孔雀石の発見はピョートル大帝の号令で推進されたウラル地方の鉱工業開発に促されて、エカテリンブルク南西60キロのグミョーシキに銅鉱脈が発見されたこと(古い鉱山の再開発)に発する。1702年のことである。
宝石質の石が初めから知られていたかどうかは謎だが、少なくとも鉱脈のカンテラとしての孔雀石は存在し(地表でも拾えたという)、鉱石として製錬に供されたことは確かである。
ウラルでは同時期にいくつもの鉱山が立ち上げられた。ロシア人など一人も住んでいなかった土地にロシア人の村が作られ、官営の工場が出来た。またウラル植民に先鞭をつけたストロガノフ家や、ウラル製鉄の雄デミドフのような資本家もそれぞれに鉱山を経営した。
グミョーシキ(gumeshevskoe)は当初官営で、ドイツ人の鉱山技師が操業を監督したが、製錬がうまくいかず、さっぱり利益が上がらなかった。これに目をつけたのがアレクセイ・トルチャニノフ(1704?-1787)で、1757年頃、ただ同然で鉱山とポレヴァヤ(polevskoi)
やスイセルチ(sysert)の村を手に入れると、数年のうちに経営を軌道に乗せて、あっという間に大金持ちになった。(補記1)
ロシアの作家バジョーフ(1879-1950)の民話「二匹のとかげ」は当時の事情を民衆の視点から語っている。(彼の作品群には、トルチャニノフやその夫人がいかに狡賢く、がめつかったかが切々と語られる。)
トルチャニノフはもとはストロガノフ家の領地(ソリカムスク地方)で塩を採って商っていた。銅を製錬する小さな工場も所有していた。鉱石を山積みにして焙焼し、熔かして粗銅をとり、熔かしなおして精錬して売った。手内職と変わらない小さな仕事だったが儲けになった。銅商売のうまみを覚えた彼はグミョーシキを調べにきた。ストロガノフやデミドフらは、ドイツ人がやってもうまくいかないのだからと見向きもしなかったが、トルチャニノフは銅山を手に入れ、職人を引き連れてポレヴァヤにやってきた。鉱石と設備とを調べた職人たちは、自分たちのやり方でなら、この鉱石から鉱滓と製品と半々にはいくと踏んだ。彼らの手法は塩屋らしく製錬に塩を使うもので、実際これでうまくいったのだった。
トルチャニノフは初めのうち、話の分かる旦那のように振る舞い、村人たちをおだてて使った。また遠くの村から家族連れを連れてきて働かせた。その頃、デミドフや周りのほかの工場主らはさまざまな逃亡者を使っていた。パシキール人や旧教徒も使った。賃金が安く、責任を負わずに好き放題出来たからだ。
だがトルチャニノフは、家族持ちのロシア人を使うほうがいいと考えた。故郷から引き離して元の村に戻れないようにすれば、家族が枷となって逃亡のおそれがないし、寄せ集めの者たちの間で起こる文化の違いによる不都合もないと考えたのだ。彼はまた農奴を買って働かせた。
2年ほど過ぎると、銅は以前の何倍も採れるようになり、鉱山は大きな収益を上げた。だが、村人たちの生活は旦那が約束した通りによくなるどころか、次第につらく、厳しくなっていくばかりだった。彼らは自分たちが鎖に繋がれたも同然であることに気づいた。働く者の数は増え、トルチャニノフはストロガノフもうらやむ財力を持つようになった。ストロガノフは、グミョーシキは自分の領地の中にあるのだから、トルチャニノフが所有するのは不当だと国に訴えたが、彼はうまく立ち回って咎めを受けなかった。
村の差配は管理人が一切を仕切り、トルチャニノフは一年の大半を都に住んで鉱山や村から上がる収入で豪奢な暮らしを楽しむようになった。
村人の暮らしは悲惨だった。銅山では人々は死ぬほど殴られ、工場では監督たちが暴威をもって圧制を敷いた。逆らう者には消防隊がきつい灸をすえた。それでも従わないと地下水の出る危険な切羽に鎖で繋がれ、粗末な食料で働かされた。水はもらえることもあったがもらえないときもあり、心臓に悪い坑道の水を飲んで渇きをしのぐほかなかった。どんな元気な若者でも持ちこたえられなかった…。
そんな農奴制の時代に、トルチャニノフはポレヴァヤの村に孔雀石細工を専門にさせる職人を持っていた(⇒
