924.ひすい輝石  Jadeite (グアテマラ産)

 

 

Jadeite var moss in snow

ジェーダイト var. モス・イン・スノー(雪中の苔) (切断研磨面)
−グアテマラ産

 

C20 の続き。
メソアメリカ文明の時代区分は AD250年頃からAD900年頃までを古典期と呼ぶ。その後、ヨーロッパ人が到来してアステカ帝国を滅ぼす頃まで(16世紀第一四半世紀)を後古典期とする。この以前をまとめて先コロンブス期という。以降は白人(ヨーロッパ人)文明の影響が及んでゆく。

古典期はいわゆる古代マヤ文明が繁栄した時期で、オルメカ文明が衰微した後を受けて、中央アメリカの各地、特にメキシコシティー周辺やユカタン半島、その西側沿岸部にさまざまな都市国家が存亡を繰り返したらしい。
彼らは大規模かつ壮麗な石造りの(祭祀用神殿と目される)建造物を建てた。メキシコシティの東のテオティワカン(先古典期末期−古典前期)、チアパス地方のパレンケ(古典後期)、ユカタン半島のチチェン・イッツァ(古典後期−後古典期)やウシュマル(古典後期−後古典期)、グアテマラ中北部のティカル(古典期)、ホンジュラス北部のコパン(古典期)などの遺跡が有名だが、これらの多くは 10世紀頃までに放棄されて、やがて密林の中に埋没していった。
16-17世紀のスペイン人征服者は、遭遇した住民が偶像崇拝の神殿を持っていることに目くじら立て、キリスト教の神に代わって怒りの鉄槌をふるったが、一方で住民が彼ら自身の住居よりよほど立派な遺跡に囲まれて暮らしていることの不思議さを書き留めている。聖職者らはまた、改宗のためと称してマヤの宗教を熱心に学んだ。

先駆的な報告は別として、密林に隠された遺跡は長く西洋社会の関心を惹かなかったが、1746年にデ・ソリス神父が発見したパレンケの「石の家」「宮殿」は保存状態もアクセスもよかったので、博物学の時代にふさわしく冒険家たちのロマンチックな視線を集めた。
1786年には A.デル・リオの探検隊が周辺の森林を伐採し、頭像や神聖文字を刻んだ石灰岩板、神殿内にあった石製武器や土器などを根こそぎ浚ってスペインに持ち帰った。彼の報告書は 1822年に版画付きで出版されたが、絶世の美を誇るこの建造物は古代ギリシャ・ローマの古典文明の影響下に作られたに違いないと説いている。古代マヤ文明期が古典期と呼ばれる由縁だが、今日この説は信じられていない。

1841年に出版された J.L.スティーブンズの「中央アメリカ、チアパス、ユタカンの旅の事物記」はコパン、キリグワ、トニナ、パレンケ、ウシュマルなどの遺跡を訪ねた探検記で、 F.キャザウッドのエキゾチックなスケッチ画のおかげもあって人気を博し、世人に広くマヤ遺跡の存在を知らしめた。二人は 43年に 2冊目を出し、44の遺跡を考古学的な視点から解説した。

20世紀半ば、それまで平和的な人々とみなされていたマヤ人観が覆された。1946年、チアパスのボナンパクの神殿内で発見された彩色壁画は、記憶される限り初めて発見されたマヤ絵画で、凶暴で戦闘的な人々が描かれていたのである。参考画像をこちらに上げる。⇒リンク
1949年、パレンケで行われた発掘調査は神殿の地下に続く階段を開いた。52年、その下層に埋葬空間が発見され、ジェード製のモザイク仮面を被った(パカル王の)遺骸が露わにされた。このジェードは日本ではヒスイと訳されて事実ジェーダイト(ひすい輝石)であるらしいが、透明性の乏しい緑色系トルコ石にそっくりでもある (cf. チャルチウィトルの話)。目の部分は貝殻と黒曜石とが象嵌されている。参考画像をこちらに上げる。⇒リンク  アステカのトルコ石(シウイトル)製の神面に通じるところがある(cf.アステカの宝石)。
遺骸はまた古代中国の諸侯のように口にジェードを含み、さまざまなジェード装身具を帯びていた。マヤのピラミッド神殿が、エジプトのピラミッドと同様に権力者の墓でもあると分かった初めだった。
以降、各地のマヤ遺跡調査はこうした埋葬品の発掘が一つの大きな動機となってゆく。もっとも考古学者は元来、インディアナ・ジョーンズさながらトレジャー・ハンターを兼務しており、ただ彼らは私利でなく公利のためにそうするはずなのであった。(ちなみに鉱物学者もトレジャー・ハンターだったりする。)
今日では、マヤ文明の権力者の埋葬には必ずといってよいほどジェード製の装身具が伴われたと考えられているが、玉材は必ずしもジェーダイトに限らないようである。

