◆「われはうみの子」で始まる歌は二つあり、どちらも私の愛唱歌だった。
一つは白波騒ぐ磯辺の松原に在りて、千里たなびく海の気を吸って形づくられる子供の魂の歌で、勇壮の気湧き起るメロディー。
いま一つはさすらいの旅にしあって、黄金の波の間に間に漂い行く途々の旅情風光に感傷する若人の魂の歌で、バンカラ・ロマンの匂い懐かしノスタルジックな節回し。
前者は小学生の頃から馴染み、後者は玲瓏うらなりのごとき哲学生の時分に覚えた。双方「ゆくえ定めぬ なみまくら」の詞が含まれて、はてみ丸に乗って独り果てもない旅のつくつくぼうし、影を追って多島海(アーキペラゴ)を行くゲドもかくあらんかと偲ばれる。風呂で湯船に浸かりながら、人知れず唸っていい気分になるにふさわしい歌どもと思えた。
後者、「琵琶湖周航の歌」は私にとってはフォークソング系の歌だが、聊か抹香嗜好のところがあって、♪瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの竹生島(ちくぶじま)と歌えば、瞑った瞼に広がるのは西方の極楽浄土である。湯気にのぼせたひとはタイやヒラメの舞い踊るかの龍宮の城、常若のニライカナイ、ないしは、灰色の雨のとばりがすっかり銀色のガラスに変わり、それも巻き上がってたちまち昇る朝日の下に、白い岸辺とはるかなる常緑の地の現るるを見るのだった。♪仏の御手に抱かれて 眠れ乙女子 安らけく。竹生島の名を知った初めである。
後に裏庭で梨木香歩に出逢っていつか作品を追うようになり、家守綺譚(いえもりきたん)を読んだのは
2006年と思しい(その年に文庫本が出た)。主人公は琵琶湖疏水から引かれた用水路の途中が池になった畔の家に住むインテリ物書き。学生時代に亡くなった親友の生家の守りをしている。この親友はボート部に所属して、琵琶湖でボートを一人漕いでいる最中に行方不明になった。どうやら竹生島(ちくぶしま)の浅井姫命(みこと)の仕え人に連なったことが、折ふし還り来て主人公に洩らす言葉の端から覗われる。疏水を辿ってくるらしい。
−浅井姫命とは何ものか。
−この湖水をおさめていらっしゃる姫神だ。
だそうだ。姫神は秋の挨拶に参られた竜田姫を迎えられたり、龍神と連れだって淡路島の方へ往かれたりなさる。
主人公は親友のいた湖の底を書いてみたいと口にする。親友は、湖にはあらゆる方角からの地下水脈が流れ込み、その底は、また次元が違って、時間の観念も違うし、意識のありようで見えるものも違う、という。
−浅井姫とはどんなお方なのだ。
−おまえにそれを語る言葉を、俺は持たない。人の世の言葉では語れない。
だそうだ。
ちなみに琵琶湖周航の歌の元は、三高(後の京都大学)ボート部の学生歌である。こうして私はいつか竹生島に行ってみたいと思うようになり、そのまま久しく時を過ごした。
◆竹生島は琵琶湖の北岸近く、長浜市早崎町の沖合 6kmにある周囲約
2km、面積 0.14km2 の島だ。北側の隆起部は標高 197.6m。全島、花崗岩の一枚岩で出来ている。琵琶湖に浮かぶ4島のうち、沖島に次ぐ大きさで、あとに多景島(補記3)、沖の白石が続く。
昔から優れた風光を愛でられ、神仏の棲まう島として信仰を集めた。今日、宝厳寺(ほうごんじ、山号は厳金山がんこんさん)と都久夫須麻(つくぶすま)神社との二つの寺社が開いている。明治以前は平安時代から近世まで宝厳寺に神仏習合して祀られていた。
宝厳寺の由緒を物語る「竹生島縁起」(護国寺本)は承平元年(931)に撰述されたといい、その初めを
200年ほど遡った(確かめようのない)昔におく。島にはもともと浅井姫命が鎮座し、水神として崇められていたとする。