孔雀石の話)。また村人の中には副業で孔雀石の仕事をする者があった。もちろん金高によって(不作だろうとなんだろうと毎年定額で)要求される年貢を支払うためのもので、彼らは山のどこかからこっそりと孔雀石を拾ってきて、お金に換えた。孔雀石の細工でいやおうなく吸い込む粉塵は体に毒で、これにやられることを彼らは「目が緑色になる」と表現した。けして喜んでする仕事ではなかった。ちなみにポレヴァヤの近くにはムラモール(大理石)という名の村があって村人が大理石細工を作っていた。この村の娘は子供の頃から石細工の手伝いをするので、若くして肺を病み、長くは生きられなかったという。(cf.バジョーフ「シニューシカの井戸」)
バジョーフの「草地の穴」は、トルチャニノフ家が資金繰りに困ってスイセルチの工場村の半分をサロミールスコフに売り渡し、両者が利権をめぐって対立していた頃のお話である。具体的な年代ははっきりしないが18世紀末から19世紀初であろうか、(たいそうがめつい)トルチャニノフ夫人が生きていた時代だ。この村のある後家の亭主は生前孔雀石の仕事をしていたが、村の見張り役たちは彼がどこから石を採ってくるのか執拗に探っていた。亭主はいつも見張りをうまく撒いた。石を採る現場を見つけられたら最後、そこは旦那の持ち物にされて追い払われてしまうのだから、隠し通すほかなかったのだ。亭主が死ぬと見張り役は後家を拷問にかけた…。
貴石細工に使う美しい孔雀石が採れる場所は、地主が掌握する公けの鉱山がすべてでなく、村人たちだけがひそかに知る「隠れ穴」があったわけである。
当時はまだ帝国工房は孔雀石細工を本格的に手がけていなかった。
ウラル地方で採れる石材を用いた貴石細工はロシアの伝統工芸で、その始まりもまた18世紀初に遡る。17世紀末のウラル山脈は僻遠の地で、ヨーロッパとシベリアの間をつなぐ幹線道路沿いに、わずかな村や住居が点在しているだけだった。17世紀はツアーリ(ロシア皇帝)に許可を得たストロガノフ家がこの地域を自費で開発していたが、ピョートル大帝の時代になると、ドイツ人に訓練された国の鉱山技師たちが派遣されて金属鉱脈の探査を行い、またさまざまな色石(大理石、カーネリアン、ジャスパー、トパーズなど)を発見した。
大規模な調査によって得られた大量の標本がサンクトペテルブルクの都に送られ、ロシア科学アカデミー(1725年設立)はこれらを分類し、活用法を研究した。
1735年にアカデミーは、都の西15マイルの(夏宮がある)ペテルゴフ(ペテルホフ)に石材研磨工場を与えられた。当初は主に大理石を、後にはガラス製品を磨いた。19世紀に入ると石細工工場に模様替えし、以後ペテルゴフ・ラピダリー・ワークスとして知られた。3つの帝国ラピダリー工場の最初のもので、こことエカテリンブルクの工場とは、後に孔雀石細工に特化する。(補記2)
18世紀後半、エカチェリーナ2世の治世期(1762-1796)には、石材調査がさらに熱心に行われた。石の収集が趣味で派手好きな女帝は、サンクト・ペテルブルクの都を美しく装飾する石材の調達を図るため、イワン・ベツコイ(1704-1796)にウラルやアルタイ山地の地質学調査を委託した(ベツコイが女帝に提案したという)。
1765年、ベツコイが直接指揮する遠征隊がウラルに派遣され、大理石そのほかの色石を調査した。エカチェリーナはイタリアの石細工職人2名を雇って隊に送り込んだ。それまでの遠征では隊員たちが石材に対する十分な知識を持っておらず、満足な成果が得られたとは言い難かったからだ。イタリア職人の任務は、発見された石材を切り出して研磨し、提供された美術品(またはデザイン画)を元に模造品を作ること、そして女帝が任命した者に石の研磨・艶出しの技法と、彼らが専門とする石細工技術とを伝授することであった。
エカテリンブルクの帝国ラピダリー工場が体をなしたのはこの頃である。1780年代にはウラル山脈における色石の調査/開発は相当な規模で展開されていた。しかし、遠征隊の採集品の中に孔雀石は含まれていなかったようである。ひとつには孔雀石は貴石細工のための石材というより銅鉱であって、冶金用の鉱石とみなされていたからであり、また宝飾に適する孔雀石がグミョーシキ以外では知られていなかったからでもある。
