794.レグランド石 Legrandite (メキシコ産)

 

 

legrandite

Legrandite

レグランダイト -メキシコ、デュランゴ、マピミ産

 

レグランダイト(レグランド石)と英語読みにされるけれども、メキシコ、ヌエバ・レオンのフロル・ド・ペニャ鉱山で監督技師をしていたベルギー人ルグラン氏に因んで命名された鉱物である。1920年代にズリから採集された1ケの標本を彼がイギリスの鉱物学者に送り、これをもって新種ルグラン石が発表された(1932年)。しかし後続の標本がほとんど出回らなかったため、コレクターの人気を集めることはなかった。ズリから 4cmに達する結晶が採れるそうなのだが、市場や博物館で目にした方があるだろうか。地下坑道を探って In situ 標本を採ろうという計画がある、と噂されていたのが 2003年頃だったが、それからどうなったか…

オハエラでは 1952年に標本商のジョージ・グリフィスが入手した黄色い結晶標本が、レグランド石と鑑定された。採集地点は当時の水位レベル付近という。晶洞は水浸していたが、グリフィスは水位が下がった(降雨の少ない)季節に顔を覗かせた結晶をさらい、約200ケの標本を得た。そしていずれもっと水が引いたらその下に潜っている結晶も引き揚げることが出来るだろうと考えたという。実際、彼は 61-62年にこの箇所を再訪し、数多の良品を回収した。多くは両頭の結晶で長さ6cmに達した。これらはかなりリーズナブルな価格で市場に流れた。オハエラ産の標本を分析して化学式が多少なり修正され、晶族(単斜晶系)が決定されたのが 1963年であった。こうしてレグランド石の栄光の時代が始まった。
ちなみに61年にオハエラを訪れたある標本商氏は、鉱夫の店のショーウィンドウに黄色柱状の標本を見た。「レグランド石でさぁ、買っていきなせえ」と勧められたが、ひとめ汚れた異極鉱だと判断したので、よく確かめもせずに去ってしまった、と回顧している。

1960年代から70年代半ばにかけて、パロムス・オリエンテやサン・カルロス脈で折々レグランド石の晶洞が発見された。68年に採集された多数の標本は翌年のツーソンショーの目玉となった。75年頃には球顆状の標本が市場を賑わせた。そして1977年11月、サン・ホアン・ポニエンテのレベル5とレベル6の間(プラン・デ・アラヤ)に、かつてない素晴らしい逸品が出た。そこは鉱夫組合の一員で、「でか鼻」とあだ名された男が徴しを見つけて追っていた脈だった。縦に伸びる黄色い脈を終日追い続けた彼は、疲れ果ててその日の作業を切り上げ、シフトを交代した。代わりにフェリックス・エスキベルという男が入り、ハンマーを3振りしたとき、晶洞が口を開いたのだ。30x45cmほどの径の空間は腕を伸ばせば奥に手が届くほどの大きさだった。それから6時間の間、彼と相棒は開口部を拡大させるために慎重に働き、奥の壁に張り付いていたレグランド石を回収し、25ケの超級標本を得た。その最大かつ最良の逸品が世に知られた「アステカの太陽」である。
これらは $3,900ドルでそっくりまとめて標本商に売られた。そしてジョン・バーロウに一括 $50,000-でオファーされたが、成約に至らなかった。それからハーバード大にオファーが回ったが、「アステカの太陽」は(愛着が湧いたため)手放されず、これに次ぐ逸品2点がコレクションに入った。「アステカの棍棒」と呼ばれる長さ28cm の箒状の標本は AMNHに嫁入り、今も展示されている。「アステカの太陽」は結局、メキシコ産標本の最大のコレクターとして知られたミゲル・ロメロ氏の手に渡った。
そしてメキシコ、テワカンの彼の事務所の階下にある私設博物館に 20年近く収蔵されていたが、1997年にアリゾナ大学の博物館に移された。それから売却されてレバノンの資産家愛好家の手に渡った。今はこの方の博物館で展示されている。

レグランド石は亜鉛の水和砒酸水酸塩で、組成式、Zn2(AsO4)(OH)・H2O。酸化帯に生じる二次鉱物のひとつだが、希産種である。産地は世界にいくつかあるが、大型の結晶はきわめて稀といってよい。しかしオハエラでは上述の通り巨大な結晶を多産した。たいていは柱状結晶が扇状やリボン状に集合した標本で、ときに単結晶や両頭結晶も出た。明るい黄色〜黄橙色の光沢を持つが、透明な宝石質のものはあまり多くない。
1997年、閉山直前のツメブ鉱山の最下層から上質の標本が発見されるまで、本鉱といえばオハエラ産をおいて他になかった。楽しい図鑑2(1997)は「すでに Ojuela鉱山では産出が絶え」たと述べているが、だいたい数年の間隔で次の標本群が市場に出てくる経験則は今も生きているようである。ただ77年産のような大型結晶のボナンザは未だ再来していない。

