劇的使命」を書き綴るうちに憧れは苦しいほどに募り、ミニヨンは山越えの準備を始め、生身のゲーテはついにミニヨンと同行二人、イタリアへ向かわないわけにいかなくなったと思われる。そして憧れの場所や事物を、悉く我が目におさめたに違いない。そのつもりで足跡を辿ると、彼の紀行は時に神話的な回帰性を帯びた巡礼めく出来事を内包していることに思い当たる。予感的に作品に描かれた出来事が、あたかも現実の彼を巻き込んで実際に起こったかのように見えてくる。
旅の初め、ミュンヘンを発って優雅に馬車を進めたゲーテは、ヴォルフラーツハウゼンから山岳地帯の麓の村ベネディクトボイエルンを望むあたりで自ずから気分の高揚を感じ取った。「今や新しい世界が私の眼前に開けて来た」と書いている。この人は山に近づくと力が湧いてくるのである(cf.
錬金術師のボローニャ石 付記3)。
そして初めて雪を抱いた山並みを眺めた後、ヴァルヒェンゼーからミッテンヴァルト(バイオリン製作で有名な村)の間の山道で、12歳ばかりの少女を連れた竪琴弾きに行き逢い、娘を馬車に乗せてもらえないかと頼まれた。彼らはボーゼンを目指していた。ゲーテはすでに世情に通じたようにも見えるその娘を話相手に愉快のひとときを過ごしたのだが、まるで作中でヴィルヘルムの家族となるミニヨンと竪琴弾きの現世バージョンが現れたようである。
「演劇的使命」ではミニヨンと竪琴弾きとの間に血縁関係の気配はない。むしろ血縁のない者同士が寄り添って、ヴィルヘルムにとって大切な家族を形成していた。しかし「修業時代」では、老人のような孤独な竪琴弾きは(実は若い)隠されたミニヨンの父親だったことになっている。ゲーテ≒ヴィルヘルムは、竪琴弾きの娘≒ミニヨンと山道を降り、ボーゼンでの再会を期して袂を分かった。ゲーテは神話の旅が始まったと感じたのではないか。
ならばミニヨンの歌の「山」は、ドイツ南部からチロル地方を越えてイタリア(ローマ)へ向かう道行きに通じていたのかもしれない。イタリアとするならブレンナー峠、あるいはボーゼン〜トレント〜ヴェローナあたりの山か。
ブレンナー峠については 9月8日、「私はこれまでアルプス山脈の石灰質地方をとおって遍歴してきた。それらは灰色の外見をしていて、美しい奇妙な不規則な形をしている。岩塊がすぐ成層と岩層に分かれているかどうか分からない。しかし湾曲した成層も現れ、岩塊が全体として不ぞろいに風化しているので、峰々は異様な姿にみえる」と書いている。
トレントはかつて町の東にある丘に銀が出て、この地方の中心地として栄えた山国である。町は「こはく街道」沿いにあり、昔から南北の往還が盛んであった。ローマ時代、この道を通ってバルト海産の琥珀がローマに運ばれたのだ(cf.
No.712)。
ボーゼンからトレントへ向かう街道の東側は、今日ドロミーティ(苦灰岩の意)として知られる東アルプスに属する山岳地帯だ。石灰岩に似た灰白色の岩肌を持つ苦灰岩の山が切り立つように尖り、聳える。時に鋸の歯のように並び、時に孤峰として立つ。風化して崩れた岩壁が峰を囲んでなだらかな傾斜の下麓をなし、その奇観が旅人の目を驚かせる。また街道の西側にはガルダ湖がひかえており、美しい山並みを湖水に映す風光明媚の地として知られる。ただ苦灰岩は石灰岩に比べて雨水による浸食に強い。純粋な石灰岩地帯のように地下水脈によって長大な鍾乳洞が発達することは珍しいから、龍の棲める洞窟があるかどうか怪しい。しかし山頂はゴットハルト峠の峰々と同じく、龍の栖のように尖っている。
ヴェローナはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台になった土地である。ゲーテはこのイギリスの作家を天才と認め、「修業時代」ではヴィルヘルムが「ハムレット」に感激している。ゲーテは古い歴史を持つこの町の円形劇場(ローマ時代の闘技場)に関心を持っていた。
ヴィチェンツァには9月19日に訪れ、26日まで留まった。尊敬するパッラーディオの残した建築(オリンピコ劇場やラ・ロトンダ)をじっくり見物したかったのである。その間も「演劇的使命」のことが折に触れて念頭に上ったようだ(中断した原稿を持ってきていた)。パッラーディオの最高傑作と言われるヴィラ・アルメリコ・カプラ、通称ラ・ロトンダ(円形建築の意)を訪れたのは
22日で、「上から光線を採った円い広間を中に囲む方形の建物である。四方いずれからでも、大階段を昇れば、常に六本のコリント式円柱によって作られた玄関に達する」と述べている。その様子は歌にある「家」を彷彿させる。
旅日記には、「私は長い間ヴェローナかヴィチェンツァをミニヨンの故郷にしてやるつもりだった。だがそれはヴィチェンツァだ。そのためにも数日よけいここに留まらねばならない」と記した。
実現していたらドロミーティが歌の「山」であったかもしれない。
◆「イタリア紀行」にはミニヨンの名前が出てくる箇所が1つだけある。それはローマからナポリに向かった一行がフォンディ平野に入った時のことである。彼らは「こじんまりした肥沃な開墾地に、たくさんのオレンジが木に下がっているのを見た。」
2月24日、滞在した聖アガタ館でゲーテは書いている。
「寒い部屋の中で、私は愉快な一日の報告を書かなければならない。フォンディを出るとちょうど夜が明けた。そしてすぐに私たちは道の両側に塀の上から垂れ下がった橙(だいだい)の出迎えを受けた。木という木には、想像も及ばぬほどにぎっしりと生っている。若葉は上の方は黄ばんでいるが、下と中ほどはしたたるばかりの緑である。ミニヨンが、こうした所に来たがったのも、もっとも千万だったわけである。」