いわく、「人皇七代孝霊天皇の時代(BC 3C頃?)に霜速彦命に気吹雄命、坂田姫命、浅井姫命という三人の子供が生まれ、日本の国に天降り、気吹雄命と坂田姫命は近江国坂田郡の東方に住み、浅井姫命は近江国浅井郡の北辺に暮らすこととなった。ところが気吹雄命と浅井姫命の間で勢力争いが生じ、敗れた浅井姫命は湖の中に居を移すこととなった。浅井姫命が湖水に潜ると「都布都布」(つぶつぶ)と音を立てて泡が生じ、その泡が凝り固まって島が出来たので、その島は「都布夫嶋」つぶぶしまと呼ばれるようになった。
この島にはたくさんの鳥たちが群れ集まり、種を落としてさまざまな草木が生えるようになったが、最初に生えたのが「竹篠」であったため、「竹生嶋」の字を宛てた」。
今日の観光パンフレットにあるお話を引くと、「伊吹山(1,337m)の神が、姪の浅井岳(現在の金糞岳(1,317m))の神と高さを競って負けた。伊吹山の神は怒って浅井岳の神の首を切り落とした。その首が琵琶湖に落ちて竹生島となった」。気吹ないし伊吹は夷服とも綴り、この地に住まっていた夷民の征服者であったらしい。
ともあれ、いつとも知れない昔から、島は水を治める女神の棲むところとして祀られ、神を斎く島(いつくしま)がつくぶすまに転じ、さらにちくぶしま(竹生島)になった、とも言う。都久夫須麻神社の名はむろん竹生島の古名に因る。平安時代の延喜式に載る社名を、明治の神仏分離令を受けて継いだものらしい。別説に、島の形が雅楽の楽器、笙(竹+生)に似ていることから、竹生島の字をあてたとも付会される。もっとも竹生島と言えばむしろ琵琶がゆかりなのだが。
島名の読みは、現在ちくぶしまが正調らしいが、周航の歌はちくぶじまと歌い、音の流れはこちらがよい。まあ、いずれにしても訛っている。
上記の縁起によると、仏法の守護神が祀られるようになったのは、天平10年(738)、奈良・唐招提寺の僧行基が島を訪れて草庵を結び、丈二尺の四天王像を作って小堂に安置し、「聖朝安穏、国家鎮護」を祈願した時からである。携えていた竹杖を地に差し、「この地が仏法興隆の地ならば、この竹、生長すべし」と祈ったところ、たちまち竹林となった。これまた「竹生嶋」の名の由来の一説である。
縁起が書かれた10世紀中頃の竹生島は天台僧の修練の場となっており、湖神の龍神へ捧げる捨身の荒行「岩飛び」が厳修されていた(補記1)。その流れを汲んで、竹杖を立てて竹林を生やしたのは、修験道の元祖、役小角という説もある。
観光パンフレットは「宝厳寺は 724年に行基が開いた」と書いている。本尊は弁才天と千手観音で、それぞれを祀る堂がある。
平安時代末(12C末)頃の島は天台宗延暦寺の末寺で、弁才天が祀られたことが記録に残る。以来、隆盛を誇った延暦寺の下で、竹生島は弁才天の聖地として名を広めた。応永21年(1414)成立の応永縁起(智福嶋縁起)は、「(天台宗を伝えた)伝教大師最澄は、延暦
7年(788)、桓武天皇のために比叡山に根本一乗止観院(根本中堂)を創建し、薬師如来像を安置して「聖朝安穏、皇帝本命、仏法繁昌」を祈願した。この時、一乗止観院の御堂の乾(北西)の方角に「大弁才天女」が現れ、比叡山の仏法を守るため「湖中の霊嶋」に住むと告げた」、と物語る。
弁才天は仏教の守護神で、仏教発祥地のインドではもとをヒンドゥー教の女神サラスヴァティーに遡る。学問・芸術を司るこの女神は色白で、白衣をまとい水辺に佇んで、琵琶に似た楽器ヴィーナを奏する姿で描かれる。腕が4本もあって器用なのだ。白鳥や孔雀を乗り物にしている。サラスヴァティーはサンスクリット語で「水を持つもの」を意味し、水と豊穣の(農業の)女神として信仰される。リグ・ヴェーダは聖河サラスヴァティーの化身と説く。流れる川のさまや心地よいせせらぎの音から、流暢に流れあふれる言葉、学識、音楽にゆかりのものと考えられるようになった。弁舌の才ある天部の神である。