グミョーシキの孔雀石の素晴らしさは、1770年代から80年代には世間に広く知られていた。しかしトルチャニノフはこの石を帝国に提供するつもりはなかったとみえる。というのは
1771年に遠征隊が、エカチェリーナ2世の冬宮の装飾に使うためとして、最低半プード(約8kg)の孔雀石を譲ってほしいと求めたのに対し、彼はもう孔雀石は採れなくなったと断りをいれているのだ。
「この種の銅青が出たことはありましたが、ごく稀にナゲットが採れただけで、それももう何年も昔のことです。私はそれをいろんな用途に使い尽くしてしまいました。鉱山では今はほんの小さなカケラさえ見つかりません」
孔雀石の話に記したように、
グミョーシキでは1775年に重さ1,504kg
の大塊が掘り出されること(そして秘匿されたこと)を考えると、これは態のよい言い訳のように聞こえる。もちろん、ほんとうに何年も孔雀石が採れなかったのかもしれないが、ただ断りたかっただけかもしれない。
ところで上述のように、エカチェリーナ2世がイタリア職人に命じたことの中に「美術品の模造」があった。西ヨーロッパの高価な美術品と同様のものをロシアの産物を使って安価に製作するということである。ピョートル大帝が西欧の武器を国産化したのと同じ発想であり、また明治維新以降の日本が西洋文化の吸収のため一貫して行ってきた行為と同じ発想でもある。デミドフやストロガノフのような貴族たちも同じことを考えていた。彼らはパリやナポリやフィレンツェを訪れて芸術品を買いつけたものだが、一方で持ち帰った品々を模造させた。そのために西欧の建築家や工芸職人や芸術家をロシアに呼び寄せた。それは啓蒙時代のロシア上流階級のいわば流行であった。
だとすれば、トルチャニノフが自分の銅山で採れた孔雀石をどう使ったかもおおよその見当がつくし、貴重な孔雀石を他の製作者の手に委ねたがらなかった事情も推察できるように思われる。
もっともトルチャニノフ本人が原石を売らなかったとしても、都から買い付けにきた商人に村人が闇で売った孔雀石の小規模な流通ルートは存在したかもしれない。1784年にペテルゴフで製作されたオベリスクの基部には孔雀石の装飾が施されている。
また博物標本(博物学もまた当時の上流階級の流行だった)として出回った原石もあった。アレクサンドル・ストロガノフ(1733-1811)のコレクションには約0.6x1.2m大の孔雀石の卓状塊があった(現フェルスマン鉱物博物館蔵)。彼は1800年にロシア科学アカデミーの局長となって、ペテルゴフとエカテリンブルクの石工場を監督したから、その筋から標本を入手出来たものと思われる。
宝石質の孔雀石は、トルチャニノフの晩年あるいは死後にはそれなりに流通した様子があるものの、産地がグミョーシキに限られていた1810年代まですこぶる貴重品で、伝手のある一部の王侯貴族は別格として、市場での調達は相当に困難だったようだ。
1813-14年頃、デミドフ家の4代目ニコライ・N・デミドフの召使いでウラル地方の領地(ニジニ・タギル)の管理人だったイヴァン・リャボフは、主人の命で孔雀石を手にいれようと非常な苦労をしたものである。リャボフは知人を頼ってなんとか4.5ポンド(約2kg)分の孔雀石を入手したが、一方で「トルチャニノフ夫人が所有する名だたるグミョーシキ鉱山で採れる孔雀石は、然るべき人物が然るべき投資を行うならば、当家が所有しながらこの40年間放置されたままの鉱山(メドノ・ルジャンスカ)においても見出しうるものと考えます…」、と主人に書き送っている。デミドフは、「大きな孔雀石細工を作るつもりだから引き続き石材を集めるように」、「1ポンド300ルーブルで買えるなら文句はない」と返信した。
(※その後ルジャンスカの銅山で宝石質の孔雀石が発見されたことにより、デミドフ家は
19世紀を通じて孔雀石原石の最大の供給者となる。そして夥しい数の孔雀石細工を所有する)。
ピエトラ・ドゥーラ(単数形)、あるいはピエトラ・ドゥーレ(複数形)。イタリア語で「堅い岩」を意味する言葉である。もともと立体的に彫刻した宝石や岩石の彫塑を指していたが、やがて専ら色石を使ったイタリア製の平面的な象嵌細工を指すようになった。