北〜中部イタリアの秋を旅してローマで冬越しした彼は、謝肉祭の後ナポリに向けて再び移動を始めた。そしてついにその手前の平野でたわわに実ったオレンジを目の当たりにして感激に舞ったのだった。ナポリへ発つ前日、ゲーテは「口に言いつくせぬほどに美しいと噂されている新しいもののことを思うと、私たちの心は勇躍する。そしてあの楽園のような自然の中で、ふたたびこの真面目なローマへ帰って芸術研究に専念しうる新しい自由と興味とを培ってこようと思っている」と書いた。
父親の思い出話にゆられて育った彼にとって、ナポリはこの旅行の最大の目的地の一つであり、長い間の憧れの地であった。ミニヨンが来たがったと書いているが、来たかったのはゲーテも同じで、むしろ彼こそこの「楽園のような自然」、暖かい気候に焦がれていたと思われる。
レモンやオレンジなどの柑橘類は、一年を通じて温暖な、日照時間が長くて風通しのよい、乾燥した気候を好む。夏から秋にかけて幾分かの降雨があれば申し分ない。大きくて美味しい実が育つからである。果実の旬は12〜3月頃。寒さにはあまり強くない。前述の通り、地中海性気候の卓越した中南部イタリアの特産物で、産地は北緯42度以南にある。ゲーテがナポリを前に初めてオレンジ畑を見たのはもっともなことで、半島ではローマより南の西南部沿岸地域で育てられているのである。なお主産地はシチリア島で、サルジニア島でも栽培されている。ゲーテが旅した頃の北部イタリアではオレンジはむしろ珍しい果物であった。ちなみにアンデルセンの「即興詩人」(1835)にもローマとナポリ間の風景として、テッラチーナやガエタの果実畑に実るレモンやオレンジ、農家の前にうず高く積まれたレモンの山が慕わしく描かれている。この時代の観光名所としてよく知られていたものと思われる。
素直に考えてみると、ミニヨンの故郷がどこであれ、彼女の歌の第一節は、青空から太陽の光が燦々と降り注ぎ、地中海からの海風が吹き寄せる暖かな(暑い)イタリア中南部の沿岸、おそらくはナポリ周辺の風光を指してヴィルヘルムを誘っていたことを、ゲーテは自ずから承知していたのではなかったか。その地はミニヨンとゲーテの憧れの地であった。それでもゲーテは、ミニヨンの故郷をヴェローナやヴィチェンツァに持ってきたかったらしい。それは石灰アルプスへの彼の愛着からであろうか。あるいはこれらの地の美しい建築物や歴史の故か。
しかし彼の思惑がどうあれ、ミニヨンは陽光うららかなイタリア中南部の海岸を歌っていた。第二節の「家」、第三節の「山」もまた、この地方にあったと考えるべきではないか。少なくとも現実の世界において、ゲーテはその「山」をナポリに見出したと思われる。というよりもちろん最初から予期されていたのである。山頂に煙の雲をたなびかせるヴェスヴィオ山(ベスビアス山)の姿を目にして彼の胸は高鳴った。
ナポリの東約9キロにあるこの有名な活火山は、歴史上何度も大規模な噴火を繰り返してきたことで知られる。かの古代都市ポンペイを灰で埋め、エルコラーノ(ヘルクラネウム)を熔岩流に呑み込んだ。噴火は龍が吐く火に擬えられてきた。火山そのものが龍であった。ナポリの東にある町サン・ジョルジョ・ア・クレマーノは、竜退治の英雄、聖ジョージの名を冠して命名されたもので、10世紀頃にこの町を建設した人々は、恐るべき火龍の被害を英雄の加護によって免れんと願ったのだった。而して今、ゲーテが訪れたこの時にも、ヴェスヴィオ山には新しい熔岩が生まれ、斜面を流れ落ちていた。
◆その様子をイタリア紀行に拾ってみよう。
「2月25日 ヴェスヴィオは依然左方にあって猛烈に煙を噴いている。私は、この名物もとうとう眼のあたりに見るを得たということが、心ひそかに嬉しくてならなかった。」「ナポリに近づくと、大気はすっかり清純透明になり、こうして私たちは全く別の世界へやって来たのだ。」
「2月27日 今日はもう夢中になって壮麗無比の名所見物に時をすごした。人々が何と言おうが、語ろうが、また絵に描こうが、この景観の美はすべてにたち超えている。海の渚と湾と入り江、ヴェスヴィオ、市街、洛外、城塞、遊楽場! …私は父が、今日私の初めてみた事物から、とりわけ不滅の感銘を受けたということを、しみじみと思い起こした。」
そうしてゲーテは山に登る。
「3月2日 曇天だったし山の峰は雲に蔽われていたが、それでもヴェスヴィオに登った。車でレジナにゆき、それから騾馬にまたがってぶどう園の間を抜けながら山を登った。やがて徒歩で
1771年の時の溶岩を踏み越えて行ったが、その上にはもう細かではあるが堅い苔が生えていた。それからこの溶岩の側に沿って進んだ。
・・・この峰の三分の二は雲で蔽われていた。ようやくにして今埋まっている旧噴火口にたどりつく。2ヶ月と14日前の新しい熔岩、そればかりか僅か5日前の軟弱な熔岩がもう冷却しているのを見た。これを越えて私たちは噴火してできたばかりの火山性丘陵を登って行ったが、ここはあたり一面から湯気が立ち昇っていた。煙は私たちの身近から立ちのいたので、私は噴火口へゆこうとした。そして私たちが湯気のなかに約五十歩もはいりこむと、湯気はいやに濃密になって、ほとんど自分の靴も見えぬ始末だった。」
ミニヨンの歌の第三節そのままに、彼は騾馬に乗って雲間に道を尋ね、龍の棲み処に入り込んだのだった。二度目はもっと大胆に踏み込んだ。
「3月6日 二度目のヴェスビオ登山をし、今度は強力(ごうりき)にひっぱりあげてもらいながら、山を登った。」
「こうして私たちはむこうに聳え立つ円錐峯を臨み、北にソンマ岳の廃墟を控えた平地に出た。…やがて私たちは四時煙を吐き、石や灰を噴出する円錐峯のまわりをまわった。程よい距離を保つだけの場所の余裕さえあれば、それは胸の躍るような一大壮観であった。まず轟々たる山鳴りが噴火口の遥かの底から響いてくる。それから大小の岩石が火山灰の雲に包まれて、幾千となく空中に投げ上げられる。大部分は舞い戻って噴火口のなかに落ちこんだ。側方に飛ばされた残りの石塊は、円錐の外側に落下して不思議な物音をたてた。まず重い方のやつはどしんと落ちて、にぶい響きをたてながら円錐の側面を跳び降りて行った。小さい方のはがらがらその後を追いかけた。それから最後に火山灰がぱらぱらと降り注いだ。これはすべて規則的な間隔をおいて行われた。私たちは落ち着いて計算したので、十二分にそれを測定することができたのだ。」
