このページではニジニ・タギル地方での孔雀石(マラカイト)の採掘と、19世紀における孔雀石細工の隆盛について述べる。
(関連ページ: 孔雀石の話、 ロシア帝国の成立とウラル鉱工業の始まり、 孔雀石の話2、 グミョーシキ産孔雀石の産状について)
ニジニ・タギルはウラル山脈の東斜面、タギル川とヴィーヤ川の合流点にあってリシャー山のふもとに広がる水都である。18世紀初にデミドフ家が製鉄都市として拓いた。その黎明期、ウラル鉱工業の祖ニキタ・デミドフ(1656-1725) は地元民が孔雀石の小塊を持っているのを見て、この地に銅鉱が出ることを察したが、彼と息子アキーンフィ・ニキーチチ(1678-1745)の代にはあまり豊かな鉱脈は見い出されなかった。1720年代に銅製錬・精錬施設が建造されたものの(ヴィースキーの精銅所は1722年に設立)、低品位鉱による生産は振るわず、産業的には豊かな磁鉄鉱脈に支えられた製鉄に軸足をおく時代が長く続いた。
1770年に自然科学者のP.S.パラス(1741-1811)がニジニ・タギルを訪れたとき、ヴィースキーの工場ではおよそ4,000人が働き(うち800人は子供)、町の周囲には巨大な鉱石の掘り跡があった。彼はこの地で大量の銅鉱が掘り出されてきたこと、グミョーシキ産に似た腎臓状の孔雀石も沢山採れたことを述べている。だが当時、孔雀石は宝飾材としての価値が認められていなかったし、銅の製錬はほとんど利益を生まなかったので、銅山はほどなく打ち捨てられたも同然となった。
状況が変化したのは 1813年のことである。この年、ヴィソーカヤ(高地の意)山地の南斜面のルジャンスカに豊かな銅鉱脈が発見された。地元に住むクジマ・スクルーブスという人物が、庭に井戸を掘っていて当てたのだという。翌 1814年にはメドノルジャンスカ鉱山の本格稼働が始まった。
ウラルの領地の管理人リャボフが、ニコライ・ニキーチチ・デミドフ伯(1773-1828)に宛てた1813年10月の書簡には、主人の命に従って細工用の孔雀石を八方手を尽くして買い付けていること、トルチャーニノフ家が所有するグミョーシキ鉱山について調査したが、ニジニ・タギルにあるデミドフ家の(ルジャンスカ)銅山は地質がグミョーシキに似ていること、蒸気(排水)設備も製錬技術も彼我に遜色ないものであって、ただこれまで然るべき人材がなく、開発されず改良されず調査もされず
40年間放置されていたのが惜しまれること、彼ら(鉱山の者たち)は今でも開発の是非を疑っていること、それでも手をつけてこなかった地域の地表調査を始めていることが書かれている。
鉱山業や鋳造業へのテコ入れを推進していたニコライは、鉱脈の発見を機にインフラ整備を指示したが、銅産の増大ばかりでなく、宝飾品質の孔雀石が出るかもしれないという期待もあったに違いない。
掘り出された銅鉱は設備を一新したヴィースキーの古い精銅所で製錬された。操業はその後順調に推移し、19世紀後半にはロシアの銅産の4割をデミドフ家が担う。
1872年の精銅産量はニジニ・タギルだけで1,500トンに上ったという。ブラウンズ
は20世紀初のメドノルジャンスカの銅産を年1,240トンと述べている。
ニコライはニキタから数えて4世代目の事業継承者である。父親のニキタ・アキーンフィエヴッチ(1724-1789)は2代アキーンフィの三男で、ウラルやシベリアの鉱山・鉱業事業を受け継ぐ一方、芸術や学問にも関心を抱き、また大の旅行家でもあった。広大な地所をロシア中南部やイタリアに所有し、博物学標本や美術品の熱心な収集家であり、広くヨーロッパを回って、技術・芸術の知識・物産を国に持ち帰った(イギリス産業革命とヨーロッパ啓蒙主義の時代だった)。才能ある若者をモスクワやペテルブルク、あるいは外国に送って教育を与えた。ウラル鋳鉄工芸の育ての親でもあった。晩年になってようやく3番目の妻アレクサンドラとの間に子供を授かった(1男2女)。そのため嫡子ニコライが父の遺産として、ウラルやシベリアの8つの鉱業施設群、12,000人の農奴、そして莫大な年収を相続したのは若干15歳の時だった。
