623.トルコ石 Turquoise (USA産)

 

 

 

Turquoise トルコ石

トルコ石 -USA、アリゾナ州ブルーライトニング産

Turquoise トルコ石

トルコ石 -USA、アリゾナ州エメラルド・アイランド産

 

No.622に続けて)

銅鉱山では副産物として金や銀といった貴金属、またモリブデンのような産業用の金属が得られ、重要な収入源となっている。アリゾナのモリブデン生産量は米国第2位である。 トルコ石もまた南西部では銅採掘の副産物、あるいは銅鉱業に伴って鉱脈が発見された石と言ってよいだろう。 実際、1950年代にトルコ石採掘がちょっとしたブームになったとき、閉山した古い銅鉱山はトルコ石ハンターの格好の狩場となった。 名もない小さな鉱脈や古いズリ場がいくつも再発見され、採掘され、(再び)打ち捨てられていった。もちろん長い年月に渡って大量のトルコ石を供給し続けた本格的な鉱山もある。ビスビー、モレンチ、スリーピングビューティーキングマン、ターコイスマウンテンなどは、現在も名前の通ったアリゾナの有名鉱山だ。

ここではあまり知られていないアリゾナ産のトルコ石を2つ。 
上の画像、アリゾナ西部のブラッドシャウ山脈にあるブルーライトニングと呼ばれる小規模な鉱山から採れた石。どれだけ小規模かというと、採掘されたトルコ石の総量が今のところ数kg 程度で、かのランダー(40-50kg)に満たない…という。もっとも、ランダーは特別にアメリカ人好みのする高品質の石が出たために異常に貴重視されているのであって、品質が伴わなければ、あるいは人気が出なければ、採集量が少ないことは全然問題にならない。実際のところそんな小さな鉱山(あるいは鉱脈)は世にいくらでもあるものだ。
その種の石はかつては業者間で産地など問題にされず十把一絡げに扱われていたはずだが、インターネット時代にはそんなマイナーなものでも、採集者やそれに近い売り手から電脳空間を通して直接市場に出てくる。そしてまたネットで繋がったPCの前には、ネームバリューもなにもない石を買う奇特な消費者が座っている次第なのだ(←私のことだ)。 標本のトルコ石部分はランダー並に(笑)小さい斑点で、大部分が暗赤褐色のウェブである(単に母岩というべきか)。母岩部分は赤銅鉱、石英、銀、ブロシャン銅鉱などであるらしい。

下の画像はエメラルド・アイランドと呼ばれた(鉱山の)石である。非処理の原石を磨いたもの。 産地はかつての鉱山エリア、「ミネラルパーク・ヒストリカルマイニング」地域に属している。この地での産銅は1870年代がピークだったそうで、ほぼ最初期の銅山地域といえる。
トルコ石は 1957年のブームの頃に発見されて小規模な産出があり、その後70年代後半にも多少柔らかめの、硬化処理が必要な石が出た。以後、産出が途絶えたが、それというのも、1980年代に大規模な開発が行われて、もはや鉱脈が残っていないからである。また積み上げられた鉱石の山に大量の酸性溶液がかけられ、その結果、共に掘り出されたトルコ石はすっかりダメになってしまったという。おそらく金を抽出するために、青化法の一種であるヒープリーチ法が行われたのだろう。もうここではトルコ石は採れない、とディーラー氏の言葉である。 ちなみに同じ鉱体を掘ったイサカピークは、現役の銅鉱山だった1900年代に金色のスパイダーウェブの入った石を出したことがある。

 この標本は以前ラピダリー関係の仕事をしていたある一家が持っていたもので、ディーラー氏によれば、売り主の祖父が50年代に採集してストックしていたものらしい。70年代末に祖父が亡くなると長男に受け継がれ、その長男も70路を迎えた。売り主は父親の養老費を捻出するために古い資産を処分する必要に迫られたのだと、妙に生々しいお話である。 彼はもともとツーソンに行って売るつもりだったらしいが、話を聞き出したディーラー氏が「値踏みをしてあげるから」と持ちかけ、自宅のガレージに、布袋に詰めたままトラックの荷台いっぱいに載せられていた原石の山をあらためた。長年放置されていた石の多くは、割れたり、崩れたり、互いにこすれあって傷ついていたが、見事な原石もないではなかった。ディーラー氏は昂ぶる気持ちを抑えて、落ち着いた(と本人が思っている)声でいくらで売りたいのか訊ねた。なんとなく気まずい沈黙の時間が流れた後、持ち主は返事を返し、ディーラー氏は最終的にその山を丸ごと買いとった。 まあ話半分にしても、そういうエピソードつきの石である。

鉱物学的に石と関わりのないこんなお話は、硬派な鉱物学徒の方々から見れば、語るに値しない、どうでもいいタワ事であるかもしれない。たいていその通りなのだろうが、私のようなタイプの愛好家には違ってくる。私の場合、石そのものを買うというより、どうかするとこうしたエピソードにお金を払っている気分になることが往々あるのだ。
振り返ってみると、そもそもの初めから私は結晶面の出現がどうとか、晶系がどうとか、化学組成がどうとかといったこと以上に、石にまつわるささいなお話が好きなのだった。 このトルコ石にしても、ただルースをぽんと出されてなんの説明もなければ、多分、買っていなかっただろうと思う。

さらに考えてみれば、鉱物標本についているラベルにしてからが、本来、学術的な価値を評価されるものであろうが、私にはむしろロマンを誘うエピソードであるようなのだ。No.420No.466 に書いたことに繋がるが、例えばその石がアラスカ産であれば、私は極北の大自然の中に人知れず眠っていた石とその周囲の峻烈な環境に想いをはせる。アリゾナやネバダのトルコ石であれば、サボテンの花が咲く砂と岩の赤茶けた谷間を、夜空に星が光り狼が吠く西部を、ノスタルジックなメロディと共に連想せずにいられないのである(ちなみに南西部の野生の狼は一時絶滅している ‐アラスカには今も狼が棲むが人と接触することはほとんどない)
あるいはまた南西部の砂漠で生活する人たちのありようを想い描く。谷と山に隔てられた乾いた大地に、円錐形のとんがり屋根のテントを張って暮らす人たちがいて、頭に羽飾りをつけ胸にトルコ石の青いビーズを飾り、夜にはキャンプファイヤの周りで歌い踊っている様子を想う。
粗野な西部開拓者の息子に生まれ落ちた荒野の天使どもが、馬とロープと銃の扱いに過ぎてゆく日々のひと時、所用で立ち寄った保安官のいる町のトレーディングポストで、こまっしゃくれたミリアムへの土産に青い小さなトルコ石の髪飾りをシャイな顔してみつくろっていたりする、そんな実際は日本のマンガの世界(※)にしか存在しないのかもしれない微かな叙情に向かうトリガーとして標本をみている、私はひとである。照れるな、もう。 

※ひかわきょうこ著「荒野の天使ども」

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