ひすいの話6 −20世紀以降の商名と商流情報メモ


◆ミャンマーの北部地方に産する緑色の玉(緬甸玉:めんでんぎょく、ビルマ玉)は古くから雲南の山岳地方に住む人々の間で知られて、器物や装身具に作って愛好されてきた。
中国人は古来、優れた玉質の石に霊的な作用を見出してきたが、緬甸玉に対しても同じ効能を投影したようである。人々は緬甸玉で作った腕輪や佩玉を常時身につけ、また玉碗や玉杯を以て水や酒を飲んだ。玉のもつ生命力(緑萌える若さ)を享けるためであり、また邪を避け幸運を授かるためである。 cf. No.221 (白族とひすい)、ひすいの話4(徐霞客、李老孺人墓の腕輪)、ひすいの話5(華人の信仰)

18世紀になると清朝の宮廷に雲南(滇)地方の産品として、緬甸玉の細工や原材が貢納された。宮廷の管理記録に「雲玉」(雲南玉)、「滇玉 T'ien yu」の名が現れるのは 1733年が初めとみられる。これらは当初、緑色のものより白色の玉、つまりホータン(和田)白玉に似たものが喜ばれた。cf. C10 ひすい狛犬
しかし乾隆帝の代になると、草緑色の玉が評価された。 1771年の乾隆帝生誕日の祝いに献上された品に「翡翠瓶」があることから、当時の紫禁城ではすでに「翡翠」の雅称が用いられていたことが窺える。おそらくは宋代の書、帰田録に述べられた宮廷宝器の碧玉 pi yu、翡翠 fei tsuiにあやかったものだろう。
この石が雲南でなくミャンマーに産することも知られた。18世紀末にはミャンマー北部の産地と雲南西部の騰越(モメイン)、雲南府(昆明)、沿海地方の広東(広州)を結ぶ通商路が確立した。 19世紀後半には西太后や代々の皇帝が宮廷御用の玉器に盛んに用いて、ちょうどウラル産のエメラルド孔雀石トパーズ(補記2)がロシア帝室を象徴する宝石とみなされたように、翡翠は清朝の玉として知られた。当時、西域(新疆)のホータン玉は中国の直轄領に産する玉だったが、翡翠もまた中国に朝貢する属国に産する玉、つまりは中国の玉といってよかった。帝玉(皇帝玉/インペリアル・ジェード)と呼んで特別視され、外交的な贈り物にも用いられた。

この頃にはミャンマーのウル川流域の古い鉱山(老坑)では良質の玉が乏しくなり、高地の初生鉱床を掘る新坑からの供給が専らになっていた。そして良質の古玉を希求する市場において、これに匹敵する品質の新玉もまた老坑(種・質)と呼んで特別視する風が生じた。
かく良質の緬甸玉には翡翠・帝玉・老坑といった雅称が等置的に用いられたが、後に翡翠の語は広義に緬甸玉一般を指すようになった。
ヒスイの研究で知られる新潟大の茅原(ちはら)博士は「中国人は "old mine"(老坑)として記されたエメラルド・グリーンのジェードに対して Fei Tsui (※翡翠)を伝統的に用いている。現在では、不透明暗翠色のもの以外のすべてのヒスイ(ジェーダイトジェード)の種類を含んで用いられている。」(「翡翠」改訂版 1995)と述べている。
翡翠の名はカワセミの羽色に由縁するが、今日では必ずしも色を含意しない玉名として用いられることがある(緑系のほか、赤、橙、黄、白、紫、藤、墨などさまざまな色がある)。

19世紀末にミャンマーはイギリス領となり、20世紀初には清朝が滅びて中華民国となる。それで華人の翡翠への愛好が減じることはなかったが、帝玉という表現は少し具合が悪くなった。その後、主に西洋文化圏での呼称として命脈を保ち、英語圏では良質のジェード Jade に対して帝玉を訳したインペリアル・ジェード、または翡翠(の原義である鳥名カワセミ)を訳したキングフィッシャー・ジェード Kingfisher's Jade の語が用いられる。そして美しい翠色の翡翠を形容するのに、別の歴史的な緑色宝石エメラルドが引き合いに出る。またミャンマー政府の競売会において第一級品質を示す等級名に「インペリアル」がある(後述)