ニコライは帝国への奉仕として公務にも就いた。彼のキャリアは軍役に始まったが、1795年にストロガノフ家の令嬢エリザベータと結婚すると外交官職をもらってパリに赴任した。短い期間だがパーヴェル1世の統治期には侍従や枢密院議員の地位も与えられた。ニコライはナポレオンに心酔したが、19世紀に入るとロシアとフランスとの関係は次第に緊張の度を増してゆく。
1812年にロシアに戻り、ナポレオンのロシア侵攻には私費で編成したデミドフ歩兵連隊を率いてフランス軍と戦った。戦後はトスカーナを拠点にフランスとイタリアを行き来する生活を送り、晩年をフィレンツェに建築したサン・ドナート邸に暮らした。
ヨーロッパの最新技術の吸収に努め、父から受け継いだ鉱山・冶金事業を発展させた。事業規模は倍増し、彼の年収は500万ルーブルに達したという。やはり父の嗜好を継いで芸術に情熱を示し、膨大な数の美術品や博物標本を収集した。公共事業や慈善事業へも多大の貢献をした。
フランスで暮らした青年時代に集めた収集品には貴重な博物標本が多数含まれていた。これらはモスクワ戦による被害を奇蹟的に免れ、コレクションの大半を焼失してしまったモスクワ鉱物博物館(一族の自然史学者パーヴェル・グリゴリーエヴィチ・デミドフが創設した)に1813年に寄贈された。またモスクワ大学にも多数の美術品を贈った。(補記3)
ニコライはパリの美術商や工房とのつきあいが生涯続き、有名なフィリップ・トミールのブロンズ工房の上客であった。先の手紙はトミールに作らせるブロンズ工芸品の装飾に必要な孔雀石を集めていた頃のものと思われる。1816年にトミール社は巨大な孔雀石細工(メディチ風花瓶)の製作を受注し、1819年に納品している。
1819年にニコライは PFトミールに大量の工芸品を発注した。契約にはニジニタギルの鋳造見習い工を5年間
トミールに預け、技術を伝授させることが含まれていた。(16歳の)見習いの少年
F.F.ズヴェスジナ Zvezdina は職工農奴の息子で、パリでの徒弟生活を終えるとベルリンでさらに技術を磨き、1830年にウラルに戻った。そしてヴィースキーでは
1832年頃から見事なブロンズ製品が製作されるようになった。
1827年にはフィレンツェ郊外のサン・ドナート邸に孔雀石の間を作る契約を交わした。この仕事はニコライの死後、1834年に完成した。邸宅は外交官として西欧貴族社会で一生を送った次男アナートリー(1813-1870)が継承した。長男のパーヴェルははじめ軍官として、それから文官に転じてロシア国内で暮らした。デミドフ家の鉱業事業は彼らの代に益々大きくなっていった。ニジニ・タギルの人口は1837年には2万人に達した。
メドノルジャンスカでは小粒の孔雀石は当初から掘り出されていた。研磨に向かない小さな破片は高品位銅鉱として製錬に回され、純度の高い銅が得られた。
しかし宝飾細工に適した塊状の石が大量に採れるようになったのは
1826年(遅くとも 1831年)頃からと言われる(※今のところあまり裏付け情報を見出せていないが、おそらくこの頃からウラルでの孔雀石製品の生産が商業規模に拡大した、といったニュアンスと思われる。ちなみにメドノ産の孔雀石標本は1820年までにイギリスの標本商ヒューランドのコレクションに加えられている。レビィはこの標本からブロシャン銅鉱を記載した。⇒cf.
