994.水晶(大理石中) Quartz in Carrara Marble (イタリア産)

 

 

 

カラーラ大理石中の水晶

カラーラ大理石中の水晶

大理石の空洞に生じた水晶
自由空間面の多くは、方解石の緩い
結晶連晶で覆われている
−イタリア、トスカナ地方カラーラ、ラ・ファッチャータ産

 

 

古代地中海世界において、純白無垢の石がことのほか愛好されたことは疑いない。その一つは石膏(硫酸カルシウム)で、また一つは大理石(炭酸カルシウム)であった。cf. No.882
大理石は大塊が無尽に手に入った。適度に堅く適度に軟らかいため加工に適した。円柱や床石など建築材として、寝台など調度材として、また彫像など美術品の素材として広く用いられた。古代ローマ人がさまざまな種類の大理石を世界各地から大量に輸入していたことは、プリニウスの記述によって知れる。彼はこれを「無節制な使用」と書いた。

彼らの大理石は、太古の海(テーチス海)に沈殿した石灰成分が凝結して石灰岩となり、造山運動によって隆起して陸土となり、この時に受けた変成作用のため粗粒化して再結晶した変成岩石である。変成作用はまた大理石に特徴的な斑紋や流紋(マーブル模様)を与えた。しかし古代ローマ人が第一等に愛したのは紋のない無垢の石だった。初期の芸術家はみな、キュクラデス諸島(パロス島)産の白大理石のみを用いたという。プリニウスの時代にはパロス大理石よりもっと白い石が知られた。芸術家たちは紋のある大理石に少しも価値を認めず、キュクラデス諸島産を別にすると、これに匹敵するタソス産、そしてやや灰色がかったレスボス島産を重用した。おそらく石中の模様は彼らの作品の完全性を損なう要素になると考えたのだろう。

とはいえ紋の調子や色味の異なるさまざまな種類の(産地の)大理石が装飾的な建築材として利用されたことも事実で、斑紋が波状にうねって螺旋を想わせるアウグストゥス大理石、灰色の斑紋が分散する貴重なティベリウス大理石などが知られた。だから大理石の模様自体に独特の美しさが具わることを感じてもいたのである。
エジプトには斑紋を持つ赤い石があり、その一種で白点の散らばったものはレプトプセポスと呼ばれた。エジプト人はまた色も硬さも鉄に似たエチオピア産のバサニテスを使ったが、その名は後の玄武岩(バサルト)に伝わった。(cf. ひま話 玄武洞 補記
テーベやシリアのダマスクス付近で採れる白い大理石はオニュクス石、別名アラバストリテス(アラバスター)と呼ばれた。この石で作った軟膏壺は軟膏を保存する最上の方法と考えられたからだ。(No.882)

さて、ローマ帝国の本願の地であるイタリア半島には今日各地に大理石の産地がある。市場に出回るイタリア大理石はその種類 30種以上といわれる。淡い象牙色の地に茶色い唐草様の斑紋を持つシチリア州クストナーチ産の「ペルラート・ディ・シチリア」(リベッチオ・ディ・クストナーチ)、やや濃い象牙色の地に茶色の筋や斑紋の浮かぶブッリャ州トラーニ産の「ピエトラ・ディ・トラーニ」、濃淡さまざまな赤茶色の斑紋が散るヴェネト州レッシーニ山地に産する「ロッソ・ディ・ヴェローナ」、黒色の地に黄金色の脈が走るリグリア州ポルトベーネレ産「ポルトーロ」(マールモ・ディ・ポルトヴェーネレ)等々。なかでもっとも有名なのが、雪白の地に灰色の脈が走るトスカーナ州マッサ=カラーラ県産のカラーラ大理石(マールモ・ディ・カッラーラ)である。

トスカーナ州は石灰分を豊富に含む土壌が分布する土地で、未舗装の道路は「ラ・ストラーダ・ビアンカ(白い道)」と通称される。車で走ると白く細かい砂埃が巻き上がり、半日もすると車体が真っ白になる。洗ってもすぐまた白くなるから、たいてい放っておく。駐車してある車はみな真っ白だという。イタリアというと赤いスポーツカーのイメージだが、トスカーナでは白い彗星になってしまう。やむをえんな。
「そしてそのような独特の土壌が、良質なサンジョヴェーゼ種の葡萄と、オリーブの実を美しく実らせるのだ。」と村上春樹は書いている(「白い道と赤いワイン」)。
カラーラ大理石の中で最高等級にランク付けされるのは、斑紋を帯びない雪白無垢の石である。「ビアンコ・カラーラ(カラーラ白)」と呼ばれて、彫刻などの素材に使用される。その嗜好は古代ローマの昔から変わらない。