日本では翡翠(ひすい)の最上質のものに老坑 lao-kang と同じ音の古い宝玉名、琅玕または琅玗(ろうかん)を宛てた。cf. C17 翡翠指輪
久米武夫の宝石辞典を引くと、「琅 lang はヒスイの一種、玕 kan は良石」と説明されているが、会意文字として「琅は良質の澄んだ玉、玕は棒状の玉飾、玗は細長く先の曲がった玉飾」との説もある。この伝でいけば良質のひすい勾玉は琅玗と書くことになろうか。しかし元来は別の玉類を指した名だった。李時珍の「本草綱目」の玉類に「青琅玕」があり、益富博士はこれをトルコ石または鍾乳状孔雀石あるいは青色樹枝状の玉滴石に比定している(1974年: 「新註校定 国訳本草綱目」 月報4)。ただし「まことに考証困難」で、玉滴石がもっとも適切と考えるも「青色をおびることは特殊」だと断っている。それなら銅を含む青色着色の樹状山サンゴもありそうに思う。石亭は雲根志に琅玕はサンゴに似た青い枝状の海産物と書いている。
吉野政治は、「和名類聚抄」(10C)に「琅玕」、「本草綱目啓蒙」(1803)に「青琅玕」の語があることを示して、「通説では『琅玕』は後世『青琅玕』とも呼ばれるようになったもので、同一物とされる。」と述べている。私見だが、明治中期頃以降、(日清戦争以降)、中国からさまざまな玉類が入ってきたとき、ろうかんは翡翠よりむしろ緑色半透明の良質の軟玉を指していたようでもある。(※鈴木敏「宝石誌」(1916)の描写があてはまる。久米武夫「通俗宝石学」(1930)の記述も然り。別に述べる。)
(※漢語林(大修館書店)によれば「琅」の語義は、@琅玕は真珠のような色つやをした玉。一説に玉に似た美しい石。または青色の珊瑚。A玉石・金属のふれ合う音の形容。B清らかなたとえ。C道教に関する物の名の上にしばしば冠する。)
(新井白石(1657-1725)の玉考に曰く、珊瑚の名は経伝書に見えないが漢代からの名で、山に出るものを琅玕、海のものを珊瑚という。)
(「重修本草綱目啓蒙」五、玉に「青琅玕 アオサンゴジュ 一名青珊瑚(物理小識)、青珠琅玕(同上)、白碧珠(石薬、爾雅)、石欄干(薬性奇方)、形状は珊瑚と同じで青色なもの、古くは舶来があったというが今はない、本邦に売るものは青色の硝子で造って上に泥を塗って透明でないようにした贋物である。」と。)

◆清朝の宮廷で翡翠の語が宛てられる以前、17世紀の雲南地方では緬甸玉を碧玉、または翠生石と呼んだ。一方、19世紀半ばに上ミャンマー地方を訪れた英軍人たちは、ビルマ人はキャウク・シェン kyauk-sien 碧石と、華人(華僑)たちは単に yueesh 玉石と呼んでいたと記しているから、産地でもその色を名として通用したらしい。
H.L.チッバー Chhibber は、最上質のエメラルド色のジェードの現地名として ミャー・ヤイ Mya Yay、及びヤイ・キャウク Yay Kyauk を記録した(1934年)。これに次ぐ淡緑色の玉で鮮翠色の斑紋や脈を持つものはシュウェルー Shwelu 、その下の透明度の低い曇ったものはラット・ヤイ Lat Yay と言った。
今もそう呼ばれているか定かでないが、これらはほんの一角で、玉取引に携わる人々の間では品質を細分して表現する数多くの専門用語があるそうだ。