そして噴火と噴火のあいだの時間に円錐峯を登って噴火口のところまで行き、戻ってくることが出来ると考え、強力のひとりに同行してもらって命がけの冒険に出た。
「いよいよ巨大な奈落のふちまで辿りついた。一陣の微風は、噴き出す煙を私たいから吹き払ってくれたが、しかし同時に、そのまわりの無数の裂け目から湯気をたてている噴火口の内部をば蔽い隠してしまった。噴煙の隙間から、岸壁の亀裂がそこここに見えた。・・・落ち着いて時間を計ることも忘れて、私たちは巨大な深淵にのぞむ断崖のふちに佇んでいた。すると突然山鳴りの響きが始まり、物凄い噴出物が身を掠めて飛び出した。私たちは思わず知らず身をすくめた。こうすれば岩塊が落下しても助かりでもするように。小さな石くれがもうがらがら転がっていた。私たちはこの次までにはもう一度休止の間があるということも考えず、ただ危険を脱したのが嬉しくて、まだ降り注いでいる灰の中を、帽子も靴も灰まみれにして、円錐峯の麓に下りついた。」
危うく命を拾ったゲーテは 3月20日に三度目の登山をする。前回と同じ強力がやってきたので、二人とも雇った。
「円錐形の火口の下方から噴き出している物凄い噴煙めがけて、元気よく進んで行った。それから山の側面をつたって徐々に降りてゆくと、とうとう明るい空の下に、濛々とした蒸気の雲の中から、熔岩の噴出するのが見えてきた。」
「熔岩の幅は狭くて、精々十フィートぐらいだろうが、緩やかな、かなり平坦な地面を流れ下る有様は実に見ものであった。熔岩は流れてゆくうちに側面と表面とが冷却して、運河のような格好になり、熔解した物質は熱流の底でもまた凝固するので、この運河は次第に高くなってくる。熱流は表面に浮いている鉱滓を左右へ均等に投げつけるので、堤防はますます高くなり、その上を灼熱した流れが水車場の小川のように静かに通ってゆく。」
「私たちはこの楽園のただ中に聳えている地獄の山頂の他の奇観を見ようとして、歩きまわった。火山の煙筒として、別に煙を吐いてはいないけれども、絶えず熱風を猛烈に噴き出している二、三の洞口をば、私はふたたび注意深く観察した。」
ゲーテはどうしても熔岩が噴き出すところを間近に見たかったのであろう。そうして見た熔岩の流れは、ちょうど歌に「岩は砕けて その上を瀬があふれる」と歌われたそのままだった。あふれるものは雪解け水が激しく飛沫を立てて雪崩落ちる滝ではなかった。転げ落ちて固まった溶岩の上をさらに高くあふれてゆっくりと移動する熱い熔岩流なのだった。
この火山や灼熱の熔岩の流れは龍(の同胞)でなくてなんであろうか。こうしてゲーテはミニヨンが歌に誘った「国」イタリアに足を踏み入れ、イタリア様式の建築を(「家」を)ローマやナポリ市街に堪能し(補記4)、ヴェスヴィオ「山」に登った。現実世界において予感は成就されたのだった。彼は龍の栖(火山の火口)に入り込んで生還した。英雄の誕生である。イタリア旅行はゲーテの「修業時代」として用意されてあり、彼はここにその時代を了えた。
この後、ゲーテはシチリア島へ渡る。そして戻ってくると再びナポリに滞在したが、ヴェスヴィオ山の活動は、収穫を終えた英雄を祝うかのようにさらに勢いづいた。6月1日、彼は「火山の吐く閃々たる火花とならんで皓々と照る満月や、最近は休止していた熔岩が、灼熱の厳かな流れを現出する有様」を見た。
6月2日はクライマックスであった。「私は、一生にただ一度しか見られぬほどの光景を見たのである。…今私たちの佇んでいる所は最上階の窓際であって、ヴェスヴィオ山が真正面に見えている。流下する熔岩は、太陽がとっくに沈んでいるので、真紅の焔を上げ、そこから立ち昇る煙はすでに金色になり始めていた。山は凄まじく荒れ狂い、その上空にはじっと動かぬ巨大な煙雲が宿っていて、そのなかのいくつかの雲塊は、噴火の度ごとに稲妻に裂かれたように分離し、各塊が固体のように照らし出された。そこから海岸へかけては、熱火と真っ赤な水蒸気とが帯をひいている。しかしながら、海と大地、岩石と植物とは黄昏の中にもはっきりと平和な姿を浮かべて、妖しい静寂の中にくっきりと見えている。これらすべてを一眸の下におさめ、そのうえ山の背後から昇った満月をば、この絶佳の光景にさらに睛を点ずるものとして眺めるに至っては、じつに驚嘆を禁じ得ざるものがあった。」
◆ドイツに戻ったとき(ローマに戻った時すでに)、ゲーテは自分がもはや別人に生まれ変わったことをはっきり意識していた。薄倖のミニヨンは導き手として太陽であり、南であり、熱であり、海と炎の娘だった(錬金術的に言えば、もっとも卑しき者にしてもっとも高貴な者、孤児にして世界の女王、そして両性的性質もある)。龍はゲーテにとって荒涼とした冷たい死の世界の象徴だったかもしれないが、ミニヨンにとっては熱く活動的な炎の象徴であった。炎もまた死をもたらすものである。しかしそれはその中に在ってつねに我が身を若返らせる火龍サラマンダーの火であり、不死鳥の火であった。焼かれる者には再誕が待っているのである。ゲーテはミニヨンに導かれて異文化の地イタリアを訪れ、いわば(彼が学生時代から関心を持っていた)錬金術の炉に投じられ、激しく熱せられた。そして蒸留され、若返り、より純粋な者となって再誕したのである。炎のように激しい感情を持ち、心の裡に聖母の声を聴き、絶妙のバランス感覚で綱を渡り、エッグダンスを踊る娘の呵責ないステップに従って。