研磨した石の切片を組み合わせて幾何学模様や花柄模様、あるいは人物像や風景を描く象嵌技法である。研磨してカットしたさまざまな形の色石タイルを、あらかじめおおまかに組み合わせておき、それから石を一つづつ固定していく。複雑な形の境界を石と石との継ぎ目がほとんど見えないように精確に合わせることで高い堅牢性を得る。描かれた絵の周りを直線的な石のフレームで囲って完成させる。一種の寄木細工である。
使用する素材はさまざまだが、特に大理石が好まれ、絵画効果を高めるために色や模様の美しい貴石、半貴石が用いられる。たいてい緑、白、黒色などの大理石の台石の上に嵌め込まれ、仕上がり面は完全にフラットになっている(なかには浅いレリーフ仕上げのものもある)。
この石絵細工は 16世紀のローマで最初に現れ、17-18世紀のフローレンス(フィレンツェ)で完成の域に達した。フローレンス・モザイク(Florentine mosaic)とも呼ばれる。
その起源は古代ローマで床や壁面に行われた幾何学デザインあるいは図像デザインの装飾にあるといわれ、中世期にはコズマーティ様式の床や小形の柱、墓や祭壇などにこの種の象嵌がみられる。象嵌の床はビザンチン芸術に引き継がれた。その後、ルネッサンス期のイタリア諸都市でリバイバルされ、「石に描く絵」、「永遠の絵画」として高く評価されたのだ。
メダイヨンやカメオのような小さなものから、壁に飾る額、扉やキャビネットに嵌めるパネル、鉢、装飾用植木鉢、そして庭の置物、噴水、ベンチのような大きなものまであらゆるものが作られた。テーブルトップ(意匠装飾したテーブル上面)はことに人気を集めた。
1780-90年代には、このピエトラ・デューラの中にロシア産の孔雀石やラピス・ラズリを使ったものが出てくる。ウラルやアルタイの石材はロシア国内だけでなく、西欧圏でも利用されたのである。(シベリアのラピス・ラズリが発見されたのは
1786年(ラクスマンと光太夫2)。この種の石材のソースは一般にロシアと考えられているが、ラピス・ラズリについてはアフガニスタン産であってもおかしくない。)
一方、西欧の職人たちはロシア貴族の求めに応じて高額で召抱えられ、ロシアの地に石細工技術をもたらした。その代表的な例は1790年代にサンクト・ペテルブルクのサイモノフ家(ロマノフ家に繋がる名門)に招聘されたイタリア人のスパンであろう。彼は大理石細工のマスターで、サイモノフの地所で貴族たちのために大理石装飾品を製作し、また孔雀石や碧玉、ラピスラズリを用いた化粧張り細工を製作したことが記録されている。それらはニコライ・シェレメチェフ伯爵の館やマリア・フョードロヴナ皇太后(1759-1828)の居室を飾った。(シェレメチェフ家が所有した孔雀石細工はオスタンキノ宮殿に保管されている)
サイモノフ家はウラル資源開発の責任者の一人で、ウラルやアルタイ産の石材を直接手にいれるルートを持っていた。ミハイル・サイモノフは都の鉱山局を設立した人物であり(1773年)、ピョートル・サイモノフは1784年から1793年までその局長を務めた。そしてトルチャニノフの娘婿コルトフキーが、サイモノフの下、エカテリンブルクで働いていた。
スパンはロシアの農奴たちに孔雀石細工の技法を伝授したという。政府の農奴で彫刻家として有名になったフョードル・ミハイロビッチ・シュービン(1740-1805)も教えを受け、スパンの下で9年間修業して石細工をマスターした。シュービンが2年間かけて製作した孔雀石(張り)の大きな鉢は、デンマーク大使に 37,000ルーブルで売られた。また同じくらい見事に作られたテーブルはイギリス大使が買って本国に持ち帰った。19世紀初のことである。孔雀石細工を専門に扱う業者もすでに存在したようで、彼から直接買い付けるのと業者を通すのとでは値段が倍違う、それでも大理石製のアンティーク製品よりずっと安くつくという評判であった。
もう一例はやはり1790年代初にマリア・フョードロヴナ夫妻(当時夫のパーヴェルは皇太子)に雇われたイタリアの建築家ヴィンセンツォ・ブレンナで、夫妻の館は彼が製作した各種の大理石や緑色の模造大理石のインテリアで飾られた。その中に孔雀石のテーブルや、孔雀石とラピスラズリを象嵌したマントルピースと扉なども含まれていたという。