トスカーナ州はイタリア大理石産業の歴史的中心地ともいえ、カッラーラ市からアプアン・アルプスの山懐まで、採石場が 165ケ所あるという(2020年/ 稼働中は 90ケ所ほど)。うち 73ケ所が市内にあるが、山地には険しい山裾を階段状に削り取った大規模な切り場が開ける。たいてい露天掘りだが、坑道掘りを(も)行う採石場が 12ケ所ある。
トスカーナの大理石産業は古代ローマ時代(BC 1世紀頃)に始まるといわれ、当時は奴隷が、また AD1世紀から迫害を受けたキリスト教徒らが労働に従事した。山中で切り出した石はそのまま谷間に転がり落として運んだ。危険な作業であり、また石を損ねる作業でもあった。やがてリッツアと呼ばれる橇板に乗せて少しずつ滑らせて谷間に降ろす方法(リッツァトーラ)が考案された。リッツァトーラは伝統的熟練作業で 1960年代頃まで見られたという。
大理石採掘は中世期のペスト流行期に衰退したが、ルネッサンス期に再興して、フィレンツェなどで繁栄した石細工産業に重用された。かのミケランジェロ(1475-1564)も自らカッラーラで彫刻用の石材を選んだといわれる。

近代 19世紀にかけて、カッラーラの大理石産業は一層発展して採石場数が急増し、地元男性の多くが採石業に就いた。20世紀には鉄道輸送路、港町の整備が進んで海外への輸出が増えた。戦後 50年代には約15,000人が採石場で働いたという。70年代になると人工ダイヤモンドを利用したダイヤモンド・ワイヤやチェーンブレードが導入され、切断作業の効率が著しく高まった。
なお、トスカーナ州ではカラーラ白大理石のほか、シエナ県でとれる黄色の大理石「ジャッロ・シエーナ」(シエナ・イエロー)、赤色の「ロッソ・アンモニチコ」(しばしばアンモナイト化石を含む)も有名。プリニウスの書いた螺旋を持つアウグストゥス大理石とは、この種の巻貝化石を含むものかもしれない。

鉱物愛好家の間では、カッラーラの採石場は空隙に出現する水晶や、さまざまな希産種マイクロ鉱物の産地としても知られる。水晶はたいてい短い柱面を持ち、 r面/z面の菱面体面がともに発達して、しばしば両頭を持つ。マイクロサイズであることが多いが、数センチサイズに達することもあり、ハーキマーダイヤ(水晶)のヨーロッパ版として対比される。時にさまざまな形態変化が見られ、形態分類 84種を数えた報告がある。ドフィーネ双晶やブラジル双晶を持つ結晶もある。19世紀半ば、デクロワゾーはカラーラ産の標本に明瞭なドフィーネ双晶形態を観察して報告した。
結晶面は鏡のように滑らか。きわめて透明度が高く、ダイヤモンドのようなファイヤこそ示さないが、清澄な白い輝きがいっそ見事である。もっとも母岩が白い大理石(また方解石)なので、うまく写真に撮るのは難しい。
ハーキマー水晶と比べると市場に流通する機会は乏しい。10年ほど前、わりとよく出回った時期があり、画像の標本はこの時に得たもの。
大理石の空隙に微小な方解石結晶が散らばっている。水晶と比べるとやや透明度が低く、光沢が柔らかい。幾分溶けた感じの(稜が丸みを帯びた)結晶が連なって伸び、氷柱のように林立する。鍾乳石状と言ってもいいが、透明な結晶面がぼこぼこ連なって積み上がり、ファーデン水晶に似る。そうして2センチ大ほどの水晶が鎮座する。肩に微斜面(s面、x面)が出ており、形態上の左手水晶である。cf.No.940

純白無垢の石へのヨーロッパ人の志向を想うと、水晶もまた水のように無色透明で、結晶の輪郭がくっきり整ったものが、彼らの理想に適うのではないかと思われる。

鉱物たちの庭 ホームへ