というのは言い過ぎだとしても(周到な計画を立てて着々と実現させていったのはゲーテの理性だから)、しかしこうした劇的なイニシエーションを通っていかなければ、本来、修業時代は終わらないのではないだろうか。もちろんゲーテはミニヨンに恩があるなどとはこれっぽっちも感じなかっただろう。それは彼が「詩と真実」に書いた通りの気質だからである(補記5)。
ともあれゲーテは生まれ変わった(補記10)。そしてミニヨンもまた変わった。というより、ゲーテの中から消えて(あるいは鎮められて)しまったと思われる。
◆物語の「修業時代」では、ヴィルヘルムはミニヨンとイタリアへ行くことをしない。アマツォーネ(女騎士)なるナターリエと出会い、ヒラーリエなる女性と出会うことによって、修業時代が終わるのである。ただしそれにはミニヨンの犠牲が必要であった。
二度目のナポリ滞在で凄まじい火山の噴火を見た後、ゲーテはローマに戻って嬉々として滞在を楽しんだ。ワイマールにいた間、彼はある夫人に長く苦しい恋をしていたが、ここでは思うままに振る舞うことが出来た。ローマ生活を彩った女性は少なくとも3人あったと言われるが、「イタリア紀行」ではっきりと恋心を述べているのはその一人、マッダレーナ・リッジ(1765〜1825)である。ミラノから来たこの女性にゲーテは電光石火で惚れ込んだ。1787年11月のことである。彼は英語の手ほどきを引き受けて彼女と親しくなったが、婚約者があると知った途端に掌を返して遠ざかった。ほどなく婚約が解消されて彼女が病床に伏せると、ゲーテは心配して見舞いの品を欠かさなかったが、それでも会いにいくことはしなかった。彼女が回復した後は何度か会う機会が訪れたのだが踏み込んでいこうとせず、ローマを去ることを決めた別れの時にも、どうしても彼女の手をとることが出来なかった。
ゲーテは彼女を「美しきミラノの人」と称したが、内心ではミニヨンに見立てたようである。つまり内的人格であったミニヨンを外部の女性に見替えて、現実の身体をそなえた存在としてその愛らしさ(ミニヨンは「可愛らしい」の意)に参ってしまった。おそろしくプライドが傷つき、結局赦すことが出来ずにしまったのだが、お互いの魂は惹かれあっていると信じたゲーテは、ワイマールに帰った後も長い間その愁いを引き摺り続けた。
「修業時代」の後半部を書いた時、ミニヨンがミラノの近くで育ったとほぼ唯一の地名(ほかにアローナ)を作品中に示したのはその表れであろう(マッダレーナの故郷はマッジョーレ湖畔にあった、と「ゲーテ詩集」の解説(片山敏彦)にあるが、裏付け資料をまだ見つけていない)。
同じ頃ゲーテは、「朝に夜にあなたと私の胸には愁いがある、愁いはいつ果てるともなく船のようにいったりきたりを続ける、私は人前では明るくふるまっているけれど一人の時は泣いている、心臓がずたずたになって命も尽きる思いがする」、といった言葉を連ねた詩を作った。題名は「ミニヨンに
(An Mignon)」となっているが、マッダレーナを念頭に書かれたものとされている。この詩は
1797年8月にシラーに送られ、シラーは「修業時代」とは独立した作品として発表した。
マッダレーナ/ミニヨンのエピソードを念頭において「修業時代」を振り返ると、ヴィルヘルムが最善の選択と信じてヒラーリエとの結婚を決断したことが最後の一打ちとなってミニヨンが逝ったこと、ヴィルヘルムがヒラーリエを諦めて彼女がもともとの婚約者と結婚したことは、ゲーテの現実と呼応するようである。ゲーテにとってマッダレーナがミニヨンになった時、彼の内なるミニヨンは無意識の奥へ消えるほかなかったと思われる。そしてミニヨンを見替えることは、ミニヨンを失うことであると同時に、愛する女性を自ら諦めることにもなった。
ちなみに「修業時代」では、傷心のヴィルヘルムはミニヨンの葬儀の後、旅に出る前にナターリエを伴侶とする。ゲーテはイタリアから戻って1ケ月後の1788年7月12日、クリスティアーネ・ヴルピウス(1765-1816)という女性と出会い、身分違いながらすぐに内縁の妻にして、翌年子供も生まれた。どちらも見事な回復力で、なるほど修業時代はたしかに終わったようだ。(ナターリエに騎士姿の両性的気配、クリスティアーネに卑しき者にして世界の女王の気配が伴うのは興味深いことだ。ミニヨンのエッセンスは、新たな器を通じて秘かにゲーテに働きかけたのであろうか。しかし二人とも何年も経ってから再びミニヨンの面影に憑かれることになる。)
クリスティアーネは造花工房に職を得て一家を養ってきた娘で、料理が上手で天真爛漫な明るい性格だった。ゲーテの母親に通じるところがあり、後には母親も彼女を気に入った。ゲーテはクリスティアーネを「私の愛する子」、「私のおちびちゃん」と愛称して、蜜月は彼がシラーに接近する94年の夏頃まで続いた。この頃からゲーテは詩作を再開し、「修業時代」を書き始め、家を空けることが頻繁となった(シラーのいるイエナによく滞在した)。また「ミラノの美しい人」の面影が甦ってもきたらしい。95年また97年、ゲーテはイタリアでの長期滞在を計画する(が実現しない)。
◆さて、あれこれ述べてきた話をそろそろまとめる潮時だろう。「山」の候補として挙げてきた場所を再掲すると、1.ゴットハルト峠(サン・ゴタール峠)、2.マッジョーレ湖畔の山、3.ブレンナー峠(ブレンネロ峠)、4.ヴェローナ/ヴィツェンツァ周辺の山(ドロミーティなど)、5.ヴェスヴィオ山、である。
前述の通り、「修業時代」はどの場面も基本的に地名を語っていないが、ミニヨンの故郷については物語もほぼ終わりになってミラノ周辺の湖水地方であることが明かされる。ずっと後で書かれた「遍歴時代」ではヴィルヘルムがミニヨンゆかりの地を訪ねて回る。具体的な地名は示されないが、ほぼマッジョーレ湖のあたりであることは間違いない。そしてゲーテ自身は、どうやらミニヨンの歌は故郷の思い出を歌ったものとみなして彼女の過去を描いたようである。そこで作品世界に沿い、かつ故郷を歌ったと考えるならば、2がもっとも確からしいということになろう。
