C18.真珠・白珠 Pearl |
5世紀前半の「後漢書」には「出白珠青玉 其山有丹」と同工の記述があり、7世紀前半の「梁書」にも「出黒雉真珠青玉」とやはり同工の記述がある。単なる引き写しかもしれないが、日本の白珠(真珠)や青玉(青珠)は交易の定番品、あるいは一箇の伝説となっていたのかもしれない。
万葉集の歌からすると、奈良時代の日本では筑紫や近江(琵琶湖)に水に漬かった白玉(淡水真珠)のあることが知られていた。奈呉の海(富山湾)では海人が潜って白玉を集めていた。伊勢、紀伊、淡路、珠洲ではアワビ貝の真珠を採ったようだ。
もっとも知名だったのは「具足玉国」(そないだまのくに)と呼ばれた長崎の彼杵郡で、大村湾に木蓮子玉(いたびたま:黒色の真珠)、白珠、美しき玉の三色の真珠を出した。古代の日本は実際真珠の特産地だったようである。
ちなみに青玉あるいは壱与が貢いだ青大句珠は、一般に暗緑〜青碧色のメノウ(碧玉/出雲産が有名)あるいは翠色のヒスイ(越産)の勾玉と解釈されているが、これもアワビ貝から偶々採れた異形の大粒真珠であったかもしれない。cf. 翡翠の名、 No.930補記2
中国では周代以来、宮廷の官位によって身に佩びる儀礼器の材質や数量、スタイルを厳密に定めていた。隋書によると、北魏(AD5~6C)の服制では皇帝は冠(冕冠:
べんかん)に白珠十二旒を垂らし、皇太子は白珠九旒を垂らした。諸公卿は青珠を位階に応じて九旒(上公)、八旒(三公)、六旒(諸卿)と数を変えて垂らした。
この服制は隋初まで踏襲され、その後、皇太子の垂珠が白珠から青珠に改められたが(地位を諸公卿に近づけた)、唐代にはまた白珠に戻された。
彼らの位冠を飾った青珠が日本産の青玉であったら日本人には鼻の高いことだが、それはまあ望み過ぎであろう。
当時の中国は、玉器ではホータン産の白玉(羊脂白玉)が最上のもので、青白玉、青玉はその下にランクされた。
cf. 軟玉の話1 追記2
補記;13世紀末、マルコポーロは日本(ジパング)について伝聞を語り、多量の真珠が産すること、美しい薔薇色をした円い大粒の真珠で、その価格は白色の真珠に勝るとも劣らないとした。cf.
No.490
なお、中国の本草書に青琅玕を石珠・青珠と呼んでいるが、「碾って珠(まるたま)にも作れるから珠の字の名称を付ける」と釈名にある。すれば青大句珠は天然のままの丸玉・句珠かもしれないが、丸く磨いた玉類であるかもしれない(珠の字を以て海・川の産物とするにあたらない)。
補記2:雲根志 三編巻二の「真珠」に大村湾産が出ていて、大勢の人が真珠採取を生計にしていることや、その風変りな採集法を紹介している。大村湾の真珠は明るい紺色(瑠璃色)で、大きさは厘でなく分単位で計るといい、かなり大粒の青珠であったことが分かる。「真珠青玉」、「青大句珠」とはこれのことか。