2000.10.21 ひま話より 玄武洞とシルバー生野
この間久々に丹後半島方面に出張ったので、ついでに、少し足を伸ばして、玄武洞まで行ってきた。たぶん、7年ぶりくらいだろう。ここは玄武岩の柱状節理で有名な場所だが、鉱物愛好家にとっては、もうひとつ、玄武洞ミュージアムという鉱物標本館があることでも、ありがたいスポットである。無料駐車場に隣接する土産物店の二階部分がそっくり展示室になっていて、1,000点以上の標本が陳列してある。土地柄、玄武岩に随伴して産出する各種の鉱物(有名なところでは、やはりペリドットが筆頭かな)は特に詳しく扱っているが、花崗岩ペグマタイトのガマもあるし、温泉の豊富な日本らしく沸石類も沢山ある(標本はインド産のが多いけど)。とはいえ、一番目を引くのが、やっぱり海外産の美品となるのは、いたしかたのないところ。日本中に鉱山があった時代をとうに過ぎて作られた博物館の宿命といえよう。その中で目玉を挙げるなら、コロラド州に産出したアマゾナイトの巨大な標本。これは、目の覚めるような爽やかな水色の美結晶が群れているもの。世界一の美晶としてアメリカで話題をさらったという。また、同じくコロラド州アロマの菱マンガン鉱。1992年に発見された巨大な晶洞から出たもののひとつで、同年9月のデンバーショーの写真にそっくりなものがあるから、多分、それだろう。針のように白く透明な水晶がびっしり生えた間に、清冽な赤色の菱マンガン鉱の結晶が沢山ついている。ちょっと事情を知っている人だったら、一体、この標本を手にいれるのに幾らお金を使ったんだろうと思わずにいられない、それは、逸品である。その鮮やかな色彩が目に焼きついたまま、ミュージアムを後にした。
帰路は、遠回りして、シルバー生野にある鉱物博物館に寄った。これも、多分5年ぶりくらい。途中、朝来、夏梅、中瀬、神子畑といった地名を横目に南下。そういえば、このあたりも、随分ご無沙汰している。なんだか覚えているような、いないような道をうねうね辿って、シルバー生野へ。
ここの標本室は、有名な和田維四郎博士のコレクションに三菱鉱山のコレクションを加えた標本を主体に展示していて、今では入手困難な、「古きよき時代の」国産標本が沢山そろっている。4,000点を超える収蔵品から、約2,000点を展示。有名どころでは、愛媛県市ノ川の輝安鉱の標本が抜群である。明治13年から14年にかけて、市ノ川では長さ1mに及ぶ例外的に長大な結晶が多産し、海外の博物館は争ってこれを求めたというが、残念ながら日本には、ほとんど残っていない。シルバー生野には、数十センチ程度の大きさながら、往時を偲ばせる好品がいくつも収蔵されている。歳月の洗礼を受けて、いぶし銀に変色しているが、依然、威風堂々として素晴らしい。青森の尾太、秋田の荒川、阿仁などに産した立派な鉱物の結晶も揃っている。秋田産のリッチな青鉛鉱や黄銅鉱のおにぎり形結晶、さらに滋賀県田上山のトパーズなんかは、私にはもう涙ものの素晴らしさだ。豊栄鉱山の淡いピンク色の蛍石も泣かせる。
生野鉱山は、単一の鉱山としては珍しく多様な鉱物を産出したところで、80種以上の鉱物が知られている。自然蒼鉛、生野鉱、桜井鉱...。生野ならではの優品の数々。ご近所さんの、中瀬の自然金や明延のデュルレ鉱もいい。昔の日本は、ほんとうに素晴らしい鉱物標本の供給地であったのだなあと、今更ながら感慨を新たにした。
石よりほかに愉しみなし、と喝破した一代の奇人、木内石亭が集めた標本の精華もここで静かな余生を送っている。石亭の蒐集物の大半はすっかり四散して辿るべくもないが、特にお気に入り品として秘蔵していた約
20点だけは、ようやく散逸を免れて、ここに保管されている。玄武洞ミュージアムが、現代の華麗な海外標本を誇るなら、生野の鉱物館には、レトロで存在感のある国産標本がある。自分で鉱物採集をしたことのある人なら、きっとその素晴らしさがわかるだろう。
誰もいない標本室のなかで、過去の時間の中に浸って遊んだ楽しいひとときだった。
補記:
◆玄武岩 Basalt
は火山岩の代表的なもので、地底のマントル物質が部分的に溶融した流動性の高温マグマが、海底や地表に噴出して比較的急速に固化した岩石である。このマグマは無水珪酸成分が約半分程度と少なく、酸化鉄分、石灰分、苦土分がそれぞれ数〜十数%程度含まれる。言い換えれば、比較的珪酸分に乏しく塩基性成分に富む。固化して苦鉄質の岩石となって暗い色を持つ。主として斜長石や輝石で構成され、時にかんらん石や角閃石を含む(黒雲母を含むことは少ない)。日本ではあまり例がないが、珪酸分に乏しい準長石の類、霞石や白榴石を含むことも多い。