しかし、作品の成立過程やゲーテの心境の変化(特にイタリア旅行前後の)を辿ってみると、ことは見かけほど単純でない、と思われてくる。作品には話の流れを損なう強引な転換が感じられ、ゲーテの説明にはこじつけたらしい苦しさがみえる(例えば竪琴弾きの過去や処遇)。私は「修業時代」後半部の展開に違和感を禁じえないので、ことさら別の解釈を取りたくなるのだが、文学者にも同様の幻滅を感じる方はおられる(補記6)。また「ミラノの美しい人」を投影した気配もある。
そこで作品としては「演劇的使命」で描かれた部分までを考慮し、ミニヨンがイタリア旅行でゲーテを導いたルートという見方をすれば、3、4が視野に入る。さらに歌の第一節の光景が現実に見られる土地にあてはめれば、イタリア中南部の沿岸地方がクローズアップされる。
ゲーテが子供の頃からもっとも憧れたところでもあろう、と考えを進めればナポリは最有力で、「イタリア紀行」にはゲーテ自身に思わせぶりな言葉がある。シチリアへ渡る1週間前の
3月22日、ナポリで次のように書いているのだ。「このごろ或る友人が私に『ウィルヘルム・マイスター』を思い出させて、その続きを書くようにと要求している。この空の下ではできそうにもないが、多分最後の数章の中に、ここの雰囲気が幾らか伝えられることになろう。それができるくらいにまで私の生活が発展して、茎が伸び、花が一そう豊かに美しく咲くといいのだが。私は生まれ変わって帰るのでなければ、むしろこれきり帰らぬ方がよほどましなのだ。」(※これは3度目のヴェスヴィオ登山の2日後だが、ゲーテはまだ生まれ変わったと感じていない。収穫がまだなのだ。)
この頃のゲーテは、ヴィルヘルムとミニヨンが山を越えてナポリにやってくることを構想していたのではなかったか? すると
5はぴったりの「山」である。ナポリを描くならヴェスヴィオ山への言及も必ずあるはずだ。(補記7 即興詩人)
一方、イタリア旅行以前のゲーテの経験を強く投影すれば、文学研究者の常識、ゴットハルト峠のイメージは隠れもない、ということになる(補記8 参照)。
私はミニヨンの性格に、憧れ、激しさ、炎、情熱、バランス感覚と機敏さ、真実を神秘的に見抜く力を見るので、そして繰り返しになるが、ミニヨンはひたすら暖かいところを求めるので、どうしても火山である 5に相応しさを感じる。
◆もう一つ検討に価する場所を挙げると、6.シチリア島のエトナ火山、がある。シチリア島はレモンやオレンジのイタリア第一の産地で、気候はナポリよりさらに温暖である。ギリシャ文明に遡る古い歴史があり、さまざまな神話の舞台となった。エトナ山はゼウスによって風神龍テュポーンが封印された山であり、怪物が逃れようともがくたびに噴火が起こる。噴火は巨人エンケラドスが吐き出す炎だとも言われる。また炎と鍛冶の神ヘイパイストオスの鍛冶場にもなった。
哲人(魔術師)エンペドクレスは、「私はかつて一度は少年であり、少女でもあった。私は薮であり、鳥であり、海に浮かぶ物言わぬ魚でもあったのだ」と自身を語った人物だが、年をとるとエトナ山に登り、火口から身を投じて不帰の人となった。投身の理由は神になるため、あるいは再生(転生)のためであったと言われている。
北国の内陸部に生まれ、内陸で青年時代を過ごしたゲーテは、シチリア行きのコルベットに乗って初めて航海らしい航海を経験した(その前にヴェネチアからキオッジャまで沿岸航海をしている)。彼はノロイ島(夢見が島)に向かう船に乗ったドブネズミのガンバと同然だった。随分船酔いに苦しめられたが、船と並走するイルカも見たし、月影明るい海の美しさも知った。嵐のときの海の様相も知った。シチリア島はそれまでゲーテにとって「アジアやアフリカを意味して」いたが、船がパレルモの港に近づくと暖かい海がもたらす靄をかぶったその美しさに茫然とし、到着した時にはすっかりシチリアが好きになっていた。
「美しく晴れた午後、私たちがパレルモの港へはいった時に、海辺一面に漂っていた靄の晴朗さは、とうてい言葉をもって表すことが出来ない。輪郭の清純、全体を包む柔和、互いに分離する色調。これらを見たものは一生涯忘れることができない」と彼は書き、「シチリアなしのイタリアというものは、われわれの心中に何らの表象をも作らない。シチリアにこそすべてに対する鍵があるのだ」、「もし私の身にとって何か決定的なものがあるとすれば、それはこの旅行なのだから」という入れ込みようである。
彼は世界を観る目がもう以前とは違い、物事に対する理解力が増したと感じた。この島は彼の父が訪れたことのない新天地でもあった。もはや父の足跡を追ってはいない。パレルモの河畔の公園は素晴らしかった。海からくる水蒸気があらゆるものを薄青く包み込んで仙境の印象を与え、ホメロスが描いた幸福の島を想い起こさせる。この上ない調和を感じる。芸術作品を作りたい気持ちがいや増さる。
「そしてこの地方を土台とし、出発点として、私が今まで生み出したことのないような意味と調子とをもって、一つの作品を構成して見たいという衝動がますます高まってきて、ついにその衝動にわが身を委ねることになった。空の明朗さ、海よりの息吹、山と海と空とをいわば一つの要素に融合させる煙霞、このすべては私の計画に養分を与えてくれた。私はあの美しい公園に行って、花の咲いた夾竹桃の生垣の間やら、実をつけたオレンジやレモン樹の葉陰を逍遥し、その他私の見も知らぬ樹々や灌木のあいだに佇んで、異国の及ぼす感化をばこよなく愉快に感じたものだ。」