代表的な取引名称として、欧米と中華圏の間には少なくとも下表のように対照可能な品質区分が示されている。(Ng &Root  による分類(1984年))

タイプ 英名 中国名 特徴
Emerald,  Imperial (エメラルド, インペリアル) 老坑 (Old Mine) 均質、高い透明度、濃いエメラルド色、深い色調。日本でいう琅玕。本来の「翡翠」
Glassy (ガラス質) 金糸 (Canary) ほぼ透明、色は弱い(少し浅い)
Dark Apple Green (暗リンゴ緑) 新坑 (New Mine) 半透明、色ムラなし、濃いめの緑(暗緑ではない)
Spinach (ほうれん草緑) 油青(Oily) 暗緑、やや半透明、色ムラあり(1〜3と比べて濃暗緑の部分が混じる)、表面に脂光沢。
Moss-in-snow (雪中の苔/苔緑) 豆青 (Pea Green) 白色の地に緑色の条線や帯、均質で良コントラスト、不透明 (狭義に?白より緑の部分が多い)
Light Apple Green (淡リンゴ緑) 花青 (Flower Green) 淡緑、不透明。複数のタイプあり、色ムラのないもの、斑紋のあるもの (5と比べて緑より白地の多いものを含めることも)
Plain Green (素朴な緑) 瓜種 (Melon) 斑紋にさまざまなタイプあり。色は浅い(白と緑のコンラストが弱い、白〜緑、暗緑混じりも)、半透明

Moss-in-Snow は白地青種、白底青種ともいい、日本でもよく見るタイプである。中華圏では緑色の具合や色紋によってほかにも芙蓉種(浅緑色)、干青種(沈緑色)など、透明度によって玻璃種(透明)、氷種(半透明)、氷糯種(米粒状の組織の見える半透明)などのさまざまな区分があるが、どれがどの程度までポピュラーなものかは残念ながら私にはよく分からない。ともあれ、第一等を琅玕として、あとはヒスイの一語で済ませてしまう日本とは大分事情が異なるようだ。緑色以外の翡翠についてもそれぞれ呼び方がある。例えば无色種(無色)、紫羅蘭(アラセイトウ)種(ラベンダー色)など。
Spinach/油青はネフライト玉にも用いられる分類で、ほうれん草色(暗緑色)の碧玉一般を指した。ひすい、ネフライト、蛇紋石類などさまざまな玉にこの色のものがあって紛らわしい。

またほぼ同時期に G&G誌は緑色ジェードのトレードネームとして、ジェーダイト(ひすい輝石)に対して次の名称を紹介している(1982年春号 J.M.Hobbsによる)。

商用名 標準的な色・外観
Apple (りんご玉) 鮮やか、中濃度の黄緑色
Chicken, Tomb (鶏骨、葬玉) 鉄酸化物によって黄色〜茶色味がかったもの
Emerald Gem, Imperial (エメラルド玉、帝玉) 鮮やか、中濃度の緑色(上質のエメラルドの色) 最上質とみなされるもの
Kingfisher (Fei-ts'ui 翡翠) 鮮やか、中濃度の緑色、中国では同名の鳥の緑色に輝く羽に因んでこの名で呼ぶ
Moss in the Snow (雪中の苔) ストリーマー(流紋)と呼ばれる緑色の条線を伴う白いジェーダイト
Yunan, Yunnan (雲南玉) 鮮やか、中濃度の緑色、ほぼ不透明、薄厚にカットすると半透明

