993.水晶 Quartz (フランス産)

 

 

 

Quartz from La Gardette

水晶 右端の柱状結晶は柱面の長さ約50mm, 幅 5x6mm
比率にして 10:1 〜 8:1 程度で、水晶の通常の
プロポーション( 3:1程度)よりかなり細長い
−フランス、イゼール県ブール・ドワザン、ラ・ガルデット鉱山産

Quartz from La Gardette

柱状結晶に挟まれて、扁平で曲線的な柱面の
稜を持つ両頭水晶が懸っている。
この両頭水晶は二つの結晶が
共軸的に連晶した形に見える。

扁平な両頭結晶の結晶面(表側)
広い柱面に現れた条線は乱れ気味
柱面と錐面との間の稜線と
これに平行な柱面上の条線は
二つの結晶の間でやや傾きがある
下側の頭部が割れて、
2つの奇妙な面が出ている。

扁平な両頭結晶の条線 乱れ気味

Quartz from La Gardette

柱状結晶の根元側から見上げたアングル
扁平な両頭水晶は根元側から伸びた
柱状結晶に刺さった形になっている。

扁平な両頭結晶の結晶面(裏側)
柱状結晶の刺さったあたりを境に
左右に二分した形の面が現れている
a,b,c は錐面、d,eは柱面

扁平結晶の一方の頭部
見慣れない結晶面(緩傾斜の面)が
2つ出ている

通常の錐面(r, z面)と「緩傾斜の面」との角度の比較
「緩傾斜面1」は右側の r面の延長平面に
生じたより傾きの寝た面
「緩傾斜面2」はこれと 180度対面に位置し
z面が現れるべき平面に出た、より傾きの寝た面
また左側には z面の間の段差として小さい c面が出ている

 

 

スイス・オーストリア・北部イタリア・南東部フランスなど、ヨーロッパアルプスの谷間地方は古来、水晶産地として知られた。古代ローマ時代すでに危険な採集作業の行われたことが、プリニウスの「博物誌」から窺われる(cf.No.22 追記)。近世以降、水晶採りは数世紀に亘る伝統的な職業のひとつで、ドイツ語圏の商市では彼らをスターラー(谷の人)と呼んだ。cf. No.935

フランスではローヌ・アルプ地域圏、シャモニーを含むオー・サヴォワ県のモンブラン山塊やイゼール県ブール・ドワザン(ドーフィネ地方)あたりが本場で、クリスタル・ドゥ・ロシュ(ロック・クリスタル)すなわち水晶採りの人々はクリスタリアと呼ばれた。シャモニーから国境を越えれば景勝の地アオスタ谷である。
1635年、ランチンという人の書いた古文書に、オー・フォシニーやアオスタ谷の氷河で素晴らしい水晶が産して、地元の人々が採集してミラノに運んでくること、そこでは世界のどこよりも見事な加工がなされること、が記されている。また 1674年、アンリ・ジュストルという人は、「カプチン修道会の神父が水晶商人と山脈の高みを辿った。ある岩場をハンマーで叩いたところ、虚ろな音がした。掘ってみるとタルクのような柔らかい土で埋まった晶洞が現れた。これは水晶がある兆候だったので、火薬で穴を広げて中を探ると水晶が見つかった」という報文をロンドン王立協会に送っている。

この頃、アルプス山中に水晶を探す人々があり、採れた水晶を買い付ける流通業者が往来し、町には加工に長けた職人のあったことが分かる。聖職者が取引きに絡むことはしばしばあったようで、1678年、グルノーブル(ドーフィネ地方の首府だった)の司教がクラヴァンの司祭を訪問した時、教区の山地で採れる水晶の商取引に関する司祭のふるまいを非難した記録があるし、 17-18世紀にかけて、水晶の闇取引や鉱脈の利権を巡って地元の教会や地権者が公事を争った記録が散見されるそうだ。彼らは地元で採れる物産に対する本来的な権利を主張して引かなかった。(補記1)
1681年、土地の税務官は、ヴァランスあたり(ドーフィネ山地)で密採取された水晶がジュネーブに流れていると訴えた。ともあれ 17世紀後半、水晶には商業的需要があり、それなりの実入りになったらしい。ベルサイユ宮殿の水晶製シャンデリアが製作されたのはこの頃である。

