855.ミョウバン石 Alunite (ハンガリー産)

 

 

ミョウバン石

明礬石(塊状母岩中の空隙に生じた自形結晶)
 −ハンガリー、Zemplén Mts.、Baz Co, Telkibánya産

 

「明礬(ミョウバン)」は、繊維や皮革の染色に用いる色揚げ・色留め(媒染)剤、なめし剤として古くから知られた薬品である。消毒性、収斂性があるので止血・殺菌・消臭等の用途にも用いられた。
ヨーロッパで明礬を意味するアルム Alun, Alum, Alumen は古代ギリシャ・ローマに遡って収斂性を持つある種の薬品(硫酸塩)を呼んだ語で、主に緑礬(リョクバン)を指したとみられるが、「白いアルメン」と呼ばれたものは今日のミョウバンだったろうと言われている。クレタ島のミロ島やイタリアのリパリ島などに産した。ベックマンによると、当時のミョウバンの主な用途には医薬、墨染のほか、耐火性を与えるためにその溶液で木造家屋を洗浄することがあったという。(補記1)

今日のミョウバンに相当する薬品は、 11-12世紀頃には中東の特産品として衣料の色揚げに用いられていたことが分かっている。15世紀中頃までイタリア商人はロッカ産のミョウバンやコンスタンチノープルの媒染工場で染色した衣料品の交易で利益をほしいままにした。が、1453年にコンスタンチノープルがトルコの手に落ちると、供給先が近場に求められるようになった。
一つはナポリ湾口のアエナリア島(イスキア島)である。シリアのロッカでミョウバンの煮沸(精製)技術を習得したジェノヴァの商人バルトロメオ・ペルディクスが、かつて(163年前)の島の火山活動で噴出した岩を原料にミョウバンを作り出せることに気づいたという。

また一つはチヴィタベッキアにほど近いトルファの丘である。発見者のヨハン・ディ・カストロは、コンスタンチノープルに店を構えてイタリア製の生地の染色業を営んでいたが、都の陥落によって破産し、イタリアに戻って教皇の庇護下で働くことになった。そして各地の山や丘を方々歩き回って土を調べ、1460年、ついにトルファの丘でミョウバンの原料となる石を見出した。あたりに生える植物の相がトルコのミョウバン産地のそれによく似ていたので、土壌の白い石を数個拾って噛んでみたところ塩のような味があり、焼成してみると果たしてミョウバンが得られたのだった。
トルコから鉱山職人が招請され、豊富な鉱石の埋蔵がはっきりすると、教皇の肝煎りで 800人以上が携わる大規模なミョウバン製造が行わるようになった。「ローマのミョウバン」はトルコ産よりも上質で、教皇庁は莫大な利益を得た。そして市場を独占するために強行な宗教的脅迫をも辞さなかった。が、やがてヨーロッパ各地に鉱石が見い出されると、カソリックなどどこ吹く風、トルコから異教徒の職人が雇われて、スペイン、ドイツ、スウェーデン、イギリスなどでもミョウバンが製造されるようになった。

18世紀には染物、製紙、金細工、製本、水溶液の腐敗防止、解剖標本の保存等、さまざまな職人仕事に大量にミョウバンが用いられるようになっていた。1754年、A.S.マルクグラフ(1709-1782)はミョウバンの成分を調べるため純粋なアルカリで処理して、白い沈殿物を得た。彼はこれをミョウバン土(alaunerde)と名付けた。今のアルミナである。アルミナを洗浄乾燥させたあとに硫酸を加えてみたが、ミョウバンには戻らなかった。しかし適量のアルカリ土を加えると、美しい結晶が晶出したのだった。
マルクグラフはまたミョウバンを硝酸で処理して残滓をV焼すると、いわゆる「バルドウィンの発光体(硝酸カルシウム)が得られるはずと考えたが、あいにくそうはならず、ミョウバン土は石灰土とは別モノであることが分かった。またマグネシア土とも違った。ラボアジェはミョウバンをアルミンと呼称した(1787年)

19世紀に入るとベルセリウスやデービーがボルタの電池を使ってアルミナ(デービーはアルミウムと呼んだ)から金属質の単離を試みたがうまくいかなかった。1825年、H.C.エルステッドが試みてスズのような金属を得た。不純なアルミニウムだったと考えられている。ついでF.ヴェーラーが追試したが再現に失敗する。しかしエルステッドの励ましもあって手法を改良したところ、1827年、少量の金属が得られた。以降のアルミ精錬の発展は No.684 を参照方。

化学の世界では金属やアンモニウムなどの複硫酸塩を広義にミョウバンと呼び、一般に1価の金属の硫酸塩と3価の金属の硫酸塩の複合水和(水酸)物の形をとっている。前者にはナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、アンモニウムなどのイオンが入り、後者にはアルミニウム、ガリウム、インジウム、チタン、バナジウム、クロム、マンガン、鉄などのイオンが入る。
狭義には「カリウム明礬」(硫酸アルミニウムカリウム)をミョウバンと呼ぶ。ミョウバン石 KAl3(SO4)2(OH)6 を焼き、硫酸を加えて加熱溶解し、不溶物をろ過した後、冷却してミョウバンの結晶を析出させる。あるいは硫酸アルミニウムと硫酸カリウムの溶液を混合し、冷却してつくる。組成 KAl(SO4)2・12H2O。無色の八面体結晶をなし、200℃で無水物(焼きミョウバン)としたものが医薬用の収斂剤に用いられる。