私見だが、Chicken(鶏), Tomb(墓)はもとは漢玉 Han yu など古玉(軟玉)を呼ぶ名称だったと思われる。中国では「鶏骨白色」「石灰古」といって、古墓から出土した風化した玉の色調を表現する言葉がある。(※墓玉/ツームストーンは墓中の有機物質との反応で変色した玉、鶏骨玉は熱による変質または人工的な処理によって変色した玉、と区分する説もある。)
雲南玉については、雍生〜乾隆帝期に宮廷で用いられた名(暗い緑色のものを雲南玉または碧玉と呼んだ)とは別で、中級品質のものを指す用語と思しい。20世紀後半は高品質の玉は(密輸されて)タイのメーサイなど国境地帯が集散地となり、後にミャンマー政府のエンポリアムで公式に扱われるようになったが、やや品質の落ちる玉は中国の雲南地方から出回るものがあった。今日、ヒスイの集散地として有名な国境の町、瑞麗 Ruili 経由の玉を80年代当時(市場開放政策が始まった頃)この名で呼んだのかもしれない。(※瑞麗は保山(前漢の第二郡永昌の所在地)からミャンマーに通じる3つの歴史的ルートの一つ。一つは西の高黎貢山を越えて騰越経由のルート、一つは南の施旬と湾旬を越えて枯柯河に沿って怒江に進むルートでビルマから滇(昆明)への行軍道。16C 明朝にはビルマ兵10万と戦闘象1万頭が進んだ。そして西南に怒江を渡って芒市経由で瑞麗江に沿って進むルート。瑞麗ルートは 1939年に中国とミャンマーを結ぶ国道が整備されている。これは1937年に日本軍が中国沿海を封鎖したため、援助物資をミャンマーから中国に送り込むための策だった。大戦当時、インドのレドから北部ミャンマーのフーコン谷〜ミッチーナ(密支那)、そして騰越を経て昆明、重慶に通じる連合軍の輸送路はレド公路と呼ばれた。滇緬公路はミャンマーのラシオから龍陵〜拉孟を経て保山でレド公路と合流した。日本軍は雲南、北部ミャンマーの要衝を押さえて輸送路を寸断したが、ついには各拠点で玉砕戦を戦うことになった。)

なお商業上の品質等級として、ミャンマーのエンポリアムでは、宝飾品(指輪石など)に用いる最高級のインペリアル・グレード、同じくこれに次ぐコマーシャル・グレード、装飾品(彫り物、置物、碗皿類)用のユティリティ・グレードの3区分が提示されている。インペリアルには7等級、コマーシャル・グレードにも7等級のランク付がある。ユティリティ・グレードの玉は、漂白・染色が行われているのが普通だという。

原石(ボルダー)の玉質部はしばしば石の内部に包み込まれていて、表面から内部の状態を推し量ることは困難である。しかし行き当たりで原石を切断すると良質部分を損なうおそれがある。かつて鉱夫や商人たちは切断せずに玉の価値を判断するためのさまざまな方法を考案した。表面に現れた色の具合、金属類で叩いた時の音の具合、水漬中の風化で生じた表面の微妙な状態の違いなどを徴として玉質を判断し、原石に値段をつけた。表面の皮層(スキン)をわずかに剥いで「窓」を開け、その生地の具合や強い光を当てた時の透明感で内部の深い部分を推測した。
しかし今日エンポリアムで販売される原石は、ボルダー全体を切断して玉質部をはっきり見せて等級をつけているので、少なくとも会場において古えの技を披露する機会は乏しい。華人は伝統的に玉取引のギャンブル性を好んだが、ミャンマー政府は過去の経験から、むしろリクスを減らした方が有利と考えているわけだ。

◆中国では19世紀前半に緬甸玉取引きの最初の隆盛期(1830-40年頃)が現われた。その後の戦乱で一時供給が滞ったが、1861年に海路による玉の輸送が始まると、清の宮廷が儀礼用の玉を大量に買い付けたこともあって中国全土に需要が拡がり、さらに流通量が増えた。1881年には新坑のトーモーが開かれて産量が安定した。1886年にコンバウン朝が滅ぼされてビルマ全土がイギリスの統治下に入ると、鉱山の権益を巡って数年間のごたごたがあったものの、イギリスは結局王朝時代と同様、名目的な主権者に収まり、カチン族や華商との関係に折り合いをつけた。そして中国・ビルマ間の紛争期を除くと、1930年代まで(中国の第一次国共内戦の終期頃まで)安定した玉の供給が続いた。

