C18.真珠・白珠  Pearl 

 

 

pearl 真珠

淡水真珠の綴り

 

 

3世紀に陳寿が著した歴史書「三国志」の「魏志」末巻「烏丸鮮卑東夷伝」に、約二千字を費やして「倭人」に関する記述がある。日本では「魏志倭人伝」と呼ばれている。
漢代に倭人の朝見者が訪れて以来、中国と日本の間に国交のあったことが窺われる。日本の産物として「出真珠青玉 其山有丹」などと出ている。
景初2年(AD238年)、邪馬台国の卑弥呼は魏国(AD220-265)に使者を遣わして生口(奴隷)十人と斑布二匹二丈をささやかな貢納品とした。魏帝は返礼に親魏倭王の金印紫綬を贈り、白絹五十匹・金八両・銅鏡百枚等と共に真珠・チ丹各五十斤(約11kg)を下賜した。まさに大盤振る舞いであるが、真珠は当時の中国が誇る財貨の一つだったことが分かる。
その後、卑弥呼を継いだ壱与は、生口三十人のほか「白珠五千孔 青大句珠二枚 異丈雑錦二十匹」を貢いだ。この白珠が真珠であれば、邪馬台国は大きな対価を期待して奮発したものと思われるが、返礼品の内容は残念ながら記されていない。

5世紀前半の「後漢書」には「出白珠青玉 其山有丹」と同工の記述があり、7世紀前半の「梁書」にも「出黒雉真珠青玉」とやはり同工の記述がある。単なる引き写しかもしれないが、日本の白珠(真珠)や青玉(青珠)は交易の定番品、あるいは一箇の伝説となっていたのかもしれない。

万葉集の歌からすると、奈良時代の日本では筑紫や近江(琵琶湖)に水に漬かった白玉(淡水真珠)のあることが知られていた。奈呉の海(富山湾)では海人が潜って白玉を集めていた。伊勢、紀伊、淡路、珠洲ではアワビ貝の真珠を採ったようだ。
もっとも知名だったのは「具足玉国」(そないだまのくに)と呼ばれた長崎の彼杵郡で、大村湾に木蓮子玉(いたびたま:黒色の真珠)、白珠、美しき玉の三色の真珠を出した。古代の日本は実際真珠の特産地だったようである。

ちなみに青玉あるいは壱与が貢いだ青大句珠は、一般に暗緑〜青碧色のメノウ(碧玉/出雲産が有名)あるいは翠色のヒスイ(越産)の勾玉と解釈されているが、これもアワビ貝から偶々採れた異形の大粒真珠であったかもしれない。cf. 翡翠の名No.930補記2

中国では周代以来、宮廷の官位によって身に佩びる儀礼器の材質や数量、スタイルを厳密に定めていた。隋書によると、北魏(AD5~6C)の服制では皇帝は冠(冕冠: べんかん)に白珠十二旒を垂らし、皇太子は白珠九旒を垂らした。諸公卿は青珠を位階に応じて九旒(上公)、八旒(三公)、六旒(諸卿)と数を変えて垂らした。
この服制は隋初まで踏襲され、その後、皇太子の垂珠が白珠から青珠に改められたが(地位を諸公卿に近づけた)、唐代にはまた白珠に戻された。
彼らの位冠を飾った青珠が日本産の青玉であったら日本人には鼻の高いことだが、それはまあ望み過ぎであろう。
当時の中国は、玉器ではホータン産の白玉(羊脂白玉)が最上のもので、青白玉、青玉はその下にランクされた。

cf. 軟玉の話1 追記2

補記;13世紀末、マルコポーロは日本(ジパング)について伝聞を語り、多量の真珠が産すること、美しい薔薇色をした円い大粒の真珠で、その価格は白色の真珠に勝るとも劣らないとした。cf. No.490
なお、中国の本草書に青琅玕を石珠・青珠と呼んでいるが、「碾って珠(まるたま)にも作れるから珠の字の名称を付ける」と釈名にある。すれば青大句珠は天然のままの丸玉・句珠かもしれないが、丸く磨いた玉類であるかもしれない(珠の字を以て海・川の産物とするにあたらない)。

補記2:雲根志 三編巻二の「真珠」に大村湾産が出ていて、大勢の人が真珠採取を生計にしていることや、その風変りな採集法を紹介している。大村湾の真珠は明るい紺色(瑠璃色)で、大きさは厘でなく分単位で計るといい、かなり大粒の青珠であったことが分かる。「真珠青玉」、「青大句珠」とはこれのことか。

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