さて。
グルノーブルから南東に約 30km、ドーフィネ山地の懐に麓の町ブール・ドワザンがある。アルピニストやスキーヤーの活動拠点となる美しい町で、小奇麗なホテルや美味しい料理店が並んでいるそうだ。歴史的なラ・ガルデット鉱山は、ここから南に約 2キロ(トンネルを通って車で行くと約 5キロ)、標高にして 360mほど上がったところにあった。この地域には角閃石類の岩体をアルプス式熱水脈が走り、昔から美しい水晶が見られた。ラ・ガルデット鉱山の周辺も、18世紀初には装飾品にカットする水晶を求めてクリスタリアたちが徘徊していたが、1717年に土地の農夫が(あるいはクリスタリアが) 187gの黄色い石を地表に見つけたことから、俄かに騒がしくなった。石はグルノーブルで分析されて金を含むことが分かり、金鉱熱が生じたのだ。が、20-30年代にかけてほぼ収穫はなかったらしい。

1765年、ローラン・ガーダンという農夫が自然金を含む露頭を発見した。ちょうどその頃、ブール・ドワザンの北のアルモン付近にも金鉱が見つかってシャランス鉱山が開かれたばかりだった。標本はシャランスの技師に届けられたが、さして気に留められなかったらしい。しかし後継の技師 J.G.シュライバーは、ラ・ガルデットもまた金山として採算に乗りそうだと考えて上申した。鉱山主のプロバンス伯 P.E.モワットはラ・ガルデットの経営権を取得して 1781年に操業を始めた。しかし 7年間の採掘は利潤を生まず、休山やむなしとなった。
その後皇帝として台頭したナポレオンがフランス各地の廃坑再開発を計画した時、ラ・ガルデットは候補の一つとなった。が、実現に至らなかった。ラ・ガルデットの採掘権は転売が繰り返された後、1837年に再び金山として立った。やはり見るべき収穫のないまま時は過ぎ、1901年に最後の操業を終えた。それまでに採れた金の累計は 20kgほどと見積もられている。
ちなみにシャランス鉱山も産金は期待したほどでなかったが、銀が豊富に出た。1767年、迷った家畜を探し歩いていた若い田舎娘の拾った鉱石が銀を含むことが分かり、一帯が鉱区に加えられて、25年の間に併せて 10トンの産銀を得たのだ。しかし 19世紀初になると急速に産量が落ち、1813年に閉山を迎えた。シャランス鉱山はさまざな種類の鉱物が出たことで知られ、アンチモン鉱石であるバレンチン鉱アルモンタイト(スティブアルセン)との原産地となった(命名はいずれも 1845年ハイジンガーによる)。

ヨーロッパでは 18世紀後半から博物学が流行して、美しい鉱物標本は並べる端から高額で飛ぶように売れた時期があった。見映えのする水晶標本は観賞品として強い需要があり、クリスタリアや土地の権利者の懐を潤した。その市場はヨーロッパ全土からロシアへ、またアメリカ大陸へと広がった。
19世紀初、デュランス川畔のブリアンコン貴石工房がラ・ガルデッド産の透明な水晶をカットして、「ブリアンコン・ダイヤ」(Briancon diamonds)の名で売り出した。しかし安価なブラジル産の水晶が出回り始めて、すぐにポシャった。宝飾材の分野ではコストが割高のアルプス産水晶に勝ち目はなかったのだ。cf. No.984(ブラジル産紫水晶)
一方で、この頃採集された標本から初めてかの傾軸式双晶が発見され、 1829年 C.S.ワイスによって報告されたのである。cf. No.938