欧州では17世紀後半から19世紀前半にかけて中国趣味(シノワズリ)が流行して、中国の玉はジェード(Jade)の名で知られた。アロー戦争で英仏軍が北京の夏宮を占拠した時(1860年)、激しい略奪が行われて、その後大量の美術工芸品がパリやロンドンに現れた。清朝が倒れた 20世紀初の混乱期にも文化財と共に多数の名品が海を渡り、米欧にジェードブームが起こった。
ジェードの語はもともと16世紀に新大陸に遠征したスペイン人たちの持ち帰った緑色系の石が、疝痛や腎臓病に効験があると伝えられて広まったもので、わき腹の石 ピエドラ・デ・イャーダ Piedra de yjada と称されたことに発する。現地人が「チャルチウィテ」と呼んで大切にした石だったと思われるが、欧州では石薬(または温石)と考えられたらしく(腎臓状の形からとの説もある)、約めてジェード Jade (英語)と呼んだ。ラテン語にLapis Nephriticus 腎臓の石と綴られ、1780年にウェルナーはこの鉱物をネフライト Nephrite とした(※1758年のA.v.クロンステットの鉱物書の独訳)。今日の IMA種としては Tremolite-Actinolite 透-緑閃石にあたる。ネフライトの化学組成を決定したのはフランスのアレクシス・ダムールで 1846年のことだった。(cf. チャルチウィトルの話) 
中国では玉器は単なる鑑賞品でなく、神仙的な信仰を担った。玉の持つ徳を受け、幸運を授かるために、富貴人は玉片をつねに身に帯びて外すことがないという。玉を粉末にして長寿薬として飲用する風習は古くからあるもので、明代の李時珍「本草綱目」にもまだその薬効が述べられている(cf. 軟玉の話4)。そうしたことも欧米人の好奇をそそって、新大陸の石薬ジェードの名を受け継いだのだろう。

ただ華人がジェードに与えた精神的・霊的なニュアンスがどこまで西洋人の共感を得たかはあやしい。自然科学の発展した西洋ではジェードは数多ある迷信に彩られた宝石の一類であり、科学的な眼で見ればただの化学物質、すなわちカルシウムや鉄やマグネシウムを成分に持つ珪酸塩鉱物ネフライトに他ならなかった。
19世紀後半には、ホータン玉に代表される古い玉器ばかりでなく、緬甸玉を加工した玉器も欧州に入ってきたと思しい。アロー戦争(1856-1860)後ほどなく、1863年にダムールはジェードにはネフライトのほかにもう一つ別の組成のものがあることを指摘した。ナトリウムとアルミニウムを含む珪酸塩で、ネフライトより硬度が高く比重が大きい。彼はこれをジェーダイド Jadeite と呼んだ(ソーダ・スポジューミンともいう)。前者は角閃石類のジェード、後者は輝石類のジェードと分類出来、以降ジェードには古玉器に多いネフライトと、新玉に多いジェーダイトの2種あることが通説となる。新玉、すなわちミャンマー産の玉(翡翠)は主にジェーダイトとみられた。
当時、中国では翡翠の人気がいよいよ高まり、良質の翡翠はホータン玉以上の値で取引きされていた。帝室が重用したため皇帝玉の名で称揚された。西洋では従って、ジェーダイトこそ東洋の玉の中でもっとも価値の高いもの、玉の中の王、頂上に位するものと解釈した。

Dana 6th(1892/1911) を参照すると、ネフライトの項には中国産や雲南産の組成データが示され、メキシコやペルー産のジェードも記載されている。一方、ジェーダイトの項には細工物として中国産(緑色)、アジア産(白色、緑灰色)、チベット産、メキシコ産(オリーブ緑、エメラルド緑ほか)が、原石としてはチベット産、ビルマ産、スイス産、イタリア産の組成データがある。
そして、「ジェーダイトは東洋、特に中国では長い間、もっとも高く評価されてきたもので、さまざまな装飾品や日用品に加工されている。…パンペリー氏は、 fei tsui (=カワセミの羽)はおそらく中国人の間であらゆる石の中でもっとも賞賛されているものだとしている。また氏は古代メキシコ人のチャルチウィトルは、多くの標本を目にしてきた限り、同じ鉱物とみて間違いないとする。一方、W.P.ブレイク氏はこの名をサンタ・フェ地方のトルコ石にあてている。」などとコメントがある。