日本の弁才天は、サラスヴァティーと共に、同じくヒンドゥーの女神ラクシュミーに遡る仏教神、吉祥天(宝蔵天女)の性格もいくらか取り込んでおり、また日本神話の宗像三女神の一柱、市杵嶋姫命(いちきしまひめ/いつきしまひめ)と同一視されることもある。神霊を斎き祭る姫神である。竹生島では古く浅井姫命が、ついで市杵嶋姫命が、それから弁才天が(合わせ)祀られたといい、水の神、農業の神、技芸の神として混然一体となって姫神のイメージを膨らませたようだ。
弁才天は一般に八臂で(八本の腕を持って)表現されるが、そのうち二本の腕で琵琶を操る楽人の姿をしていたり、八本の腕にそれぞれ仏教護持の法具を携えた戦う姫君の姿をしていたりする。
ちなみに琵琶湖は昔は淡水の海、淡海(あわうみ)と呼ばれ、この言葉は近江(おうみ)の語源となっている。延暦寺の僧が
14世紀に編述した「渓嵐拾葉集」に、「尋云。湖海是弁財天の三摩耶形なる方如何。 答。凡水海の形は琵琶の相貌也。」の記述があり、琵琶湖の形を弁才天が携える琵琶に擬えたもっとも古い記録とされている。湖名としての琵琶湖の初出は
16世紀初に京の禅僧が書いた漢詩「湖上八景」で、一般名称として広まったのは江戸中期という。
平安末期の武士、平経正(? -1184)は平清盛の甥で詩歌管弦に優れ、琵琶は殊のほか名手だった。平家物語巻七には、経正が副将軍として木曽義仲の討伐に赴く途中、竹生島に参って、怨敵の平定を祈願するくだりがある(竹生島詣)。陰暦
4月8日というから、今の5,6月、初夏の頃か、新緑映え、藤の花が咲き始め、ほととぎすの音が響き渡る島の美しさはなんとも言いようのないほどで、漢の武帝が不死の仙薬を求めて遣わした蓬莱の島とはこんなところであろうか、経文に「閻浮提(えんぶだい)のうちに湖あり、其中に金輪際より生ひ出でたる水精輪(※水晶輪)の山あり。天女住む所といへり。」と記されるその島だろうか、などと文学的な連想が湧くのだった。
日暮れになって居待の月が昇る頃、経正の楽才を知る僧が琵琶を差し出したので、秘曲、上玄(しょうげん)と石上(せきしょう)を弾いた。すると宮の内の気が澄みわたって、明神感応に堪えず、経正の袖の上に白龍の姿が現れた、という。
現れた白龍は端的には水の神たる龍神だろうが、物語はこれを明神の化身とみている。琵琶法師が諸行無常を語って全国を渡り歩いた頃、竹生島明神である浅井姫命は弁才天(大弁功徳天)の垂迹(※すいじゃく。衆生済度のための仮のお姿)であり、弁才天また往古の釈迦如来が菩薩として法性を現した化身と信じられていたことが、その語りから窺われる。
発祥のよく分からない人面蛇身の穀霊神・財福神で、とぐろを巻いた蛇身の上に老翁あるいは若い女性の顔立ちの頭部をもった宇賀神と呼ばれる神がある(男女二柱あるという)。竹生島の弁才天はこの宇賀神ないし龍神とも習合して信仰されていた。すなわち姫神/弁才天の頭上には老翁顔の小さな宇賀神が戴っており、宇賀弁才天とも呼称されるのだ(福徳神の側面が加わっているので、弁財天と書くことも)。弁才天と宇賀神とは連れ合いだとも言われる(浅井姫命と龍神と言ってもいい)。
私が思うに両性を具えた宇賀弁才天は、仏教の垂迹思想に通じると同様、ユング心理学の原型にある老賢人やアニマに通じて、不可知の単一源から人知が捉えうる象徴的姿をとって現れた神話的イメージの担い手であり、女性性と男性性とが協働して天下無敵の功徳を発揮するのだろう。あたかも天才的なぶっとび老科学者ときゃぴきゃぴお転婆娘の最強ペアが、人類を明るい未来へ導くのに似て。