公園の雰囲気に浸って彼は悲劇「ナウジカア」を構想した。「雉船」に積んで故郷の友人に手渡す煌びやかな土産が手に入った、とゲーテは予感の成就を思ったであろう(補記9)。
こうした出来事もまた海と炎の娘の贈り物であったかもしれない。しかし彼女が導いてゆく「山」がエトナ山だったとは私には思われない。エトナ山は標高3,300mを越える堂々たる独立峰で、山頂は風が強く、寒くて空気が薄く、ミニヨン向きではないのである(おそらくゲーテ向きでもない。ちなみにゴットハルト峠は標高2,106m,
ヴェスヴィオ山は1,281m)。それにミニヨン(小さな者の意味もある)にしてはスケールが大きすぎるようだ。シチリア島行きは試練を潜り抜けた後の出来事であり、だからゲーテにはすでに新しい眼がそなわっていたのだ、と思われる。ここは英雄に用意された収穫の島だったのだ、と。
ゲーテはもちろんエトナ山に登りたいと考えていた。しかしアドバイスを求めたカタニア大学の博物学教授は軽くたしなめた。
「一体この地へお出でになる外国のお方は、エトナ登山を非常に簡単に考えておられるのです。ところが私たちのような山麓の住民でも、一生のうち最もよい機会を捕えて、二、三度頂上に登れたら、それで満足しているという有様です。」 そして見晴らしのよいモンテ・ロッソに登るよう勧めた。翌日、わずかに煙を吐くエトナの雪嶺を眺めながら、ゲーテはこの赤い火山岩の山にとりついた。非常に強い風が吹いており、一歩一歩を進むのも危うく、どうかすると火口に吹き落されそうであった。メッシナからシラクサまでの海岸線を一望に見渡すことが出来たが、景色を楽しむどころでなく、目がくらむ思いで下山した。ともかく火口に身を投じるようなことにはならずに済んだ。エトナ山頂には登らずに終わった。シチリアで龍と対峙することはなかったのである(後年ゲーテは、ヴェスヴィオにもエトナにも登った、と述べているが)。
建築物についても、ローマやナポリと比べると、この島はゲーテを感心させるものではなかった。とはいえ、彼がシチリア島の雰囲気に陶酔し、大いに満足を覚えたことは確かである。
◆こうして私は必ずしも理詰めでない光跡を辿って、ミニヨンの「山」はナポリのヴェスヴィオ山だと思うようになった。それは最初(このページを書き始めた時)に想像していたイメージとはまったく違っている。私は鍾乳洞の洞穴で龍が金銀財宝を守っており、その財宝はもしかしたらきわめて豊かなスカルン鉱床だろうと想像していた。鉱脈は龍の背中のように太くうねり、蜿蜒と伸びている。あふれる瀬は鍾乳洞を作った地下水脈が地表に現れたものだろうと。
でもまあ、物事の展開はこういうものである。ミニヨンが私を連れ出してくれた旅だと思えば快い。
私はナポリにはほんの若僧の時に一度きり行ったことがある。「ナポリを見てから死ね」と地元の人は言いゲーテも書いているが、200年遅れて行った青二才は特に感心することもなかった。ヴェスヴィオも登っていない。素晴らしいものを理解するには、それだけの素地が出来ていなければならない、とゲーテなら間違いなく言うだろう、と今の私はそのくらいのことは分かる。
小学生の時分、私はハワイのキュラウエア山からあふれる溶岩流の写真やら、火花を散らす火山噴火の写真を地球・岩石図鑑に眺めて、いつかこの目で見てみたいと憧れた坊主だった。だから、赤い火を吹くあの山は、すでに忘れて久しい夢に繋がっている。そう思うとやっぱり登りたい気もする。出来ればミニヨンと一緒に。
◆最後に「家守綺譚」に戻ろう。綿貫征四郎という繊細な男(文筆家)が、学生時代の友人、高堂の家の守りをして暮らすうちに出会う異世界との交流譚である。高堂は学生時代ボート部にいて、湖(琵琶湖らしい)でボートを漕いでいる時に行方不明になったが、時々、水を越えて綿貫に会いにくる。湖には龍の洞があり、湖の底には竜宮がある。時を超えた世界である。あたりの山地の水系には長らく赤竜が不在なのだが、縁は巡っていま一人の友人、トルコに留学した村田が再生の力を持つ火龍を連れて戻ってくることになる。しかし高堂は時が来るまで火龍に眠っていてもらうつもりだ。
そういう世界のお話だから、ミニヨンの歌の「山」は、当然、琵琶湖の周囲の緑濃い山地に擬えられているのである。それでも火龍が出てくるところに私はなんとなく一脈の繋がりを感じる。
ついでに言うと、福井県の敦賀方面から高速道路で山越えして滋賀県に出ると、長浜の長い直線の下り坂あたりからはっきりと空気と光が違っていることが感じられる(逆方向に走るとあまり感じないのだが)。ことに冬場の晴天時にはその感が強い。日本海側はたいてい重苦しい雲が空を覆っているから。狭く曲がりくねった谷間の道とトンネルを抜けると、琵琶湖のあたりは広々とした空が開けて、自然にほっと息をつく。陽光はまぶしく、空気はからりと乾燥して感じられ、その変化が劇的なのである。ちょうどドイツ・オーストリア側からアルプスを越えてイタリアへ抜けるのもこんな感じではないかなと想像する。
マッジョーレ湖にイゾラ・ベッラ(ベッラ島)があるなら、琵琶湖には竹生島がある。弁財天女を祀り、龍神(水の神様)の一族にまつわる伝説がある。湖に沈んだ人々は水底にあって彼らに仕えている。ダァリヤは言う。
「寒いときは、湖の底はしんとしているのですって。それほど寒いとは感じないらしいのですけれど、外が寒ければ寒いほど、湖はしんと静まってゆくのですって。…いつもは水平に流れてゆくだけの時間が、そこではふっと止まって垂直に、どんどん深くなってゆく。でもみんな生きている。それが証拠にほんの微かに、揺らぐのが分かるんですって。」「それでも龍の洞の奥には何でもあるのだそうです。常夏の国の果実も、高山に咲く花も。」
綿貫征四郎は別れ際ダァリヤに檸檬をもらい、「ゲーテの歌」の最初の節を口の中で呟く(こちらもベースは森鴎外の訳詞)。
・・・君知るや 彼の国