ターナー・コレクションと新記載鉱物)。
1835年には
ナジョーズナヤ坑(nadezhnaya) の地下
80mあたりで、史上最大級の巨塊が発見された。地質学者のキーエフレンコによれば、この箇所から採集された宝飾品質の孔雀石は総量480トンにのぼり、完全に掘り出すのに1841年から56年まで15年間かかった。塊から取り出された最大の単岩は40トンの重さがあった、という。(文献によって、最大
20トン、30トン、3000プード(48トン)などさまざまに言われる)
米人紀行作家のトマス・ウォレス・ノックス(1877)は、「25年ほど前のこと、銅鉱を採掘していた鉱夫たちが地底に向かって伸びてゆく、いくつかの鉱脈を見つけた。富鉱に辿りつくかもしれないと考えた坑夫長は彼らに脈を追わせた。地底に向かって坑道が掘られ、迷走してゆく脈のすべてが追跡された。ところが地下 280ft(84m) に至ると、もはやどんな細い脈も消えてなくなってしまった。坑夫長は計画をほとんど断念した。まさにその時、ふいに巨大な孔雀石に行き当たったのだ。塊はバラバラに割られて地上に運ばれた。集塊の重量は 70トンに及んだとみられる。St.ペテルブルクの聖イサーク大聖堂の装飾に用いらた孔雀石の大半はこの大塊から採られたものだった。またロシア皇帝がローマ教皇聖下に贈った巨大な花瓶もこの石によって装飾された。」といささかの情感を添えて述べている。
掘り出された孔雀石の塊は橇に載せてエカテリンブルクの研磨工場へ運ばれた。
3x2.5x1m大、重さ約 30トンのある塊は、これを引くのに
125頭の馬を要したという(石の重量だけで、1頭あたり240kgの負担になる)。
工場では、テーブルトップやマントルピース、花瓶や燭台、机上時計、碗や鉢、その他さまざまな装飾品が製作され、孔雀石で化粧された。メドノルジャンスカ産の孔雀石は、集塊の様子といい色の具合といい模様といい、グミョーシキ産のそれによく似ていたが、クリソコラ、シャタック石、擬孔雀石などに置換した部分が幾分多めに混じっていた、とヴェルシュコフは述べている。孔雀石部分の色はたいてい明るいめで、濃淡模様がはっきりしていた。ほぼ潜晶質の淡緑色の幅広の帯の間に濃色の狭い帯が挟まっていた。
この種の孔雀石で作られた大形の作品は実に見栄えがよく、「デミドフ」と呼ばれた。孔雀石の大塊はデミドフ家の銅山の特産であったし、また巨大な工芸品の製作には大量の孔雀石が必要だったからである。大形といってももちろん無垢ではなく、表面に薄く孔雀石が化粧張りされていたのだったが、見る者にはまるで一つの巨大な塊から彫り上げたような印象を与えるのだった。
1836年には建築家モンフェラン(1786-1858)の設計で、ペテルブルクのデミドフ邸に孔雀石で装飾した居室が設けられた。その後も各地にあるデミドフ一族の邸宅に、膨大な数の孔雀石細工が収蔵されてゆくことになる。田舎風邸宅(ダーチャ)に孔雀石を用いた装飾品や広間をおくことは、ロシア貴族たちの間で一種のステータスとなっていた。
孔雀石のパトロンとしてデミドフ家の名を世間に印象づけたのは、サンクト・ペテルブルクの冬宮に作られた「孔雀石の間」だろう。ネワ川畔にある冬宮は、18世紀後半、エカチェリーナ2世(1729-1796)の時代に落成した建築物で、帰国の決まった大黒屋光太夫が女帝に最後の謁見を許されたゆかりの宮殿である。ニコライ1世(1796-1855)の治政
1837年に火災に遭い、 30時間にわたって燃え続けて大部を焼失したが、皇帝は全土から職人を集めて再建にあたらせ、わずか15ケ月間で新宮殿を完成させた。