◆神を斎く島、あるいは観音霊場であった竹生島は、平安以降、長く仏教界の聖地の一つとして機能し、朝廷や時々の武家勢力と関係を結んだ。室町時代には足利義満らが竹生島を幕府の祈願所に指定し、雑税免除や守護権力排除の特権を与えていた。
当時作られた能楽「竹生島」は、延喜帝(醍醐天皇)の臣下らが竹生島に詣でる筋で、都びとは湖の主が化身した漁翁と弁才天が化身した若い女性が運ぶ釣り舟に乗って、春の景色を楽しみながら島に渡る。竹生島は女人禁制のはずで、都びとは女が島に入るのをいぶかしむが、女は「弁才天は悠久の昔から男女のへだてなく人々を救ってきた」と島の由来を語り、自分は人でないと告げて社殿に姿をかくす。都びとが社人に宝物を見せてもらって時を過ごしていると、やがて光り輝く弁才天が現れて、天女の姿で舞楽を奏す。湖中から龍神が現れて金銀珠玉を都びとに捧げて祝福する。
戦国時代に湖北に勢力を張った「浅井三代」(亮政・久政・長政)は土着の国人で、一族そろって竹生島を篤く信仰した。長政は織田信長の妹、市を正室に迎えて三人の姫を授かった武将である。後に信長と対立して浅井家は滅亡するが、三姉妹は母の市と共に生き残った。
この戦さの後、湖北を拝領したのは羽柴秀吉(豊臣秀吉)で、長浜に城を築いた。天下統一後に三姉妹の長姉、茶々(淀殿)を側室に迎えて、秀頼を授かる。長浜以降、秀吉は竹生島を保護したが、秀吉の没後も豊臣家は援助を続け、島の堂舎を再興させている。茶々が浅井累代の信仰を継いだから、といわれる。宝厳寺の唐門は大阪城極楽橋の遺構とされる。
三姉妹の末娘、江(崇源院)は文禄4年(1595)に徳川家康の子、秀忠(2代将軍)に嫁した。家光(3代将軍)の母である。家康は豊臣家を滅ぼして江戸に幕府を開くが、慶長18年(1613)、秀吉が竹生島に認めた寺領
300石を追認している。この石高は江戸時代を通じて維持された。ちなみに竹生島の宗派はこの時期には天台宗から新義真言宗に変わっていた。
江は浅井家以来の縁をもって、徳川家の家紋「三葉葵紋」つきの祈祷道具や調度品類を竹生島へ寄進したという。江戸大奥はこれを先例に、たびたび寄進を行った。竹生島は江戸時代を通じて幕府と特別な関係を保つことが出来たのである。
ところで秀忠に嫁す以前、江は豊臣秀勝と婚姻を結んでおり、生まれた娘の子孫がはるか後に大正天皇の妻となった。浅井の(また織田の)血筋は、江を通じて今の天皇家にも繋がっているといえる。
竹生島の信仰史を語るとき、弁才天たる浅井姫命の功徳と共に、戦国の世を生きた浅井家の姫君たちの面影もまた人々の胸中に去来するのである。
江戸期は日本がかつてなく豊かになった時代で、長く平和が続くうちに武家文化は成熟し、庶民文化も花開いた。人々は寺社詣でを名目に諸国巡りを試みるようになり、各地の寺社は全国から参拝者を迎えて忙しかった。竹生島もまた然りである。観音霊場を巡り歩く西国三十三所巡礼は、もとは宗教者のためのものだったが、江戸中期には観光旅行者の娯楽ともなっていた。三十番所の竹生島観音堂への湖上航路は巡礼道中で最大の難所だったが、18世紀には年間数万人が訪れるようになった。但し女人禁制だったので、女性は湖畔の一番鳥居から島を望み、弁才天を拝したという。 cf. No.934
維新により幕府が大政を奉還して臣下に下ると、明治政府は神道史観の下に国体の確立を図る。神仏を分離して寺僧の還俗を促す一方、民間による神事を禁じた。cf.