檸檬の木は花咲く 暗き林の中に
黄金色のシトロンは 枝もたわわに実り
青く晴れし空より 涼やかに風吹き
ミルテの木は静かに ロウレルの木は高く
雲に聳えて立てる その国を
彼方へ
君と共に行かまし
をはり。
マッジョーレ湖の島のひとつ イゾラ・ベッラ
イゾラ・ベッラの庭園
レモンとオレンジが実る
イゾラ・マードレ(母島)
南国を想わせる樹木
庭園を歩き回る孔雀
旅のひとコマ No.72 ストレーザ
ひま話 琵琶湖 竹生島
補記1:「じじつ私たちが年少の頃は、この「修業時代」がダンテの「神曲」やゲーテの「ファウスト」とともに必読の書としてあげられ、若者たちは懸命にこの小説に取りくんだのである。」「私が教えた旧制高校生のなかには、どこへ出かけるにもレクラム版のこの本をたずさえているけなげな者もいた。」
「この小説を語る場合、忘れられてはならない人物がいる。ミニオンと老竪琴ひきである。主としてこの二人の人物のために、また彼らがうたう哀切沈痛な歌のために、「ヴィルヘルム・マイスター」は今日まで一般に親しまれていると言っても過言ではあるまい。」(小栗浩 世界文学全集19 ゲーテ
(1977) の解説より ) (戻る)
補記2:例えば恋人フリーデリーケと別れる少し前、数年後の自分の姿を幻視している。また「詩と真実」には幼年期について次のような言葉がある。
「これらのことが早くから私のうちに、孤独感と、そこから生じる憧れの気持ちをよびおこした。こうした感情は、生来私のうちにある生真面目さや予感的なものに通じるところがあったので、私はまもなくその影響をうけはじめ、やがてそれがいっそうはっきりと現れてきた。」
雉船の夢もゲーテは予知と考えていた(補記9)。
(戻る)
補記3:1775年の一連の出来事の背景には、ゲーテが婚約者リリーとの結婚生活の前途を危ぶんでいたこと、ワイマール公国から任官の懇切な打診があったこと、父親はそれを貴族のたちの悪いいたずら(仕返し)と考えていたことが絡んでいる。結婚に踏ん切りのつかないゲーテは、リリーに断わりなくスイス旅行に出て周囲の事情を悪化させるが、ゴットハルト峠にイタリアを望んだ時は、峠を降りてイタリアへ行くのでなく、やっぱりリリーのいるフランクフルトに戻ろうと考えたらしい。
峠から引き返したゲーテの行動を父親は不興がり、峠道で見た険しい岩や霧の海や竜の棲みかの土産話に少しも感心しなかった。そして、「ナポリを見たことのない人間は、生きたとはいえない」と言った。
その後、婚約は解消されたが、ゲーテはリリーに未練を捨てきれず、フランクフルトを離れる必要を感じた(リリーの家はゲーテの家から
2、300歩の近所にあった)。そしてワイマール公国の招請を受け入れたが、約束の日になっても迎えの馬車がこなかった。ゲーテはフランクフルトを離れたふりで家に籠って迎えを待ったが、隠れ続けるにも限度があった。もともと招請を本気にしていなかった父親は彼をイタリア旅行に送り出した。ゲーテは途中、リリーとの婚約をまとめてくれた女性をハイデルベルクに訪ね、そのまま引き止められてずるずると滞在を延ばしていた。その間にフランクフルトに迎えが到着し、ゲーテは晴れてワイマールに致仕したのである。(戻る)
補記4:ゲーテは若い頃、ローマのロトンダ(パンテオン)の柱頭模型に非常な感銘を受けている。 (戻る)
補記5:「生来私は、ほかの人よりも感謝の念に乏しかった。受けた恩義を忘れ、一時的な誤解によって生ずる激情にかられて、きわめて容易に忘恩の行為に走ることが多かった。」とゲーテは「詩と真実」に書いている。私としてはまずグレーチヒェンに向けたゲーテの怒りが、ついで、「修業時代」のマリアーネに対するヴィルヘルムの仕打ちが思い浮かぶ。しかし、自分に正直なのがゲーテであるからいたしかたがない、とも思う。 (戻る)
補記6:「この二人(ミニヨンと竪琴弾き)の運命については『演劇的使命』では分からない。しかし『修業時代』になると、…わかる。せっかく読者を不可思議な世界に遊ばせながら、ゲーテはなぜ彼らの素性しらべをやってしまったのか。彼らは不可思議のままに消えてゆくべきであった。私たちは幻滅を覚えずにはいられない。これは明らかにゲーテの失敗であった。」(小栗浩 出典、補記1に同じ) (戻る)
補記7:アンデルセンの「即興詩人」は重要な舞台の一つをナポリ(周辺)においているが、ヴェスヴィオ山を次のように紹介している。
「ヴェスヴィオの山の姿は、たとえば炎をもって描いたマツやカシワの大木と思えばいい。直立した火柱はその幹、火の光を反射している紅色の雲はその木の頂、谷を造って流れる溶岩はその根に見える。
わたしは、この大火山に対する心情をどのように表せばいいのだろう。わたしは神と向かいあった。神の声はかの火口より発してただちにわたしの耳に響いた。神の威力、知恵、憐れみはわたしの胸を貫きとおした。その恐るべき神の手は、また一羽のスズメでも理由なく地に落とすことはない。」(安野光雅訳)
また夜の噴火や流れる溶岩の幻想的な美しさを語り、ヴェスヴィオ観光登山の様子を詳しく描写している。
「絵のない絵本」第一二夜ではポンペイの光景を語り、ベスビオの山が永遠の讃歌を轟かして、「噴き出る火は笠松の幹のように立ち上っていた。煙の雲が夜の静けさの中に照らし出され、笠松の梢のように、血のように赤く広がっていた。」と同様の描写をしている。 (戻る)