 

補記:ミゲル・ロメロ・サンチェス氏(1925-1997)とそのコレクションについて
ロメロ博士の経歴はMR誌16-2や 2008年の別冊(ロメロ氏のメキシコ産標本コレクション記念号)に詳しい。
氏はメキシコ、オアハカの農家の10番目の子だった。父は彼が1歳の時に亡くなり、それからは母がトウモロコシとサトウキビの農場を切り盛りしていたという貧しい育ちだが、幸い高い教育を受けることが叶って有機化学を専攻し、博士号をとった。非常に優秀な頭脳を持った方だったという。教職や研究所でのリサーチを経験した後、一族が新しく始めた家禽ビジネスに参加し腕を奮った。最新の加工施設を建て、配合飼料を工夫し、鶏卵など農産品の効率的な生産・品質管理技術の研究を進めた。20年後にはロメロ家は世界有数の規模を誇る食肉関連の複合企業グループを采配していた。MR誌16-2(1985)によると、博士がエサを工夫した養鶏場では、一日4億個の卵を生産した。これは当時のメキシコシティーで消費される卵のおよそ 80%に相当したという。

ロメロ博士は大学に籍を置いた 50年代、恩師の鉱物学者の薫陶で鉱物への関心に目覚めた。そして 60年代の終わり頃、仕事でブラジルに出張した時を契機に精力的に蒐集を始めるようになった。街角のショーウィンドウに並ぶ素晴らしいトルマリンやベリルの標本を見て買わずにいられなかったのだという。やがて仕事机のまわりは標本であふれ、保管のための専用ハウスが必要になった。ツーションショーには毎年訪れた。当時のメキシコでは鉱物蒐集は決して一般的な趣味でなかったが、彼はひたむきに情熱を傾けて博物館級の標本を集め、「メキシコ鉱物学の父」と讃えられるA.M.デル・リオ博士(1764-1849, cf.No.1 備考1以来と目されるメキシコ産標本の一大コレクションを築くに至った。鉱物趣味を広めるために、事務所の下に博物館を建てて常勤スタッフを置き、無料で一般公開するようにもなった。彼はメキシコの古今の鉱物産地に通暁した。標本の数は最終的に8,000点近くに達し、うち 6,500点がメキシコ産だった。
ちなみにこのコレクションの中から4つの新種が発見された。オハエラ石 Ojuelaite とマピミ石 Mapimite は氏が発見したものという。(いずれも亜鉛と鉄の砒酸水酸塩で、前者はその4水和物、後者は10水和物。1981年記載。)

晩年、博士は自分が死んだ後のコレクションの行く末を想うようになった。メキシコの公的施設での一括保管を希望していたらしいが、展示向きの特級標本(いわゆるコノアシュアー標本)は結局アリゾナ州の大学博物館で一般公開される運びとなった。そうすればツーソンショーにやってくる標本商や愛好家たちに気軽に見てもらえる、ということだったらしい。
所有権はしかし遺族に残され、遺族は 2008年に資産価値の高い標本を売却することに決めた。標本店アーケンストーンのラビンスキー氏が仲介に入り、アリゾナ産標本の逸品はそっくりアリゾナ産を専門にするある愛好家の手に渡った。メキシコ産標本は分散したが、中核をなす一群は将来博物館の公開を計画していた海外の資産家に渡った。アリゾナ大学にはメキシコ産の系統コレクションが残されることになった。博士の母校であるメキシコのUNAM にも系統コレクションが寄贈された。そして元の私設博物館には約1,200点が留められて公開されている。

「アステカの太陽」は上述の海外資産家が買い取った。数年後、レバノンのベイルートに Mim鉱物博物館(2013年10月オープン)が開かれ、今はそこで展示されている。
先頃、相互リンクして下さっている 「20xx年鉱物の旅」さんが、一番行きたい博物館として Min 博物館を挙げておられたが、ここはたぶん、今もっともホットな(という言い方は実にミーハーだと思うが)鉱物博物館と考えていいのだろう。世界三大美食の一つはレバノン料理という説があるし、私も行ってみたい気がなくもない。

cf. No.485 バーガー電気石 (ロメロ博士が産地の再発見に貢献した)

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