ミョウバン石は一般に硫酸酸性溶液や火山の硫気作用で岩石が分解されるときに生じる。上述のイタリア産はこの類で、日本でも火山性の噴気ガスや温泉による「ミョウバン石化作用」で生じたミョウバン産地が多い。また硫酸酸性溶液で礬土質の岩石が分解されるときにも、ダイアスポア葉蝋石などを伴って生じる。天然物の自形は六角板状や菱面体が見られるが、たいていは微細な土状で産する。
学名のアルナイト Alunite は1824年にビューダンが与えた名で、それ以前にアルミニライト Aluminilite と呼ばれていたのを略したのである。類質同像の多くの鉱物が存在する。

補記1:緑礬はタンニンに加えて黒色の染料とした。その名 Melanterite の由来にもなっている。 (cf. No.205 緑礬)
(cf. No.858No.870  羽状ミョウバンと石綿との混同)

補記2:今日でもヨーロッパのホテルのアメニティに、「ロッカ」という名でミョウバンの結晶が置かれていることがある。ヒゲ剃りのあとで肌に塗ったり(収斂性があるので、切って血が出てもすぐに止まるとか)、腋下にあてて消臭に使ったりするものらしい(体臭の原因になる細菌の繁殖を抑える)。「ロッカ」はイタリア語では、石(英語:ロック)の意。シリアの産地ロッカもあるいは同じ語源で、ロッカとはミョウバン(石)のことか。

補記3:Alunite の原産地はイタリアのトルファ。なお少し古い鉱物本にはなかったのだが、現在のIMAリストには Alunite とは別に Alum(ミョウバン)が種として記載されている。Alum-(K) カリミョウバンと Alum-(Na) ソーダミョウバンと。

補記4:日本有数の温泉地帯である伊豆半島は変質を受けた安山岩(プロピライト)が分布し、金銀鉱脈があちこちにあるが、同じく変質を受けた珪石やミョウバンの鉱床も見られる。ナトリウム分に富むソーダミョウバン石の鉱床が多いという。
「鉱物採集の旅 九州南部編」(1977)に鹿児島県枕崎市の明ばん石が載っている。これは水溶性の明ばんとは別種の鉱物で、明ばんにシリカが加わって水に溶けなくなったものだ、と説明されている。

補記5:13世紀後半頃のミョウバンの地中海交易について、塩野七生は「海の都の物語」第六話にこんなエピソードを紹介している。ジェノヴァの土地所有貴族の出であったベネディット・ザッカリーア(1248-1307)は子供の頃オリエントに渡り、長じてニケーア帝国の厚遇を得た。ニケーア皇帝は彼と弟とに、小アジアのスミルナに近いフォチェアの地を与えた。そこにはヨーロッパの染色業の必需品だったミョウバンの鉱脈があった。
ただその品質は、ヨーロッパ人が重宝した黒海沿岸産のものと比べると一段劣った。ザッカリーアは皇帝に働きかけて、ヨーロッパ商人が黒海でミョウバンを買い付けることを禁止してもらう。しかし同胞のジェノヴァ商人の猛反対にあって撤回せざるをえなくなった。
ザッカリーアは自前の商船隊を建造して輸送コストを削減し、売価を下げることで市場の独占をはかった。が、効果は十分でない。そこでジェノヴァに工場を作り、ミョウバンを精製して品質を上げた。こうして黒海産を駆逐したという。
これに成功すると、今度は黒海市場の乗っ取りにかかった。ついにザッカリーア家はミョウバン市場を完全に支配することに成功したのだった。
ちなみにミョウバン交易で財をなした彼は、ライバルの海洋貿易都市ピサとの戦いではジェノヴァ海軍の提督をつとめ、1284年のメロリア沖海戦でピサの艦隊を撃破した。

コンスタンチノープル陥落(1453年)までの 300年間はイタリア諸都市による地中海交易の黄金時代だったが、オスマントルコの台頭で大打撃を受けたジェノヴァは回復不能なまでに勢力を落とした。一方、その後も繁栄を続けたのがヴェネチアだった。コンスタンチノープルとの交易に集中していたジェノヴァと違って、ヴェネチアはエジプトやシリア方面にも交易ルートを分散していたのである。また優れた外交によって翌 1454年には名目にせよトルコと友好通商条約を結ぶことが出来た。
とはいえトルコの領土拡張政策は変わらず、63年から交戦状態に入ることを余儀なくされた。それでも粘り強い和平交渉を続けて 79年の講和に漕ぎ着けた。この時ヴェネチアは、過去のトルコ領内で採掘されたミョウバンの専売料の未払い分として 15万デュカートの賠償金をトルコに支払うことになったが、相互不可侵の約定を取り付けて 16年間絶えていたギリシャ、コンスタンチノープルへの定期商航路を再開することが出来た。

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