傾軸式双晶は二つの単結晶が直角に近いV字形に接合した形の双晶で、19世紀中頃まではかなり珍しいものだったことが、水晶に関するデクロワゾーのモノグラムから分かる。
その後、ラ・ガルデット鉱山は 1880年に再開発され、この時、水晶で縁取りされた一連の晶洞が見つかった。最大の洞は優に 100平米を超える広さがあり、美麗標本が大量に採れた。かの傾軸式双晶も再び産出し、最大のものは長さ 20cmに達したという。これらはヨーロッパ各地の博物館の宝物となっている。
1901年の最後の操業以来、鉱山は二度の大戦を挟んで休山状態になっていたが、1960年頃から地元のクリスタリアらが廃坑に入り込んで、標本市場に向けて水晶を掘るようになった。半ば忘れられていたラ・ガルデットは新しい標本の流通によって再び注目され、コレクターが訪れるようになった。1969年に坑口が閉ざされ、坑内への立ち入りは禁止されたのだが、ほぼ無視して採集が続いた(いかにも自由の国フランスらしい)。結局、2005年に 2つを除いてすべての坑口が爆破され、埋められた。残る 2つもコンクリートの壁でほぼ塞がれ、ただコウモリが出入りできる小さな隙間だけが残った。

現在は鉱山近辺に新たな晶洞が探られ、採集が行われているらしい。2014年、旧坑の上の丘の斜面で地表付近に約 80cm幅の晶洞が発見され、数百個の水晶標本が採集された。概ね長さ 3cmほどの針水晶で、翌年のサン・マリ・オ・ミンのショーでお披露目されたが、傾軸式双晶は 3ケだけだったという。
ラ・ガルデットの水晶はたいてい鉄錆に染まって産するが、クリーニングすると深い森の奥に湧く泉の水のように澄んだ透明な細長い結晶がきらきらと光る。古典的産地の銘柄標本として今日も高い人気がある。
ブール・ドワザンの町には鉱物博物館があり、地元産の美しい水晶が沢山飾られているそうだ。

画像はラ・ガルデット産の標本。柱面の長い結晶が連なっている。錐面は r面が大きく z面は小さく、三方晶的性格が強い。一つの錐面だけが大きく発達した頭部を持つものもあり、この種の晶癖を今日ではドフィーネ晶癖と呼んでいる。
柱状結晶に挟まれて、見慣れない形状の扁平な両頭結晶が育っている。よく見ると二つの扁平結晶が柱軸をほぼ揃えて並んだ形になっているのだが、さらによくよく見るとこれらはわずかに平行関係からずれている(錐面と柱面との間の稜線や条線が平行でない)。
一方の頭部に画像中「緩傾斜の面」と標識した2種の奇妙な面が見られる。私としては何面にあたるのだろう?と不思議に思っているところ。錐面よりも傾きの険しい大傾斜面は、ふつう、錐面と柱面との間に現れる。が、この2面は錐面の代わりに現れた小傾斜面らしい。Dana 7thの 112面の指数表を参照すると、錐面の半分の傾きのπ面(1 0 1 2)、3分の1の傾きの ω面(1 0 1 3) (※ z面側では 'π(0112)、'ω(0113))が考えられるが、その通りかどうか私は分からない。感覚的に「緩傾斜の面1」は (3 0 3 5)、「緩傾斜の面2」は (0 1 1 4)相当と思われるのだが。
また z面の途中に階段面の現れた部分があり、柱軸に垂直な面: c面(0 0 0 1)に相当すると思しい。c面は他種の結晶では錘面の会合する頭頂部に普通に現れることがあるが、水晶ではレアな面である。
ラ・ガルデット産の水晶はレア面が出ることでも有名。


補記1:そういえば、ゲーテが旅行中に氷長石の標本を抱え込んだのも、ゴッタルト街道沿いの神父の館でのことだった。cf. No.431

補記2:傾軸式双晶は、C.S.ワイスが報告した後、ワイス式双晶、ラ・ガルデット式双晶などと呼ばれた。デ・クロワゾー(1855年)は、ドーフィネ式双晶と呼んだ。cf. No.986
その後、日本の乙女鉱山産のものが欧州に入ってくると、ドイツの M.ゴールドシュミットが日本式双晶と呼ぶことを提唱した。フランスがお気に召さなかったのだろうか。日本の鉱物学者はこれに乗じて日本式双晶の名を広めた。しかし本家フランスは、ラ・ガルデット式双晶の名を守っているそうだ。
ドーフィネ式双晶は、今日では共軸式双晶のメジャー・タイプの一つである電気双晶 (Electric twins)を指す鉱物学用語となっている。このタイプの双晶はスイス式、アルプス式などと呼ばれたこともあった。

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