Brauns/Spencer 著/訳「鉱物界」(英語版 1912)のジェーダイトの項には、「輝石(パイロクセン)グループの一で化学成分はスポデューミンに似る(※リチウムの代わりにナトリウムが含まれる)。記述の通り、見かけはネフライトに酷似するが、おそらく鮮やかな緑色を呈するものがネフライトより多くあり、ときにエメラルドの緑色をなす。しかし普通はまさにネフライトと同じ黄緑色、灰緑色、白色である。見かけで両者を識別することは専門家にも出来ない。区別をつける重要な手がかりは、より高い比重(3.32-3.35)、はるかに溶融しにくいこと、ブンゼン炎にかざすと、(※ナトリウムによる)黄色の炎色を示すことである。」「上ビルマのジェーダイトは完全に純粋であり、その粒中にほかの鉱物を痕跡ほどにも含まない。この点、欧州で発見されるジェーダイトの加工器物と大いに異なる。」「ジェーダイトの中には鉄の酸化物を含み暗色となったものがある。亜種クロロメラナイト chloromelanite はその典型で、緑がかった黒色に因んでその名がある。この亜種は欧州では加工物、特に斧頭にのみ見つかっている。ほとんどがフランスで見出され、スイスにも若干ある。ヌーシャテル湖の湖上住居集落に代表的なものである。加工器物はまたメキシコ、グアテマラ、コロンビア、ニューギニアなどでも見つかることがある。クロロメラナイトはニューギニアに初生産地があるという。」
「商業品として入来するジェーダイトはすべてアジア産であるが、アジアの産地(おそらくチベット、東トルキスタン)の中で確実なのは上ビルマだけである。比較的最近になるまで欧州人にはこの僻遠の地は事実上知られていなかった。地質学的な調査はF.ネットリングが1892年に、直近では A.W.G.ブリークが1907年に行った。」
「上ビルマのジェーダイト鉱山地域は、モガウンから120マイルのカチン丘陵の一角に限られている。原石はトーモーの村の岩塊から切り出される。またチンドウィン川の支流のウル川の川床や土手から礫状、転石状のものが採集される。漂砂鉱床ははるか昔から稼働されているが、まだ採り尽くされてはいない。峡谷のラテライト鉱床からもジェーダイトの塊が若干出る。これらは鉄錆に染まって、濃い赤茶色をしており、現地民や華人の間で高く評価されている。トーモーの初生鉱床は1880年頃から知られるようになった。ここは低い孤立した丘の密林の中にあり、暗緑色の蛇紋岩が周囲を砂岩に囲まれて露出している。ジェーダイトは蛇紋岩中に厚い鉱床、あるいは(直交差)岩脈をなしている。数百人の現地民が巨大な採石場で働き、緻密で強靭な石塊から、火を使った原始的な方法でブロックを切り出している。このジェーダイトは概ね雪白微粒状の石で大理石に似る。その中に美しいエメラルド緑色の原石が斑状に含まれている。ビルマ人と華人とが特に探し求める、より価値の高い部分である。産出した石の大部分はビルマ内に留まるか中国に輸出される。欧州に送られるのはほんの少量である。」