孔雀石の間はこのとき新たに造られたもので、焼失した碧玉の間に替わり、ニコライ1世の妻、アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后の接見の広間として用意された。建築家アレクサンデル・ブルイリョフの設計になり、白い壁を背景に孔雀石で装飾した濃緑色の円柱が四囲を飾り、やはり孔雀石張りのマントルピースが据えられた。こうした装飾に必要な石材を提供したのがデミドフ家だった。
内装の仕上げは1838年に始まり、翌年に完成を迎えた。約200ポンドのニジニ・タギル産孔雀石が用いられたという(補記4)。台柱や片蓋柱が16本、暖炉のマントルピース2ケ、大小さまざまな装飾花瓶が7ケ、6つのテーブルなどがこの石で装飾された。さまざまな装飾家具と共に、
ピョートル・ガンズ
Gambs
(1802-1871)の工房で製作されたものである。
「銅山のあねさま」に始まるバジョーフの一連の創作民話で、主人公のスチェパーン(ステパン)は最上質の孔雀石の大塊をグミョーシキに掘り出し、「孔雀石の小箱」では彼の孔雀石がペテルブルクの皇帝の宮殿を飾っていると語られる。そしてあねさまの薫陶を受けた彼の娘は、ちょうどトルチャーニノフの大旦那(1704?-1787)が亡くなった頃、孔雀石の柱で支えられ、壁に孔雀石を張り巡らした大広間で女帝(皇后)と対面するに至るが、史実では宮殿の孔雀石(の大半)はメドノルジャンスカに出たものであり、時代も半世紀ほど後のことになる。ただ宮廷におかれた孔雀石の壺や工芸品には
19世紀初に製作されたもの(火災を免れたもの)があったといい、これらはグミョーシキ産の石を使っていたと思われる。
孔雀石の間は帝政期を通じて公務室と私室とをつなぐ役割を持ち、皇后の公式応接室としても、また皇室一家が公務の前やその合間に集まる場所としても利用された。今日では国立エルミタージュ美術館の一部となっているが、部屋の装飾は往時のままだという。
同じくサンクト・ペテルブルクのネワ川畔にある聖イサーク大聖堂は、1818年に竣工され、完成まで 40年を要した大建築である。巨大なドームの壁柱や床は様々な色彩の花崗岩や大理石など 16種の石材で化粧され、数多くの石彫で飾られた。これらの石のほとんどはウラル山脈やシベリア地方に産したものである。祭壇を囲うように配置された高さ9mの石柱は、8本が孔雀石の化粧張り、また2本はラピスラズリの化粧張りで、緑と青の対比が荘厳な雰囲気を醸している。ラピスラズリはあいにくシベリア産でなく、色味の明るいバダフシャン産が採用されたが(cf.No.324)、孔雀石はもちろんメドノルジャンスカ産である。デミドフ家は1843年4月、寺院に 1,500ポンドの孔雀石を供給する契約を請けた。建築家のモンフェランは最上質の石でなければならないと注文をつけたが、かの巨塊の発見により、それだけの量を確保できる見込みが立っていたのであろう。(※この聖堂の孔雀石柱もまた、バジョーフの作品ではスチェパーンが掘り出し、トルチャーニノフの大旦那が寄付したもののように描かれている)
大形・中形の作品ばかりではない。小箱や装身具(ブローチ、イアリング、カフリンクス、ビーズ)など小さな調度品や身の回り品もまた孔雀石で飾られた。宝飾工房ファベルジュの繊細な彫刻作品が有名だが、ペテルホフやエカテリンブルクの官営工場でも数多くの御用品が作られた。精巧な孔雀石細工はロシア帝室の贈り物として知られていた。
バルザックの人間喜劇のひとつ「従妹ベット」(1846-1848)に、「銅にクジャク石をはめこんだ小箱をあけた。ロシアのアレクサンドル皇帝からの賜物だった。…金がちりばめられた箱の蓋にはロシア皇帝の紋章が金で彫られていた。」という条がある。
アレクサンドル1世がフランスのナポレオン皇帝に贈った品を仄めかしたものと思われるが、以来孔雀石細工はロシアの伝統工芸となっていた。かつてイタリアの貴石職人やフランスの工芸家から伝授された技を、ロシア人は自家薬籠中のものとした。化粧張り技術は