No.690
天皇家が斎く皇統の神々のみを敬い(天皇を神として敬い)、天皇の統べる統一国家日本帝国に対して命も投げ出す忠誠心で滅私奉公に勤める国民・兵士を育てるべく、子弟教育に力を注いだ。歴史の流れはさすがに仏寺の完全排除にまで至らなかったが(有力な仏寺はもちろん皇室とも縁があった)、全国に廃仏毀釈の嵐が吹いた。この時、竹生島の宝厳寺は都久夫須麻神社と分かれて、祀る神仏を分離した。とはいえ事実上は一つの信仰、「竹生島信仰」を共に担って今日に続いているのである。
◆家守綺譚には、湖を守る浅井姫命と湖の底にある竜宮についていくつかの仄めかしがある。以前、ひま話
君よ知るや南の国
にダァリヤの言葉を引いた。
主人公の親友は萩の浜(琵琶湖西岸の中ほど)で漕いでいたが、ボートは竹生島の辺りで見つかった。後輩の編集者は主人公に語る。
−竹生島の辺りは湖でも極端に水深が深く、底は氷河期からの水だそうです。沈んだ死体は浮かび上がることはないが、沈んだときの若さで、いつまでも腐ることなく保存されているとか。
−湖に魅入られたのか、先輩が湖に魅かれていったのか。
−さあ。同じことが同時に起こったのかもしれん。浅井姫がどうとか云っていたから。
二人は、親友/先輩が生前の相貌のまま湖底に留まり、時間の流れの異なる世界で姫神に仕えていると察しているのだ。
こうした時間認識は、東洋の常世の国・龍宮信仰に通じる一方、西洋ではスウェーデンのファールン鉱山から見つかった鉱夫の遺体に人々が抱いた感懐・説話に通じていよう。
cf. ひま話 ファールンの大銅山 思いがけぬ再会
疏水縁りの住人にとって、湖に主の龍神が棲むのは当たり前のことで、「湖の周りには、龍にまつわるものはいっぱいあります。」という。ダァリアは、湖の底に龍の洞があり、常夏の国がある、と主人公に語りかける。湖では水難もまた日常であり、死者たちが憩う場所への想いが育つのだ。
物語が終りに近づいたある夜、主人公は眠りの中で水底の園に入り、西洋音楽の鳴る林の中をさまよって、円卓で食事をしている人々に出逢う。カイゼル髭の男性が言う。
−此処にいればいいではないですか。此処はまだほんの入り口ですが、奥に行かれますとそれは素晴らしい眺めです。虹の生まれる滝もあれば、雲の沸き立つ山脈(やまなみ)もある。金剛石で出来た宮殿もある。そこに住まいする涼やかな精霊たちもいる。心穏やかに、美しい風景だけを眺め、品格の高いものとだけ言葉を交わして暮らして行けます。
しかし主人公は、友人の家を守らねばならないと気づいて、断りを言う。ふと空を見上げる。
「すると空は月長石で出来た巨大なレンズのよう、まるでこれは水の面、此処は水底の国のようではないか…湖底か、と思う。」
目を覚ました主人公の枕辺で、親友が低い声で呟く。
−行ってみれば何ということはなかったろう。
こうして主人公はこの世での生活をまた続けていくのだった。
先日、アニメ映画「すずめの戸締まり」を観た。閉じ師を家業に持つ教員志望の大学生が、神の呪いを受けて、次第に要石に変化してゆく映像は、折から家守綺譚に沈潜していた私には、まるで湖の底に静かに沈んでゆき、凍りついて、神的時間を送るかの親友とほとんど二重写しになって見えた。開いた扉の向こうに見える常世は、あたかも湖底にある龍宮のように思われた。
映画のセリフをいくつか引く。
−この世界の裏側。みみずの棲家。すべての時間が同時にある場所。常世とは、死者の赴く場所なんだそうだ。
−常世は見る人によってその姿を変える。人の魂の数だけ常世は在り、同時にそれらは全てひとつのもの。
−現世に生きる俺たちには、そこには入れない場所、行ってはいけない場所なんだ。
−この場所で俺たちは生きているのだから
−草太はこれから何十年もかけ 神を宿したかなめ石になっていく。それは人の身には望み得ぬほどの誉れ。
これがまあ、諸行無常の現実世界を幾らかなりと経験して、命がかりそめだと知った日本人の、心の底にひっそりと抱かれている死生観であり、あの世のあり方についての共通認識なのだ、と思われる。
余談になるが、マンガ「ハチワンダイバー」は頭の中で思考の海に潜り、息の続く限りいくつもの道筋を辿って遠い未来を見通し、最善手を探る。マンガ「3月のライオン」の棋士たちも、底知れぬ未知の海に果敢に飛び込んで、見えない明日への道筋を拓く。彼らには、死と隣り合わせの世界に進んで入っていくことが、かえって生を獲得する営みとなるのである。「すずめの戸締まり」の鈴芽もまた果敢な少女だ。
映画「コーヒーが冷めないうちに」において、コーヒーを飲んで時間跳躍を試みる人は、瞬間、水をたたえた水槽に飛び込むかのような体験をする。海や湖水への沈潜は、密度の異なる空間への参入であり、時間超越のための秘密の儀式であるのかもしれない。それはおそらく鉱山の坑道を闇の中で地底深くまで下降してゆく精神的体験と相同であろう。cf.
