1.翠銅鉱  Dioptase   (カザフスタン産)

 

 

私は昔のソビエト、中央アジアのカザフスタンからやって来た、ダイオプテーズです。

翠銅鉱 −カザフスタン、カラガンダ、アルティン・トーベ産

 

 

翠銅鉱の目に沁みる緑が好きなので、知らない間にいくつも標本が集まった。けれど、机の上において眺めるのは、決まってこの石。 写真ではわからないが、結晶の内部に小さなクラックがあるため、きらきらと光を反射してとても美しい。学名の Dioptase は、ギリシャ語の diopteia 「透けて見える」が語源で、結晶中の微小なへき開が透けて煌めくことによる。こうしたクラックは翠銅鉱の特徴なのだといえよう。
18世紀にカザフスタンから初めて発見された時は、エメラルドに間違えられたという。発見者たちは、「キズのないエメラルドはない」などと言いつつ、小躍りして採集したのではあるまいか。 (1999.3)

 

 

Dioptase 命名の経緯など

翠銅鉱がいつ発見されたかは、はっきりしない。(補記)
1780年頃にアッチール・マフメッドというカザフ商人(タシケント・ブハラの住民)がキルギスのアルティン・ススー(黄金湖、アルティン・トーベにほど近い)辺りの古代鉱山跡で採った銅鉱石(黄銅鉱)と翠色の石をブリガディア・ベンサム(1757-1831)という英人機械技師に売った。ロシアに仕えるベンサムの仕事の一つは中央アジアの地誌を記録することで、彼はマフメッドに産地への案内を頼んだ。二人はアルティン・トーベ丘の西側に達したが、コサックの騎乗兵に包囲されて退去を余儀なくされた(当時はロシア領でなかった)。1782年、ベンサムは自身が丘で採集した品を含めて標本をサンクト・ペテルブルクのエカテリーナ二世帝に献上した。マフメッドは緑ばんと考え、ベンサムはエメラルドと信じていたようだ。
その後ベンサムは再訪を期すが丘を見つけられず、マフメッドが死ぬとしばらく産地を知るものはいなくなった(1816年、ロシア人の鉱山技術者 I.P.シャーニンが再発見するまで)。
一方、ボグダノフなる人物(軍人)もまた標本をマフメッドから入手しており、ロシア科学アカデミーに送った。常任鉱物学者の J.J.フェルベル(1743-1790)はペルー(コロンビア)産のエメラルドに似たキルギス産の結晶を(オリエンタル)エメラルドと記録した(1785年)。
報告は 1788年にラテン語で出版されたが、この年、エカテリンブルクで務めていたオーストリア人鉱物学者 B.F.J.v.ヘルマン(1755-1815)はより詳しい記述を残している。これらが近代の最初の記録のようだ。
ヘルマンはこの「エメラルド」が銅を含むことから別の鉱物と考え、 Achirit (アッチール石、Aschrite)と命名したが、そのことは1802年まで世間に知られなかった(活字にならなかった)。(備考1) 

P.S.パラス(1741-1811)も記録を残した一人で、キルギス族の住む草原をキャラバンするブハラ商人が、時折、エメラルドにそっくりの、しかし結晶形が異なり硬さも劣る翠色の石をもたらす、と書いている(1793年)。それは銅鉱石のために緑色に染まった丘(崖)の、石灰岩のマール状の裂け目に産するが、品質でペルー産のエメラルドに敵わない、と。
この頃には西洋にも標本が届いたらしい。
パリの化学者デラメテリエ(1743-1817)は本鉱の標本を入手して 1793年に報告を書いた。六角柱形のエメラルドに対して結晶形が異なることに気づいたが、辻褄あわせの解釈をして(おそらくアウイが最初誤認したのに従って)、エメラルドの一種とみなした。しかしその後見解を改めて新種 Emeraudine とした。ルリーブルの分析によると銅成分を含んでいたのだ(1797年)。

鉱物学の先駆者、ルネ・ジュスト・アユイ(1743-1822)はこの石をパリの自然史博物館で見て、最初は標識通りエメラルドと考えたのだが、しかし結晶の内部にへき開によるらしい鮮やかなきらめきがあった。その美しさが彼を魅了すると同時に、へき開方向の違いからエメラルドでないことを示しているようにも思えた。アユイ(アウイ)は標本を調べ、新種ダイオプテーズと名づけて 1797年に発表した。ギリシャ語の「透かして(へき開が)見える」にちなんだ。この石は比重がエメラルドより重く、硬度は低く、へき開が異なった。また(デラメテリエが参照したと同様)ルリーブルの分析で銅が主成分と分かった。
アユイの命名は世に広まり、先行したヘルマンの記載をこえて学名となった。

その頃の翠銅鉱はロシアが唯一の産地で、西欧では非常に珍しい石だった。産地名をとって Kirghisite (キルギス石)とも呼ばれた。一方、エメラルドのような緑色と主成分の銅とによって(CuOが50.5% を占める)Smargo-Chalcite の名を与えたのはモース(1773-1839)である。
情報の一元化はまだ遠い夢で、いろんな人がいろんなふうに鉱物を誤認し、新しい名を与えたり、亜種名を考えついたりした。和名の翠銅鉱はモース流の命名である。