ちなみにマリアの息子でパーヴェル1世の後を継いだアレクサンドル1世(1777-1825)は、アウステルリッツの戦いに敗れた後、フランスのナポレオン1世と講和を結び、しばらくの間誠実な同盟者として振舞った(もともと彼は専制君主化する前のナポレオンに敬意を抱いていた)。その時期(1808年8月)に友好の徴として花瓶やテーブルトップなど数点の孔雀石細工を公式の贈物にした(現ヴェルサイユ収蔵品)。(補記7)
この時から、ウラルの孔雀石とその作品は、ロシア(の国土)を象徴するものとみなされるようになった。西欧にとって孔雀石細工は、(西欧風のデザインではあったが)、はるか東方、異文化の地のエキゾチックな風を伝える工芸品なのであった。
ウラルの民話や民俗に造詣のあったバジョーフや鉱物学者のフェルスマンは、孔雀石工芸はウラル地方の民衆の間で、いわばロシアの土の中から、自然に生み出されたと公に述べている。
たしかに孔雀石の小さな塊(板)を組んだり、彫刻した素朴な作品、ことに18世紀末までに、グミョーシキ産の石を使ってウラル地方で作られたものについてはそういうことも可能であろう。しかし都の貴族の館を飾った豪奢なマスターピース、19世紀以降孔雀石細工の代名詞となる精緻な化粧張り細工の作品についてはどうだろうか。
この種の工芸品では、薄片の研磨、整形、組み合わせ、張り合わせに高度なモザイク技術が必要になる。技術の基本はやはり西欧からもたらされたのではないか。その上にロシア人たちが独自の工夫を加えて、他国に類のない作品を生み出すまでになったのではないか。
化粧張り技法は、一言でいえば安価な基材の上に高価な石材(孔雀石)を薄く貼り合わせて巨大な面を形成し、あたかも無垢の塊ないし一枚板で製作したかのように見せるものである。さまざまな色石を組み合わせて人物像や風景などを描くピエトラ・デューラとは一見趣きを異にする。しかし、孔雀石自体がメノウのように複雑で美しい模様を持っている。小片を巧みに組み合わせて、モノトーニアスな色調の中に複雑でシンメトリカルなパターンを演出する芸術技法は、やはりピエトラ・デューラの衣鉢を継ぐものといえよう。
そしてロシアの都や遠くウラルの農奴(職工)たちに石の研磨や細工を手ほどきし、西欧風のデザインを伝えたのは、主にイタリアの石職人グループだったと考えられるのである。
かくて 18世紀末から19世紀初には、ロシア貴族たちの館はウラル産のさまざまな石材を使った装飾品で飾られ、華美を競っていた。珍しい孔雀石はその白眉として垂涎の的になったと思われる。
従来専ら冶金用の鉱石と考えられていた孔雀石が、品質によっては優れた宝飾品になることから、政府は1821年に宝飾用の孔雀石(やほかの色石)への課税を導入した。一方ではトルチャニノフの娘の一人ナターリャ・コルトフスカが銅製錬の助剤として孔雀石がいかに有用であるかを指摘している(1829年)。
都の商人たちは、たいていの場合孔雀石を、課税対象となる宝飾品でなく鉱石サンプル扱い(博物標本扱い)で売買した。
孔雀石細工は 1810年代には芸術品としてロシア国内でも西欧圏でも高く評価されるようになっていた。しかしその真に偉大な時代は、この後、ニジニ・タギルに第二の産地が見出され、大量の宝飾用孔雀石が供給可能となった時から始まるのである。
(2015.2.10)
(続く)⇒孔雀石の話3
補記1:アレクセイ・トルチャニノフは孤児だったが、ソリカムスク地方で製塩や銅売買を手掛けていた富裕な商人に拾われ、商才を認められて娘婿に収まった人物であった。義父には嫡子がなかったので、トルチャニノフ家の財産を(娘の持参金を含めて)すべて相続した。弁舌が巧みで人当りがよく、市況を先読みして、投資や起業を行う実行力も具わっていた。ユーモアがあり人々に尊敬される術を心得ていた。非常な幸運の持ち主で、ソリカムスクに土地を求めた時、手に入れた直後にそこから銅鉱が出て巨利を得た。品質の良い銅が高く売れることに気づくと精錬技術の改良に取り組んだ。彼は優れた職人を雇い、都の宮廷に納めても恥ずかしくない銅を作った。