マヤ文明で愛好された(威信財とされた?)ジェードは緑〜緑青色系が多く、オルメカ文明の担い手とは幾分好みが異なるようだ。チチェン・イッツァの供犠の泉(井戸)の底から発見された細工物には鮮緑色のジェーダイトが含まれる。
鮮緑色ジェーダイトの供給源はやはりグアテマラのモタグア谷だったと考えられるが、今日採集される量は僅かであるらしい。事実上ほとんど出ないといってよいが、それを裏返して、「チャルチウイトル」(宝石)として貴重視されたことの根拠になると主張する向きがある。おかしな理屈である。
ちなみに中国で愛好されるインペリアル(最高品質の翠色透明の翡翠)に似たリンゴ緑色のグアテマラ産ジェーダイトは希少品とされ、「インペリアル・マヤ」と称して本家ミャンマー産以上の高値で取引きされるそうだ(どこの国の人が買うのだろう)。

画像は「モス・イン・スノー」(雪中の苔)タイプの翡翠。私の知る限り、昔はグアテマラ産に見なかった品で、最近になって発見されたのではないかと推測している。これも 1998年のハリケーン・ミッチの襲来が契機となったものか。幾分透明感があって、光に透かすと美しい。苔にあたる翠色の部分はクラックに沿って脈状に散らばる(表面に見える白色のヒビは、着色の後〜採掘時に生じたものか)。

 

補記:ボナンパク遺跡の彩色壁画に用いられたやや暗めの空色顔料は、「マヤ・ブルー」と呼ばれている。インジゴ(藍から採る染料)を白色の粘土鉱物(パリゴルスキー石など)と混ぜて、75〜150℃程度で長時間加熱すると出来るという。元が有機物なのに風化に強く、色保ちがよい。マヤ・ブルーで着彩した土器はトルコ石を塗ったような外観を呈する。エジプト人がラピスラズリやトルコ石を模した着色粘土を焼いたように、マヤ人たちもチャルチウィトルやシウイトルの模造に励んだものか。

補記2:ジェード製仮面が発見されたパレンケ遺跡の「碑銘の神殿」は AD692年に建設された。仮面をつけて埋葬されたパカル王は 7C後半から8C頃にかけての権力者で、生前に納骨堂が用意されていたとみられる。古典期マヤ文明に属する。

チチェン・イッツァの主要遺跡はより時代が下り 12C以降のものとみられる。AD900年頃メキシコ、イダルゴ周辺に勢力を張ったトルテカ族のトゥーラ帝国(テオティワカン文化を継いだ)は、 1160年頃に起こった謀反で都が破壊されたが、時のククルカン王はユカタン半島に落ちのびて現地のマヤ族を征服し、チチェン・イッツァに新たな都をおいた。そのためこの都市帝国はメキシコのトルテカ様式とマヤのプーク様式(古典後期〜後古典期)の混合文化を持った。供犠の泉は都の広場からのびた通路のはずれにあり、石灰岩が侵食されて生じた陥没穴(ドリーネ地形)の底が泉となったもので、径66m、高さ20m の崖に囲まれている。泉から人骨、ジェード細工、金細工品などが発見されている。緑色の宝石を貴重視したのはトゥーラ文化に由来するものか、地元のマヤ文化に由来するものか興味深い。メキシコではトルコ石を用いていたのが、ユカタン半島では近場で採れるジェーダイトで代用した、といったことも考えられる。

グアテマラではカリブ海に面するプエルト・バリオス(※上の地図のキリグア付近)で、1834年に有名なジェード板が発掘されている。運河工事中にオランダ人技師が発見したもので、1864年にオランダのライデン博物館の所蔵に帰し、ライデン・プラケ(プレート)と通称される。 21.7x8.6cmの緑色のジェーダイト板に人物の事績を彫ってあり、刻まれたマヤ暦年は AD320年に相当する。ティカルで製作されたと説かれる。(ティカルの遺跡には AD292年に相当するマヤ暦年を刻んだ石碑が出ている。この時期をマヤ文化期-古典期の始めとする由縁。)