1.翠銅鉱  Dioptase   (カザフスタン産)

 

 

私は昔のソビエト、中央アジアのカザフスタンからやって来た、ダイオプテーズです。

翠銅鉱 −カザフスタン、アルティン・ツーベ産

 

 

翠銅鉱の目に沁みる緑が好きなので、知らない間にいくつも標本が集まった。けれど、机の上において眺めるのは、決まってこの石。 写真ではわからないが、結晶の内部に小さなクラックがあるため、きらきらと光を反射してとても美しい。学名のDioptase は、ギリシャ語の diopteia 「透けて見える」が語源で、結晶中の微小なへき開が透けて煌めくことによる。こうしたクラックは翠銅鉱の特徴なのだといえよう。
18世紀にカザフスタンから初めて発見された時は、エメラルドに間違えられたという。発見者たちは、「キズのないエメラルドはない」などと言いつつ、小躍りして採集したのではあるまいか。 (1999.3)

 

 

Dioptase 命名の経緯など

翠銅鉱がいつ発見されたかは、はっきりしない。
1785年にアッチール・マフメッドという人がロシア産の石をボグダノフなる人物に提供した。それが回りまわって B.F.J.ヘルマンの注意を引き、西ヨーロッパでこの鉱物が知られる契機となった、というのが最初の記録のようだ。(備考1)
標本を研究したヘルマンは、1788年にこれを Achirit (アッチール石、Aschrite)と命名したが、そのことは1802年まで世間に知られなかった(活字にならなかった)。
マフメッドはエメラルドだと信じていたようである。彼は「キルギス・ステップ(草原)のアルティン・ツーベ丘の西方」で石を採集した。ラメテリエの1793年の報告では、その場所(後に翠銅鉱の原産地と目される)からエメラルドが出るということになっている。

1797年、鉱物学の先駆者、ルネ・ジュスト・アユイ(1743-1822)は、パリの自然史博物館で、エメラルド・グリーンのロシア産の石に釘付けになった。
結晶の内部にへき開を暗示する鮮やかなきらめきがあり、その美しさが彼を魅了すると同時に、エメラルドではないことを主張しているように思えた。アユイ(アウイ)は標本を調べ、新種ダイオプテーズと名づけて専門誌に発表した。ギリシャ語の「透かして(へき開が)見える」にちなんだ。
アユイの命名は世に広まり、先行したヘルマンの記載をこえて学名となった。

その頃の翠銅鉱はロシアが唯一の産地で、西欧では非常に珍しい石だった。産地名をとって Kirghisite (キルギス石)とも呼ばれた。一方、エメラルドのような緑色と主成分の銅とによって(CuOが50.5% を占める)Smargo-Chalcite の名を与えたのはモース(1773-1839)である。
情報の一元化はまだ遠い夢で、いろんな人がいろんなふうに鉱物を誤認し、新しい名を与えたり、亜種名を考えついたりした。和名の翠銅鉱はモース流の命名である。

銅の珪酸水酸塩で、組成式は CuSiO2(OH)2または Cu6(Si6O18)・6H2O と書かれる。へき開が完全で脆い性質があり、へき開面以外でも不均等に割れる。硬度は5で、エメラルドより軟らかい。
銅の硫化物が風化して生じる。銅鉱床上部の二次富鉱帯に産出するが、普通このような場所ではクリソコラや孔雀石が出来る。翠銅鉱の産地が少ない所以だろう(クリソコラと共産することもある)。
キルギスのステップでは灰色〜白色の緻密な石灰岩中に方解石などと共に晶脈をなし、あるいは石英に伴って産する。

ロシアでの発見からおよそ100年遅れて、中央アフリカに翠銅鉱が発見された。まず、1893年にコンゴのミンドゥーリで。次いで付近のDjoueや Pimbi で。ミンドゥーリは、後にマーチン・エアマンが乗り込み、冒険活劇的な買い付けをする舞台となった。エアマンは土地の首長から、標本採集の代償として道路舗装用の大量のタールを求められた。彼は涼しい顔で承諾し、まだインフラがないに等しいかの地でタール缶輸送ミッションを展開した…。

仏領コンゴのルネビルReneville からも夥しい数の標本が出た(→No.400)。ポー博士は、翠銅鉱の商品価値に気づいたフランス当局(地質鉱物開発局)が、数トンに及ぶ鉱山副産物を回収して販売したと報告している(1965)。

この頃までに翠銅鉱はもはや珍しい鉱物でなくなっていた。また標本の品質も格段に上がっていた。しかし1970年代にナミビアのツメブから出た標本こそ、質・量ともに本鉱の真打ちである。
ツメブでは半世紀以上前から鉱山の上部酸化帯で翠銅鉱が採集されていたが、この時期、地下3000フィートレベルの下部酸化帯に、ふるいつきたくなるような標本が見出されたのだ。地表からの水が断層を伝って浸透した地下深き晶洞では、方解石や苦灰石の雪白の結晶が折り敷き、その上で光きらめく翠銅鉱が緑に萌えていた(→No.301)。
誰もおおっぴらに口にしなかったが、そのほとんどは鉱夫たちのランチ・バスケットに隠されて地上に上り、粛々と売り捌かれた。一方、欧米の鉱物ショーには数百箱の標本が姿を現し、相当の資産が鉱山から流出していることを物語った。
こうして翠銅鉱はもっともポピュラーな鉱物の仲間入りを果たしたのだ。

その後、1990年代のはじめにソ連邦が崩壊すると、キルギス(カザフスタン)産の標本が潤沢に出回り始めた。一方ツメブ鉱山の地下坑道は水没し、新たな産出が期待できなくなった(1996年に閉山、その後、上部鉱体が標本用に採掘された)。しかし市場には依然大量のツメブ産標本がストックされているとみられ、翠銅鉱は今でも人気高く、かつ入手の容易な好標本として広く愛好家に迎えられている。

(備考1) メシキコの鉱物学教授A.M.デル・リオ(1764-1849) はヨーロッパ各地で鉱業と地層幾何学を学んだ後、1789年からフライベルク鉱山学校に入りウェルナーの下で岩石生成論を学んだ。そして 1793年には設立されたばかりのメキシコ鉱山学校でウェルナーの理論を教えるよう王命をうけた。彼は「シマパン産の褐色の鉛」から新金属ヴァナジウムを発見したことで知られるが、「シベリアで発見され、J.T.ローヴィッツ氏が分析した銅鉱石と同じ成分、シリカ、水、酸化銅を含む透蛋白石銅鉱( hydrophanous copper)」-R.J.アユイ氏の Dioptase 」を発見したのは自分だと書き残している。 

Cf. No.301, No.400 翠銅鉱

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