銅の珪酸水酸塩で、組成式は CuSiO2(OH)2または Cu6(Si6O18)・6H2O と書かれる。へき開が完全で脆い性質があり、へき開面以外でも不均等に割れる。硬度は5で、エメラルドより軟らかい。
銅の硫化物が風化して生じる。銅鉱床上部の二次富鉱帯に産出するが、普通このような場所ではクリソコラや孔雀石が出来る。翠銅鉱の産地が少ない所以だろう(クリソコラと共産することもある)。
キルギスのステップでは灰色〜白色の緻密な石灰岩中に方解石などと共に晶脈をなし、あるいは石英に伴って産する。1917年のロシア革命頃までは標本が流通してコレクターの人気アイテムだったが、その後西側では長く入手困難となっていた。全然なかったわけではなく、70年代に取得された標本があって、「キルギス・ステップ、シベリア産」と標識されていたという。おそらく年代ものだったのだろう。

ロシアでの発見からおよそ 100年遅れて、中央アフリカに翠銅鉱が発見された。まず、1893年にコンゴのミンドゥーリで。次いで付近のDjoueや Pimbi で。ミンドゥーリは、後にマーチン・エアマンが乗り込み、冒険活劇的な買い付けをする舞台となった。エアマンは土地の首長から、標本採集の代償として道路舗装用の大量のタールを求められた。彼は涼しい顔で承諾し、まだインフラがないに等しいかの地でタール缶輸送ミッションを展開した…。

仏領コンゴのルネビルReneville からも夥しい数の標本が出た(→No.400)。ポー博士は、翠銅鉱の商品価値に気づいたフランス当局(地質鉱物開発局)が、数トンに及ぶ鉱山副産物を回収して販売したと報告している(1965)。

この頃までに翠銅鉱はもはや珍しい鉱物でなくなっていた。また標本の品質も格段に上がっていた。しかし1970年代にナミビアのツメブから出た標本こそ、質・量ともに本鉱の真打ちである。
ツメブでは半世紀以上前から鉱山の上部酸化帯で翠銅鉱が採集されていたが、この時期、地下3,000フィートレベルの下部酸化帯に、ふるいつきたくなるような標本が見出されたのだ。地表からの水が断層を伝って浸透した地下深き晶洞では、方解石や苦灰石の雪白の結晶が折り敷き、その上で光きらめく翠銅鉱が緑に萌えていた(→No.301)。
誰もおおっぴらに口にしなかったが、そのほとんどは鉱夫たちのランチ・バスケットに隠されて地上に上り、粛々と売り捌かれた。一方、欧米の鉱物ショーには数百箱の標本が姿を現し、相当の資産が鉱山から流出していることを物語った。
こうして翠銅鉱はもっともポピュラーな鉱物の仲間入りを果たしたのだ。

その後、1990年代のはじめにソ連邦が崩壊すると、キルギス(カザフスタン)産の標本が潤沢に出回り始めた。一方ツメブ鉱山の地下坑道は水没し、新たな産出が期待できなくなった(1996年に閉山、その後、上部鉱体が標本用に採掘された)。しかし市場には依然大量のツメブ産標本がストックされているとみられ、翠銅鉱は今でも人気高く、かつ入手の容易な好標本として広く愛好家に迎えられている。
アルティン・トーベでは地元業者がシステマティックに標本の採掘を行っているといい、21世紀に入ってより大きな結晶(3cm大に至る)が供給され、数量も安定している。2024年の池袋ショーでも多数の展示が見られた。(2025.1.2 増補)

補記:アルティン・トーベとは「黄金の丘」の意で、カラガンダの東約48kmに石灰岩の丘をなす。周辺は広漠としたカザフの草原で、19世紀中頃までキルギス・ステップと呼ばれていた(キルギスは古いロシア語にカザフの意)。最寄の舗装道から 18km離れており、夏季なら約半時間のオフロード走行で辿り着くが、冬場は雪を掻いて 18時間かかるという。朝出て、日が変わるやん。

この産地の翠銅鉱は BC7,200年に遡る石器時代に知られていた可能性があるという。ヨルダンのアイン・ガザルから出土した陶製人物像は目を黒い顔料で彩色してあるが、その主成分が本鉱で、周辺に他に産地がないことからの推測である。遅くとも BC2,000-1,450年期の青銅器時代にはこの丘で採掘した痕跡と銅を精錬した形跡があるという。

プリニウス「博物誌」にはスマラグドス(エメラルド)の項にバクトリア種があり、「エテシア風(※晩夏にエーゲ海上を吹く北風)が吹いているときにそこの住民たちが岩の割目から採集するのだという」と言及があり、これはアルティン・トーベ産の翠銅鉱のことだと考える向きがある。とすれば、実際古くからこの石はエメラルドの一種とみなされていたわけだ。

 

(備考1) メシキコの鉱物学教授A.M.デル・リオ(1764-1849) はヨーロッパ各地で鉱業と地層幾何学を学んだ後、1789年からフライベルク鉱山学校に入りウェルナーの下で岩石生成論を学んだ。そして 1793年には設立されたばかりのメキシコ鉱山学校でウェルナーの理論を教えるよう王命をうけた。彼は「シマパン産の褐色の鉛」から新金属ヴァナジウムを発見したことで知られるが、「シベリアで発見され、J.T.ローヴィッツ氏が分析した銅鉱石と同じ成分、シリカ、水、酸化銅を含む透蛋白石銅鉱( hydrophanous copper)」-R.J.アユイ氏の Dioptase 」を発見したのは自分だと書き残している。 

Cf. No.301, No.400 翠銅鉱

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