補記8:大谷学報 69巻3号(1989)の「ゲーテ『ミニヨン』考」(岸繁一)(ネット上で閲覧可)は、(ミニヨンのこの詩は)「もっぱら少女のイタリア憧憬の歌と解釈されてきた。第一節は南国イタリアの自然風景。第二節はミニヨンの故郷。第三節は彼女がかどわかされドイツへ来たときのアルプス越えが歌われている、と。また詩人自身のまだ見ぬ南国への憧れがこめられている。さらに昔から北の人々が抱いてきた南国への憧れの心情の代弁であり、今日もそのように位置づけられている。しかし今世紀半頃より文学研究の領域ではそれが疑問視されるようになった。」と俯瞰し、「ゲーテは一七七五年スイス旅行でアルプスの高峰峯ザンクト・ゴットハルトに登頂した。…その日記に『雪、露出した岩と苔、暴風、雲、滝の音、らばの鈴鳴る。死の谷のような荒れ地。霧しきりに湖上に立ちこめる』とある。(第三節は)この風景が素材になっている。」との説を紹介している。このほか、「死の国」説、「(この世から隔絶した)楽園に通ずる道」説も取り上げている。 (戻る)
補記9:イタリア紀行 1886年10月19日 ボローニャの項に、ちょうど一年ほど前(ゲーテがイタリア行を画策していたであろう頃)に見た夢が記されている。大きな軽舟に乗って、立派な雉が捕れる豊穣の島へ航海する。孔雀か極楽鳥のような尾をもった雉を夥しく殺して船に積み上げ、潮路やすらかな海を行く。ゲーテはこの貴重な宝物を分かちたい友人の名を呼び、最後に大きな港に向かう、といった夢である。ゲーテは大切な予知夢とみなしていたようで、ローマに入る直前の10月28日の項、シチリアへ渡る直前の 1887年3月29日の項にも、それぞれ雉船への言及がある。シチリア島に掛ける強い決意表明は、この島をかの豊穣の島と見込んだからであろう。そして早い時期から旅行計画に組み込んでいたと思われる。また雉船を、トロイア戦争の後、宝物を満載して故郷に帰る英雄たちの船に擬えたようでもある。ゲーテはもともと各地を遍歴する自分をオデュッセウスに見立てていたが、ことにシチリア島ではギリシャ時代の(太古の理想郷の)イメージの中に深く潜り込んでいたようだ。彼はこの島でホメロスを真に理解したと感じた。なお、当時、狩りの獲物の献納は礼にかなった無上の敬意を示す行為であったと思われる。(戻る)
補記10:ゲーテがワイマールでの公務をつらいと感じるようになったのは
1782年に臨時財務長官を拝命して以降であろうと思われる。彼は国庫の状況や行政の問題点をどこにも逃げ道なく目の当たりにすることとなった。行政大臣としての人格と詩人・芸術家としての人格とをはっきり二つに分離させなければとても務まる仕事でなかったが、それは生命力の源泉から自分を切り離すことであった。1783年の11月、彼は愛するシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人(宮廷女官)に「世界地図の、イタリアが載っている部分」を送ってくれるよう頼み、翌月には二人で遠い国へ行って幸せになりたいと告げている。ゲーテのイタリア旅行の連れは(現実にはありえないことながら)意識的にはシュタイン夫人で、旅行中にこまめにしたためた「旅日記」は彼女に宛てて書かれたものである。とはいえゲーテが夫人に告げずにイタリアへ脱出したのも事実で、この旅行はむしろ孤独であるべき旅、自分と源泉との間の道を再び見出すためのものだった。そのガイド役がミニヨンだった、と思われる。
旅立つ直前の夏、ゲーテは「統治者たる君主はともあれ、およそ行政に携わる者は俗物か悪党か愚か者であらざるをえない」と、それまでの10年間のキャリアを自分にとっては過ちだったと結論した。といって職を辞して収入の道を断つつもりもなかった。全面的にミニヨン/生命の源泉に身を任せる選択肢もまた、ゲーテにとっては間違いと感じられたのである。ワイマールに帰るにあたってゲーテは、自分を財務長官その他の公務から解放し、今後は「客」として扱って文化方面の仕事を好きなようにさせてもらいたいとアウグスト公に交渉していた。(もちろん、何の故障もなしに希望が通ったわけではない。枢密顧問官として若干の公務は残ったし、イルメナウの鉱山監督も続けた。)
イタリアでの体験は、「死人同然」に凝固した「体液の淀み」を解消し、彼を再び生き返らせるものであった。彼はローマ滞在中に分離を解消して全一な生き方を演じた。「ところで私は幸せな人々と知り合いになりました。幸せなのは彼らが全一であるからなのであって、ごく身分の低い人間でも全一であれば幸せになれるし、その人なりに完全であることができるのです。」とシュタイン夫人に書いている。(戻る)
補記11:洞穴の中に老いた龍の一族が棲み、砕けて積み重なった岩の上にたぎつ瀬が飛沫をあげる、人を寄せつけない険しい山岳のイメージは、古代ローマ文学の古典として近代ヨーロッパ人の教養に含まれた「プシケーとキューピッド」の物語にすでに見出せる。ヴィーナスがプシケーに与えた3つめの試練の山である。
その様子は、「それはそれは巨きな岩が聳えていて、突兀として滑り易く近よることなど思いもよらず、両側から迫りあうその石のあぎとからは身の毛もよだつような恐ろしい噴流(いずみ)が迸り出て、雪崩ている洞窟の裂け目から湧き出すとそのまま滝になって崖を流れ落ち…」、「洞になった切岩からは恐ろしい竜が這い出し…長い顎をもち上げ、その眼はまばたきもせずにしっかりと見張りをつづけ…」(「黄金のろば」呉茂一訳)と描写されている。
引用した訳文:
「ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命」(小栗浩訳)
「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(山崎章甫訳)
「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」(山崎章甫訳)
「詩と真実」(山崎章甫訳)
「イタリア紀行」(相良守峯訳)
「スイス紀行」(木村直司訳)
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