玄武岩質マグマから苦鉄質岩石(玄武岩)が生じると、残った(より低温の)マグマは次第に苦鉄分に乏しい、珪酸分の多い酸性質に遷移してゆき、これに応じて生成する岩石質も変化してゆくとみられる。
たいてい非常に細粒質で、ガラス質になることもある。しかしある程度の大きさの結晶が見られることもあり、斑晶のよく分かるものがある。時に溶融しなかった地底のマントル片を捕獲していることもある。
固化する前の玄武岩質マグマは水分に富んで、固化の際に水蒸気が抜けて空隙の発達することが珍しくない。そうした空隙の内側を後に沸石類が覆っているのがみられる。
海洋底の地殻はほぼ海底火山から噴出して広がった玄武岩で出来ていると考えられる。地球に限らず惑星の表面を作る主要岩石とみられ、月面の「月の海」は玄武岩で出来ているし、火星や金星の火山もそうだろうと言われている。
玄武岩の英名(国際名) Basalt
はプリニウスの博物誌にバサルテス basaltesの名で出るものが古いが、これはエチオピアに産するマーブル(大理石)の一種で、鉄のような色と固さがあって石像などに作られる。今の玄武岩と同じ岩石かどうか不明だが、一般に玄武岩はマーブル模様を示さないもので、閃長岩
Syenite を指したとの推測がある。Syenite
はシエネの石の意で、シエネは今のアスワンにあった古代エジプトの町の名。かつてこの付近で切り出された(さまざまな)岩石が建材として大量に用いられた。
ヨルダン東部のバシャン Bashan
に産し、古くから石材に用いられた「バシャンの石」に由来するともいう。cf.
No.614
玄武岩は岩石(さまざまな鉱物の混合物)であるが美しい柱状節理が発達することがあり、長い六角柱が互いに接して林立した偉観を呈する(冷却時の収縮による裂け目)。博物学時代にはアイルランド北岸の「巨人の門道 Giant's Causeway」の景観がよく知られた。フンボルトの「コルディエラス景観集」(1814)には玄武岩の柱列が切り立つ南米の峡崖のスケッチが載っている。
日本では兵庫県豊岡市の奇勝が有名で、江戸中期に寛政三博士と並び称された柴野栗山は、六角模様の並びを亀の甲羅に見立てて、中国の神獣・玄武(亀と蛇のキマイラ)に擬えて玄武洞と讃した(1807年)。自然に出来た洞窟でなく、石材として採掘されて(切り出しが容易だった)、だんだんと洞状に窪んだものだが、そのために一段と奇観を増した。
明治になって西洋鉱物学が入ってくると、玄武洞の岩石が
Basalt
にあたるというので、和名を玄武岩とした。小藤博士の案。玄武の玄は黒色を意味するから、節理のないものは「玄武のように黒い岩石」の意と解して善しである。
玄武洞の周辺地図とミュージアムの目玉標本、菱マンガン鉱とアマゾナイトの画像を紹介する(いずれもミュージアムのパンフレットより)。ちなみに私は「世界一」というのはこれらの標本を指して言っているのだとずっと思っていたが、よく考えてみると、多分、これらの産地(コロラド州)から世界一の品質のものが出た、という意味なのだろう。 cf. No.700
◆シルバー生野は「史跡生野銀山」のこと。
銀山の始まりは 807年(大同2年)に銀が出た時と伝えられるが、その後の成り行きは不詳。1542年(天文11年)に山名祐豊が銀鉱脈を発見し、石見銀山の採掘・精錬技術を導入して本格的に掘り出したという。
1578年(織田期)に銀山奉行所が設置されて、豊臣・徳川政権に継承されて採掘が続いたが、江戸中期以降は銅や錫の採鉱が増えた。享保元年に銀山奉行を廃して生野代官を置いた。維新を機に明治政府直轄となり、フランス人技師J.F.コファニエの下で機械化が始まった。1896年に三菱に払い下げられ、1913年に錫精錬所、1915年に浮遊選鉱所を開いて生産を拡大し、以降、長く銅鉱、鉛・亜鉛鉱などを掘った。1970年に山はねが起こり、1973年に閉山した。坑道の総延長
350km、深さ1,000mに達した。
同年、三菱マテリアルと生野町(朝来市)が出資したシルバー生野が設立され、跡地の観光施設化を始めた。1975年に開館した生野博物館に三菱コレクションの標本が展示されていた。
2011年に「生野銀山文化ミュージアム」としてリニューアル。しかし三菱コレクションは引きあげられて、現在は代わりに地元の方々のコレクションが
800点弱展示されているそうだ。
見る機会がないというのも芸がないので、往時の絵葉書をいくつか、次のページに紹介する。
⇒ 三菱コレクションより
(2021.6.18)