19世紀半ばに完成の域に達した。孔雀石細工と黄金色のブロンズ像とを組み合わせた、緑金の対比の美しいフランス宮廷風の豪奢な美術品が作られ、この時代のロシアを代表する物産としてヨーロッパ中に送り出された。
ちなみにフェルスマンは、貴石を用いたモザイク技術は古くからロシアのお家芸であり、孔雀石細工において頂点に達したと考えていた。たとえばシベリア産のラピスラズリの薄片を用いたモザイクでは、石は単に土台石の形状に合わせて貼りつけられればよい、ところが孔雀石ではその模様がもっとも高い視覚効果を発揮するように薄片を選別し、組み合わせる必要があったからである。化粧張りされた石は、全体として調和のとれた統一感のある模様を描き出していなければならない。彼はこの技術はペテルゴフ(ペテルホフ)で完成されたとみなしたが、一方でその起源はウラル地方の職工たちの仕事に遡るとした。
孔雀石細工は欧州各地で開かれる見本市に欠くことの出来ない重要な物産品であった。サンクト・ペテルブルクやモスクワ、ペルミ、ニジニ・タギルなどロシア国内の見本市に出展された「デミドフ」作品のいくつかは今日でもニジニ・タギルの博物館に見ることが出来る。
1851年のロンドン万国勧業博覧会に、デミドフはペテルブルクの工場で製作した孔雀石製品を出展した。大小さまざまな花瓶、マントルピース、テーブルや椅子、文鎮、ブロンズの時計台などである。圧巻は鋳鉄に孔雀石を化粧張りした巨大な扉で、63万5千ルーブルの値段がつけられていた。まるで孔雀石の一枚板を磨き上げたような堂々たる扉であった。これらは象嵌モザイクとして高い評価を受けた。上流階級はもとより、広く一般大衆までが孔雀石細工を親しく目にして、その美しさを知るようになった。石工業者の間では象嵌素材としての孔雀石にも関心が集まった。
膨大な数の製品が輸出された。フランスやイタリアやドイツの貴石工房はエカチェリンブルクに仲買人を置いて孔雀石の板材を買い集めた。孔雀石細工はロシアの富の象徴だった、とフェルスマンが述べた通り、この緑色の石はロシアに大きな富をもたらした。19世紀はまさにロシア産孔雀石の世紀となった。
メドノルジャンスカの銅鉱床は1917年頃まで地下採掘が続けられ、閉山時には数十に及ぶ縦坑が掘られていた。大量の宝石質孔雀石が採掘されたのは
1834〜1866年、及び 1895〜1905年の期間だったという。
閉山後の調査で銅の鉱脈はすっかり採り尽くされたことが確認された。坑道を支える鉱柱にはまだ孔雀石が残っていたが、再開しても採算に乗らないことは明らかだった。ちなみにメドノルジャンスカの採鉱作業は坑道に浸出する湧水との戦いでもあった。
それにしても閉山の何年も前に、すでに孔雀石はほとんど採れなくなっていたようである。
その頃には人々の嗜好も移ろっていた。19世紀中葉に作られたような大形作品はすっかりなりを潜めた。欧州の情勢は様変わりし、ナポレオンを破ってヨーロッパ最大の陸軍を誇ったロシアの勢威は衰え、近代化著しい西欧資本主義社会からの立ち遅れが目立っていた。(1861年に)農奴は解放されたが貧困層の生活は一段と厳しくなり、不健全な資本主義経済下で工業都市労働者に組み込まれていた。大量の孔雀石を要し、長い歳月と丹精を不可避的に要求する華麗な大形作品を製作出来る時代環境は、もはや過去に属していた。
1905年の革命後まもない頃のエピソードを述べた「ジェーレスコの表紙」で、バジョーフはこう語っている。
「孔雀石の石工の間で困ったことが起こっていた。材料の孔雀石がすっかり乏しくなった。グミョーシキは打ち捨てられ、ボタ山は何度も掘り返されていた。タギルの銅山では小さい石が見つかったが、それもしょっちゅうではなかった。石のほしい者は、まるで高価なけものを獲るように、そんなかけらにいっせいに群がった。」「エカチェリンブルクにはこんな時に石を買い占めるための外国人の事務所があったが、…それはみんな外国に流れて石工の間には回らなかった。」