現在の認識(あるいは現況)と異なる記述もあるが、ひすい/ジェーダイトを巡る当時の捉え方が分かって興味深い。

◆二次大戦が始まると日本軍がミャンマーに侵攻してきた(1942年)。彼らは各地の鉱山にあった機械設備を須らく徴発したので、玉の採掘はすっかり止まった。戦後再びイギリスの統治に戻ったが、鉱山の再開には時間がかかった。イギリスは1947年に英領インドを放棄し、インドとパキスタンが独立。48年にはビルマ共和国が英連邦から独立した。49年、中国に人民共和国が宣言された。以来、中国では高貴な精神性の象徴であった玉への愛好が影を潜めて、玉取引の中心は租借地として残った英領香港に移った。北京や上海に店を構えていた玉工の多くが香港に移住した。中国は雲南の国境を閉じたので、上ミャンマー地方の玉は鉄道でラングーン(現ヤンゴン)に送られ、海路を香港や台湾に輸出されることが多くなった。 1950年代、ビルマの玉商は直接香港に出向いて玉を捌くか、雲南人や広東人の仲間に販売を託した。香港では大東酒店などいくつかのホテルで開かれる競売会が乱立したが、60年代半ばから珠宝玉石廠商会(当時玉石廠商会)が全般を仕切って無用の競合を抑えた。

ミャンマーでは 1962年にネ・ウィン率いる軍によるクーデターが起こった。社会主義化によって宝石産地はすべて国有財産とみなされ、1969年には宝石類の私的採掘が禁じられた。しかしカチン族の一部は不帰順状態に留まり、地域の政情はつねに不安定であった。外国人は上ミャンマー地方への立入りが禁止された。
1964年以降、玉や宝石類の公式の販路は首都ラングーン(現ヤンゴン)で開かれる政府主催のエンポリウムに限られたが、多くの商品はむしろ闇取引で国外に流出したといわれる。中〜低品質のものは雲南地方に流れ、中国の瑞麗とミャンマーのムセ、またルウェジェル間で玉の通商(密輸)が行われた。高品質のものはタイ北部の国境地帯に流れたという。メーサイ、メーソート、メーホンソンなどに玉の通商会社が作られた。香港や台湾の玉商は良質かつ安価な玉を求めてタイに出張った。
ビルマとの国境付近の町はどこでも越境通商の拠点となったが、有名なのはタイのチェンマイで、この町には国境通過の一時許可を得た雲南の難民が集まっていた。タイの商社はビルマの武装民間業者と手を結んでいた。ビルマには二つの大きな業者組織があり、しばしば麻薬や宝石の闇市場権益を巡って激しく争ったそうだ。

1980年代初に中国で市場開放政策が導入されると、中国内に再び宝石質の玉を求める動きが起こった。ミャンマーと中国間の(陸路)通商路が公的に復活した。瑞麗(ルイリ)は 90年代初に国境貿易区に指定され、今日では中・緬間最大の陸路交易都市となっている。
需要の増大を受けて、ミャンマーでは 80年代から90年代にかけて徐々に関連法令が緩和され、私企業の事業参画が認められていった。政府は1990年に不帰順カチン族との間に休戦協定を結び、第三者に玉取引の機会を開いた。94年頃から優良な玉鉱山を直轄するようになった。95年の宝石法の改正は 10% の輸出関税を対価に、私企業が採掘権を持ち、玉を売買することを認めた。玉市場は拡大し続け、産地に大勢の一旗組をひきつけることとなった。

エンポリアムでの玉の取引高は 1976年になるまでドル換算で100万ドルを超えなかったが、その後は鰻上りで、2010年に 10億ドルに達したという。単純計算で100倍の規模である(ただし昔は公式レートと実勢に大きな開きがあった)。2006年に首都がネピドーに移ると、エンポリアムもネピドーで開催されるようになった。玉の市場価格は2009年頃から急騰している。
中国経済発展の余恵で、ミャンマーでは玉の輸出による歳入が 2000年代に 1.5〜3億ドル、2010-11年には17.5億ドルを記録した。現在はさらにその数倍〜数十倍と言われるが正確な数字は分からない。ミャンマーのGDPの半ばが玉取引で賄われ、権力中枢を巻き込んだ汚職が深刻だという。一方ミャンマー軍とカチン独立機構との闘争が再三にわたって再燃している。(追記)