鉱山世界のイメージ1
それにしても浅井姫命とは何者か。梨木香歩は、
−おまえにそれを語る言葉を、俺は持たない。人の世の言葉では語れない。
と書いた。梨木がああ言うのを、私がこうだと言うのは僭越に思われる。何者だか知りたいと思うが、実際、分からないのであるし。知ったところで、それはただ、私にとってそうだというだけのことになろう。見る人によって違うのだろうから。
琵琶湖周航の歌に ♪眠れ乙女子 安らけく、と歌われた乙女子は、詞を詠んだ青年の半分空想・半分実在のマ・ドンナであり、アニマでもあったろう。それは彼にとっての浅井姫命でもあったろうか。まーどんな姫であにましょうね。
(了)
補記1:「岩飛び」の修練をした島の天台僧たちは泳ぎの達人として知られたらしく、13C、鎌倉時代に編まれた説話集「古今著聞集」巻16には、湖面を歩く島の老僧のお話がある。70歳をこえていそうな老僧が、僧衣の裾を脛の高さまでたくしあげて、水面をすべるような足取りで、島を後にした舟を追って歩いてくるのである。あんた、なにもん?
補記2:いくらか高齢世代で井上靖を愛読した方は、琵琶湖・竹生島・ボート遭難と並べると、氏の「星と祭」(1971-1972
朝日新聞連載)を思い出されるのではないだろうか。17歳の娘を水難事故でなくした父親の、長いもがりの物語である)。彼の娘は大学生の男友達と二人、琵琶湖でボート遊びをしていて、竹生島付近で起こった突風に吹かれて行方不明となった。二人の遺体は上がらず、親たちは長い年月を悲しみに包まれて生き、湖岸に祀られた十一面観音を参拝して回ったりするうち、どうにか気持ちの整理をつけてゆく。
竹生島付近の湖底は湖でも一番深いところで、水深が
120mくらいあること、沈んだらなかなか浮かんでこないこと、湖では毎年
20〜40数名程度の死者が出ることが作品中に記されている。
事故が分かった後、警察も出張って広く捜索を続けるが、遺体は見つからない。
相手方の父親は、「ええ、もう、それに違いありません。二人は湖の中に居たいのでございます。湖の中があんまりきれいなので、そこから出ることを嫌がっているのでございます。」と憔悴しきった姿で主人公に話す。
しかしその後、警官が来て、「今日まであがらないところを見ますと、いつあがるか見当がつきません。これまでにも遺体のあがらなかった例はあります。竹生島付近は水温が低く、水深も百メートル以上もあります。底に沈んでしまいますと、なかなかあがりにくいようですね。先年のことですが、数年前の水死者の遺体が、白蝋死体となってあがったことがあります。全然肉体には変化なく…」と話すと、その父親は、「全然肉体に変化がなくてあがったのでございますか。そうでございますか。そうなりますと、もう一度息子に会えるということになります。私の方は年齢をとりますが、息子の方は年齢をとりません。今の年齢の若い息子に会えるなら、私は何年でも生きておりましょう。…」と言わずにおれないのだった。
それでも歳月を重ねて、物語の最後にはこう言うことが出来る。
「もう二人は、この湖の中にはおりません。神になりました。仏になりました。もしかしたら天に上がって、星になったかもしれません。」
補記3:多景島。竹島とも。周囲約600mの小島で、日蓮宗の見塔寺がある。その縁起に、「この島、水晶を生む、参詣の男女常にこれを拾い採れどもつきることなし」とある。
以下、先般ようやく訪れる機会を得た竹生島で撮った画像。
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