663.カルパット石 Karpatite (USA産) |
カルパット石(カルパチア石)はウクライナのカルパチア山脈で
1955年に発見された有機鉱物である。Karpatite または
Carpathite
と綴り、後者の方が原産地名の英語表記に近い。組成はC24H12(補記1)。ベンゼン環が6個(中心部を数えると7個)繋がった平面的な環状構造をなす物質で、水には不溶だが無極性の溶媒に溶ける。
柔らかく、可燃性であるが、有機物としては比較的安定で、イドリア石と共に各地の熱水性水銀鉱床に広く認められる。
化学の世界では石油精製プロセスで得られる針状の多環芳香族炭化水素化合物、コロネン
coronene
(またはヘキサベンゾベンゼン)として知られている。例によって
Wiki を見ると、土星の衛星タイタンにも存在が確認されたらしい。
蛍光性があり、結晶もその溶液も青白色〜淡青緑色に光る(⇒蛍光画像)。この性質を利用して、ハッブル宇宙望遠鏡の紫外線撮影用のCCDに発光体として採用された。天然物は多かれ少なかれ燐光性があるため、使われたのはおそらく燐光を抑えた合成物だろう。
本鉱の自形結晶は稀だが、数年前、ニュー・イドリアのロス・ピカチョス水銀鉱山から数センチ大の美しい放射状結晶が出て市場を賑わせた。画像の標本も同じニュー・イドリア産である。ただし並品レベル。ひとつ標本を持っていると、後になっていいものが出てもついつい見送ってしまう。
この地域は太平洋プレートの沈み込み帯にあり、複雑な断層地形が形成されている。地層の間隙を熱水が上昇する際に周囲の物質を溶かし込み、あるいは反応させて、さまざまな鉱物が生成される(蛇紋岩帯に産するベニト石もそのひとつ)。カルパット石や辰砂は熱水活動の最末期に生じたとみられ、その成分はいずれも堆積物起源と考えられている。
本鉱のような有機物がたいてい辰砂(硫化水銀)と共存して産する、その理由は何だろうか(補記2)。
ヨーロッパには世界一の水銀鉱山として名高いスペインのアルマデン(補記3)や、これに次ぐオーストリア(現スロベニア)のイドリア鉱山があって長い歴史と産量とを誇ったが、北アメリカでは19世紀の半ば頃、カリフォルニア州で相次いで辰砂が発見され、水銀が生産されるようになった。
折しもゴールドラッシュが始まった頃である。サンタ・クララ郡の鉱山はニュー・アルマデンと、サン・ベニト郡の鉱山はニュー・イドリアと、それぞれ旧大陸の大鉱山に因んで名づけられ、北米1、2位の水銀産量を記録した。若きアメリカは金鉱石から金を精錬するために必要となる大量の水銀を、ヨーロッパから買わずとも産金地にほど近い土地で手に入れることが出来たのだった。カリフォルニアの辰砂は古くネイティブ・アメリカンにも知られていたが、彼らは主に赤色の顔料として用いていた。
ニュー・イドリアの鉱山は1970年代に閉山され、以降町はゴーストタウンとなって現在に至るという。
ちなみにアメリカの水銀鉱山は「○○(地名)・クイックシルバー・マイン(鉱山)」と名乗るのが通例で、クイックシルバーとはもちろん水銀のことである。古期英語の cwicseolfor から変化した中期英語で、「生きている銀」を意味した。活発に動きまわる、目まぐるしく変化を繰り返す、といった含意があり、水銀の特性をよく示している。中期英語は11世紀から15世紀後半頃に成立した言葉だそうだが、おりしもヨーロッパ錬金術の展開期に重なる。こういう表現に接すると、種村氏が水銀を神出鬼没にして変幻自在のヘルメスに喩えた歴史的背景が透かし見えそうな気がする。(⇒No.662 イドリア石)
補記1:トランスカルパチア産 Karpatite の記載論文(1955)では、組成C33H17Oとされていた。その後、サン・ベニトで発見された鉱物がペンドルトン石(Pendoletonite)の名で報告され、組成C24H12とされた(1967)。ところが同年、カルパット石とペンドルトン石とが同じ化合物C24H12(コロネン)であることが指摘され、ペンドルトン石の名ははかなくも取り下げられた。
補記2:私は有機物質の生成に水銀が関与するのではないかと思っていたが、どうもそうではなく、むしろ堆積物中の微量の水銀が、高濃度に濃集して鉱床を形成するための(中間)溶媒として有機化合物が関与するのであるらしい。不安定な有機物はやがて失われ、本鉱など比較的安定な物質が留まって晶出するらしい。つまり水銀(辰砂)があるから有機鉱物が生じるのではなく、有機鉱物は水銀を濃集させる作用が起こった痕跡として存在するわけだ。ほんとうか?
補記3:アルマデン Al maden はアラビア語で「鉱山」の意(Al は冠詞)。ローマ時代にも掘られたが、12世紀頃ムラービト朝イスラムによって盛んに採掘された。 cf. ヘオミネロ博物館4
補記4:ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」のエピソード(1巻8章)に、ある青年が婚約者の女性を「落ち着きを知らぬ水銀娘」と評する箇所がある。「おどけていて、かわいらしく、気まぐれで、とても愉快なたち」のこの女性は、異国情緒のあるものや人に大変に興味を持って、旅をして回りたがっているのである。いかにもクイック・シルバー娘であろう。