「石細工の店ではドイツ人の好みにあわせた、安物が多く売られていた。それでも昔から孔雀石を愛してきた年寄の石工たちはなんとか石を手に入れて、いい細工を作って、物のわかる買い手を見つけていた。」
「もしかしたら、孔雀石の流行が終わった、ということなのかも知れない。じいたちが生涯刻みつづけた石を、孫の時代にはだれひとりかえり見ようとしない。そんなことも石の仕事ではよくあることなのだ。」
孔雀石細工が社会的ステータスだった時期は過ぎ、高額の作品を注文するパトロン的大富豪を見つけるのも次第に難しくなっていたのだろう。質の良い材料の不足もあり、主流商品は大衆消費社会向けに、小形で簡素な造りのものにシフトされていくほかなかったと思われる。貴族趣味の華麗で繊細な孔雀石細工は、あるいは18世紀末から19世紀中葉の、躍進期のロシアにおいてのみ製作され、存在することが可能であった、一幕の豪奢な夢だったのかもしれない。
(終り -2015.6.5)
参考画像について:このページの画像は(下の装飾瓶以外)、いずれも
V.B.セミョーノフの2巻本「マラカイト」(1987)から引用した。ロシア語で書かれた本なので、あいにく私には読めないが、孔雀石の歴史について随分詳しいことが書いてあるはずだし、あるいはここに述べたこととは違ったことも書かれていると思われる。重要ソースとなるはずの本を読まないままテスキトを綴るのは愚かしいに違いないが、言語の壁はいかんともしがたい。
この本にはウラル各地に産した孔雀石の標本写真が多数掲載されているが、写真を見る限り、ロシア産の孔雀石と他産地(コンゴ、中国、オーストラリア…)の孔雀石とを区別する特徴は特に挙げられないように私には思われる。孔雀石細工の写真も多数掲載されているが、その模様と現代のコンゴ産孔雀石の模様とを区別する特徴もやはり見出せない。
美術史家・鑑定家の多くは、ロシア産の孔雀石は比類のないものであって、これに匹敵する孔雀石は他所では見出せない、としているが、思うに最上品質の孔雀石はロシア産でも他の産地でも一点モノといっていいほどユニークなものであって、同じような石が山ほど存在するわけはないのである。
Cf. エカチェリンブルク産孔雀石の標本(グラーツのヨアネウム蔵)、 No.800
ウラル/シベリア産の孔雀石標本(ウィーン自然史博物館蔵)
ウラル産の古い孔雀石標本は、スベルドロフスク産またはエカチェリンブルク産などと標識されているものが稀に市場に出回るが、通例きわめて高価である。
※下の孔雀石の装飾瓶はヒューストン自然史博物館(HMNH)所蔵のもの(撮影:SPS)。
モザイクの具合がよく分かる
ニジニタギル産(メドノルジャンスカ産)
1844年 ロシア皇帝からの贈り物
シャーロッテ・アン(1811-1895:ブカレスト及びクイーンズベリー
公爵夫人)から巡ってビクトリア女王に。
補記1:グミョーシキ及びニジニ・タギルの鉱山の地質学的な記述は、おおむね エウゲニイ・キーエフレンコ「宝石の地質学」 (2003) に拠った。
補記2:20世紀初以降、アフリカのコンゴで銅・ウラン・コバルトの大規模鉱床(いわゆる三日月地帯)が開発されると、これに伴って大量の孔雀石が供給されるようになった。風化二次富鉱体は銅ベルト全般に広がっているが、宝石クラスの孔雀石やアズルマラカイトはほとんどが西のコルウェジ地域(カモト、ルーウェ、コルヴェジ)と南東のルブンバシ地域(エトワール・デ・コンゴ)に産する。現在も供給が続いており、コンゴ産の孔雀石を使った装飾物、細工物が製作され流通している。しかしかつてロシアで製作されたような大形のモザイク作品はほぼ皆無である(需要がない)と思われる。