1756年にスイセルチの工場村の下げ渡しを国に嘆願した。それだけが、彼が製塩業で蒙った損害を補償し得るのです、というのだった。工場村を手にいれ、鉱山を手にいれると、古い設備を流用しつつ、技術改良に取り組んだ。事業は大成功をおさめた。
ブガチョフの乱(1773-1775年の農民戦争)の時、軍隊を組織してスイセルチを防衛した。その功によって
1782年に貴族に列せられた。
補記2:1726年、ストックホルムのクリスチャン・レフは雇われてエカテリンブルクに赴任し、色石資源の調査を行った。地元の農奴たちに水晶やトパーズ、碧玉等の石彫技術を教えた。
1738年、石工のヤコブ・ライナーはウラル大理石の切り出しを監督して、石材をサンクト・ペテルブルクへ送り出した。
1751年、エカテリンブルクに2つの石工場が作られた。ひとつは大理石を、もうひとつはほかの色石(メノウ、碧玉、トパーズ)を専門に扱った。後者は1773年に火災で焼失したが、79年に地元の石工たちの手で再建された。石工のほとんどは国の農奴だったが、自由時間には自家用の製品を作ったり、小品を作って一般市場で売ることができた。工場の最盛期はアレクサンドル・ストロガノフが長を務めた1800年から1811年にかけてで、ストロガノフが死ぬと財務局の傘下に組み込まれ、以降は宮廷の御用注文をこなすのみとなった。
補記3:エカチェリーナ2世の博物学コレクションは膨大なものだった。女帝はエルミタージュに私設博物館を持ち、1790年には彫刻された石のコレクションだけで1万個以上を集めていた。博物館の大ホールの2つが石の標本で占められた。
補記4:インドのアグラで製作されているムガール風の大理石細工も、もとはイタリアのピエトラ・デューラの技法が伝搬したものとみられる。ロシアの石細工と同様、模倣から始まってやがて独自のスタイル(ペルシャないしイスラム風デザインの作品)が生まれた。インドではパーチン・カリ(象嵌細工)と呼ばれる。
補記5:1786年にグミョーシキ鉱山を訪れたヨハン・ペーター・ファルクという旅行者は、「切り出して磨かれた板状の孔雀石を見たが、大きいものは30センチ四方あった」と述べている。また石灰岩の上に薄片を貼り合わせた板状のサンプルも見た(一枚板と同様の効果を安価にあげられる)。
補記6:ウラル産の色石(大理石等)の薄片を化粧張りする技術は1780年代に導入されたとみられ、この時期サンクト・ペテルブルクに二つの専門の工場が作られた。孔雀石の化粧張り細工はこの頃から技術的に可能になった。
補記7:アレクサンドル1世は 1824年にウラル地方に行幸したとき、グミョーシキ鉱山やミアースクの金鉱床に足を延ばした。
補記8:18世紀後半から19世紀初のロシアは、工業を発展させるべく外国(ドイツやスウェーデン)の技術が入り、また輸出産業によって得た富の増大に伴ってフランスやイタリアの文化が入ってきた時代(思想的には啓蒙の時代)であった。
ロシアに君臨し国を動かしていたのは、ロシア人の血の流れていない人々であった。女帝エカチェリーナ2世(ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ)はドイツ生まれで、フランス人の家庭教師に教育を受けてドイツに育った。成婚後、猛勉強してロシア語を覚え、ロシア文化を吸収した。
彼女の息子で後に皇帝となるパーヴェル1世の妻マリア・フョードロヴナ(アレクサンドル1世の母)もドイツ(現ポーランドのシュテッテン)生まれ。フランス国境近くで育ったため、フランス風の文化教養を身につけていた。
都の居留地には多くの外国人が暮らし、ウラル地方にも高給取りの外国人技術者たちがいた。ロシア人貴族は領地で作られた農作物や工業製品(鉄や武器など)を輸出して莫大な収入を得ていた。
ロシアの上流階級は外国に目を向け(貿易で富を得て)、その文化や気風を取り入れることに夢中のようで、ロシアの民衆(農奴)の生活を少しも省みなかった。少なくとも民衆の目にはそう映った。バジョーフはそうした民衆の苦い気持ちを民話に託して語ったのである。
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