◆玉の産地も変遷した。19世紀後半から長く主力であったトーモーとウェカの鉱山群(新坑)はほぼ採り尽くされたといい、パカン・ギー、マウ・セ・ザ、ティン・ティン、カンシーといった鉱山群が主力となっている。マウ・シッ・シッ・タイプの玉はカンシーにのみ産する。いずれもカチン族の土地である。ザガイン地方のナシボン、ナッモー、カムチの近くにも鉱山がある。ザガインはビルマ族が押さえている。稼動中の鉱山は100ケ所を超えるが、軍に関係する一部の(15人に満たない)特権者層の個人財産に帰し、利益は彼らが寡占して、地域の住民のほとんどは貧困のうちに暮らしているとされる。

ほとんどの鉱山は、上部の砂礫層を除去してその下にある玉のボルダー(塊状石)を含む岩体を露出させる「ボルダー採掘」を行っている。岩体から玉の部分を採取し、不要な岩くずを川に捨てる。マウ・セ・ザ鉱山はその典型で、重機を使って巨大なボルダーを掘り出し、付近の河川にトラックで運んで洗浄と選鉱を行っている。また川床から水摩礫を採集する鉱山もある。古い文献にみられる原始的な採集方法はずっと以前から廃れて、近代的な採掘法が行われているという。
とはいえ政府は採掘権を見境なく発行し、鉱山では安全を顧慮しない乱採掘のため事故が後を絶たない。Youtube のルポ動画を見ると、何十万人という労働者が危険な作業に従事して、薬物依存もひどいそうだ。

緬甸玉は歴史的にみて美しいエメラルド色のものが「翡翠」として愛好されてきた。19世紀後半の西洋鉱物学はこの玉をジェーダイト(硬玉・ひすい輝石)と定義したが、20世紀には分析技術の発達によって、必ずしも定義に適合しない玉もあることが分かってきた。輝石類としては鉄分やカルシウム分を比較的多く含んだオンファサイト(オンファス輝石 Omphacite)、クロム分を多く含んだコスモクロア Kosmochlor に分類されるもの、これらとジェーダイトとの中間組成のものがある。またマウ・シッ・シッや豆ヒスイのように新たに発見されたタイプの玉があり、曹長石を多く混じえたものが知られている。
産地は蛇紋岩帯であることから、ネフライト(軟玉)や蛇紋石タイプの玉を伴い、またジェーダイトからネフライトに変成した産状の玉も知られている。不均一な組織を持つ加工品や原石ではジェーダイトとネフライトとが混在するものがあり(一般化して言えば、輝石類と角閃石類とが混在する)、圧砕タイプと呼ばれるものは多くこれに当てはまる。

20世紀の中頃には純粋なジェーダイトだけを宝石の翡翠とみなす考え方があり、多量の鉄分を含む暗緑〜黒色に近いジェーダイトであるクロロメラナイト(濃緑玉 chloromelanite)やジェーダイトを含んだ曹長岩であるジェード・アルバイト(モウ・シッ・シッ)などは翡翠でないとされていたが、最近はこれらをも含めて、また伝統的な緑色や白色のものに限らず、さまざまな色の玉を翡翠として扱う方向に向かっているようだ。
今日、香港の業界団体は西洋市場を視野に入れて鉱物学的な翡翠の定義づけを行い、ジェーダイト、オンファサイト、コスモクロア及びこれらの混在物を主成分とする玉石(輝石類)を翡翠 Fei cui として扱う取り決めをしている。(2020.8.6)

 

追記:2023.11.16の読売新聞記事によると、ミャンマーの中国への経済依存は国軍が全権を掌握して以来(米欧が経済制裁を加えて以来)強まる一方だという。ミャンマー産の宝石ビジネスは国軍の重要な財源で、「世界銀行によるとヒスイの対中輸出額は2021年の10億ドルから 22年は約 40億ドルに増加した」。
本文中に「2010-11年には17.5億ドル」と述べた数値と比べても、倍以上の輸出高と考えられる。現在のレートで 40億ドルは6,000億円に相当する。


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