補記3:ナポレオンのモスクワ侵攻に対してロシアは、明け渡し・焦土戦術で臨んだ。フランス軍が入城したモスクワに火がかけられ、5日間燃え続けて、町の3分の2を灰燼に帰した。兵站の行き詰まりによってナポレオンは撤退を余儀なくされた。
補記4:一般に「孔雀石の間」の製作に用いられた孔雀石は2トンといわれる。
フェルスマンは「ニジニタギル市近くメドノルジャンスイ(銅鉱)の孔雀石の塊は250トンあった(1836年発見)。二分割され、内部から2トンずつの上質の石が抜き取られた。冬宮の有名な孔雀石の間は、まさにこの孔雀石で飾られているのである」と述べている。(おもしろい鉱物学)
補記5:ニジニ・タギルの孔雀石の産状ほか
ウラル産孔雀石の主要産地は、グミョーシキ、メドノルジャンスカ、コロヴィノ・レシェーチニコボ、ガーラ・ヴィソーカイの4鉱床で、後ろ3者はニジニ・タギル地方にあった。いずれもスカルンタイプの金属鉱床の上部酸化帯(二次富鉱帯)に孔雀石が生じており、特に宝飾品質のものはカルスト地形との関わりにおいて石灰岩の陥没穴や下部基盤面に生じていた。
ニジニ・タギルの一群の銅・鉄鉱床は、シルル紀から前期デボン紀に沈殿した炭酸塩質凝灰岩や貫入岩帯と、タギル・クシュヴァ閃長岩岩塊との接触部にあった。ヴィソーカヤ山地南斜面(南東側)のメドノルジャンスカと、西側のコロヴィノ・レシェーチニコボ及びガーラ・ヴィソーカイに2分することが出来る。コロヴィノ・レシェーチニコボ鉱床はメドノルジャンスカの西400mにあり、ガーラ・ヴィソーカイ鉱床の南東境界はメドノルジャンスカ鉱床に接する。ニジニ・タギルで宝飾質の孔雀石を多産したのはメドノルジャンスカで、閉山後はほかの2つの鉱床から孔雀石が供給されたが、その量は少なかった。
これらの鉱床では複雑な侵食地形や断層が発達しており、風化を受けた上部酸化帯は深さ200〜300mに及んだ。磁鉄鉱はマーマタイト(赤鉄鉱の一種)に変化し、硫化銅は孔雀石やブロシャン銅鉱、赤銅鉱、黒銅鉱、擬孔雀石などに変わっていた。
メドノルジャンスカの金属鉱脈は、大理石とシスト化した斑岩や凝灰岩との境界部に沿って北西方向に750mにわたって続き、最大
40mの厚みがあった。約50〜70度の角度で東に向かって沈んでいた。緻密な孔雀石のほとんどは深さ40〜100mの酸化帯内部に見出された。シンター状ないしクラスト状の集塊が鉱石帯の下盤を形成するカルスト侵食された洞や大理石の間隙に見出された。多量の孔雀石の砕片がカルスト陥没穴を埋める赤色の粘土様物質の中に赤銅鉱や自然銅を伴って埋まっていた。
コロヴィノ・レシェーチニコボ鉱床は 1908年に発見され、採掘はほとんど個人鉱夫たちによって行われた。孔雀石の産出は局部的で、カルスト地形のある陥没穴でのみ見つかった。地表部で30x60m、深さ50mのあたりで30x35mほどの穴で、粘土や破砕片状の斑岩風化物、凝灰岩、石灰岩で埋まっていた。産状はグミョーシキやメドノルジャンスカに似るが、孔雀石を含む粘土層の厚みは概ね 1mに満たず、2mを超えることは稀だった。孔雀石の多くは堅い海綿状で 10〜50kgほどの集塊をなした。装飾品質の石は精々5-6 %程度であったという。
ガーラ・ヴィソーカイもまた磁鉄鉱や風化した赤鉄鉱からなる鉄鉱床で、大理石とその上を覆う凝灰岩との接触部が鉱脈となっていた。局部的に
2-300mの厚さをもつ酸化帯があったが、孔雀石の巨大な集塊は見出されていない。鉱石の銅品位が比較的低いためと考えられている。
この他、 1950年代から70年代にかけて、さほど量は多くないが、装飾品クラスの石がグラブニイ鉱山の露天掘り坑(地表から40m下のレベル)の北東壁あたりで採れたという。
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