662.イドリア石 Idrialite (USA産)

 

 

idrialite イドリア石

イドリア石(黄色部分) -USA、カリフォルニア州ソノマ、スカッグス・スプリング産

 

イドリア石。組成式 C22H14 の有機鉱物である。現スロベニアのイドリヤ(Idrija) にあった水銀鉱山で辰砂や粘土に混じって産し、1832年、原産地に因んで命名された。濃硫酸に溶かすと鮮やかな青緑色を呈する、と文献にあるが、もちろん試していない。
上の標本はアメリカ、カリフォルニア州の温泉地スカッグス・スプリングス産のもの。かつてカーチス石の名で親しまれたが、イドリア石と同じ組成であることが分かって名称が統一された経緯がある。最近また成分が異なるとの説が出ていて素人にはちょっと訳が分からないが、ここでは一応イドリア石として紹介したい。
カーチス石は石灰華と混じってさまざまな形状のものが出るという。イドリア石もカーチス石も紫外線によって青白く蛍光する性質がある。

イドリア鉱山はスペインのアルマデン鉱山に次ぐ、世界で2番目に古くて大きな水銀鉱山であった。Wiki 等を参照すると、1497年に水銀が発見され、1500年頃から鉱山が開かれた。伝説では、近在の手桶職人が、手桶に小さな水銀の粒がくっついているのを見つけ、ある泉で汲んだ水に水銀が混じっているのだと気づいたのが事始め。オーストリアの統治下にあって 1580年頃から国営事業に組み込まれた。採掘はほぼ500年間続いたが、1988年から閉山の準備が始まり、2009年に完全に終焉した。
現在は鉱山会社による環境モニターが継続される一方、1500年頃開かれたアンソニー坑の上部が観光施設として公開されている。ヨーロッパで見学可能な最古の坑道のひとつであるらしい。
アンソニー坑の名はリスボン生まれの教会博士で、鉱山と鉱夫の守護聖人として信仰を集めた「パドヴァの聖アントニウス」(1195-1231)に因む。余談だがイドリアはイタリアの沿岸都市トリエステから北方に40キロほど入った位置にあり、古い大学町として知られるパドヴァにもほど近い(パドヴァ大学は1222年に開設され、14世紀に総合大学となった)
(cf. サイト Idrija Mine Museum (英語)、Mercury Mine Idrija (スロベニア語)

と、ネットで見る限り、あるいは公式的なサイトを見る限りでは、イドリア鉱山の歴史は1490年代より前に遡らないようである。
ところが、種村季弘の著書「パラケルルスの世界」によると、イドリアの水銀は11世紀の初頭から採掘されており、1086年にはイドリアの地名が記録されているという。
イドリア Idria(Idrija)はもともと Hidria あるいは Nidria が古名に近く、水(Hydor) あるいは 水銀(Hydrargyrum)を意味する Hydria が語源というのが一般的な説で、水銀に関係する地名であることはほぼ確実らしい。もし11世紀にイドリアと呼ばれる土地があったとすれば、やはりその頃から水銀が知られていたのであろう。すると発端がほぼ4世紀も早くなるわけで、これまたどう考えていいのか、素人には難問である。(上記の伝説のようにもともと泉のあった土地らしく、あるいはその泉に薬効があったとか、「水」関わりの名という可能性もあるか?)
種村氏はまた、イドリアという言葉はイスラムの神話的な人物イドリースに関連づけて解釈することも可能だ、と指摘している。つまりイドリア鉱山はイスラム文化の影響下に開かれた可能性があるというのだ。

イドリースはイスラム圏で聖書の預言者ダニエルまたはエノクに相当する人物名であるが、(11世紀頃の?)アラビア語のヘルメス文書では、錬金術の始祖ヘルメス・トリスメギストスと同一視されるようになった。
錬金術師ヘルメスは、「冥界とこの世の間を速い逃げ足で自在に往還することのできるギリシャ神ヘルメース」であって、「あたかも固体にも液体にも気体にも容易に変化して寸時にして姿を現したり隠したりする水銀とそっくり」な性格を持つ。そのためアラビア錬金術において水銀は、ヘルメス・トリスメギストスを象徴する物質であった。(※揚げ足をとるようだが、水銀の融点は約-39℃なので、簡単には固体になるまい。しかし塩化水銀など、常温で固体の化合物(医薬品)は作られた。ちなみに中国ではスズなどの不純物を含むために常温でも固体の水銀が産し、ふつうに知られていた、と島尾永康は指摘している。)
そこでイドリア鉱山の名が(水銀をシンボルとする)イドリースに由来するのだとすると、鉱山を開いたのは、ヨーロッパ中世期の間、アレキサンドリア錬金術をイスラム文化の下に継承し続けたアラビア人だったのではないか、と言うのである。

種村氏は評伝の中で、パラケルススが梅毒の水銀療法に関連して度々イドリア水銀鉱山を訪問したことをとりあげつつ、パラケルススが少年期を過ごした鉱山町フィラッハがイスラム文化の影響を受けて発展した町だった可能性を考証する。
「すなわち、古代の知を総合したアレキサンドリア錬金術を継いだイスラーム文化の、アドリア海における受容点はイストリア半島にあり、ここから騎行1日程の距離にあるフィラッハが早くからアレキサンドリアとイスラームの錬金術の洗礼を受けていたとしても、すこしも怪しむには当たらなかった」
「この国『ケルンテンの年代記並びに起源』にいうところの『キリスト生誕以前に集めて読まれていた、すこぶる古いドイツの書物』とは、アラビア人の鉱山技術者がもたらした知識の翻訳であろう。オーストリア大公領という仮面的な表層の粧いを凝らしながらも、パラケルススの育った町フィラッハは、古代地中海の知やイスラームやビザンチニズムからなる多層的な地下鉱脈をはらむ、多彩な異種文化の交点だったのである。」

そうであれば、アラビア錬金術とヨーロッパ錬金術は、鉱山町と医業(医薬)とを展開軸として結びつくことになる。
少なくともパラケルスス(1493-1541)やアグリコラ(1494-1555)といった 16世紀前半に活躍した鉱山町ゆかりの医家が、医術や鉱山技術に関する新しい知見をヨーロッパ世界に紹介する書を著した代表的人物であったことが、わりとすんなり得心できそうな気がする。
(もっともその通りだとしても、イドリア鉱山の開山が15世紀末だったか11世紀初だったかは、やはり分からない)

cf. ウィーンNHM蔵の標本   ヘオミネロ博物館4

補記:ユーゴスラビア(当時)では1990年に、イドリア水銀鉱山の開基500周年にあたるとして記念祭が行われた。上述の手桶職人が見つけた銀色の滴を、Skofja Loka という鍛冶屋が水銀と認めた、というのが公式伝説である。MR Vol.22 Nos3 に鉱山に関する記事があり、イドリア産辰砂の標本などが紹介されている。

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