18世紀にウラル地方で発見された緑色絹糸光沢の美麗石がオランダ貿易を経由して日本に渡り、「孔雀石」と呼ばれて賞玩されたと考えられることを、孔雀石の話に記した。
孔雀石の話2では、同じ世紀にウラル産のさまざまな石材を用いた加工・研磨産業が興り、19世紀初にはその流れを汲んだ孔雀石(マラカイト)細工が、ロシアを象徴する工芸品として広く欧州で認められるようになったことを述べた。
これらの石は、専らトルチャニノフ家が所有するグミョーシキ銅山または近辺に産したものと思われる。1814年にデミドフ家の所有するメドノルジャンスカの銅山が開発されるまで、宝飾品質の孔雀石は他所では得難かったのである。(ミャド/メズノイは銅のこと、ルジャンスカに銅鉱が出たため、この名で呼ばれるようになった)
19世紀半ば、メドノルジャンスカでは夥しい量の石が掘り出されたが、一方でグミョーシキでの産出は乏しくなり、その声望はやがて伝説と化していった。
ちょうど中国において古玉(河流玉)が新玉(山玉)に優り、ミャンマーの老坑翡翠が新坑に優り、モゴック産ルビーがモンシュー産に優り、ゴルコンダのダイヤモンドがブラジル産や南ア産に優るとされたように、人々の意識の中で、古きものはつねに後から来たものに優るのである。とはいえ、ロシアに莫大な富をもたらし、孔雀石(マラカイト)の世評を確固たらしめたのは、むしろメドノルジャンスカ産の石なのだったが。⇒孔雀石の話3
グミョーシキの孔雀石が世に知られ初めた頃(18世紀後半)、その評価は必ずしも美術工芸品としての洗練された美に寄せられたものではなかった。むしろ石の色や光沢のプリミティブな美しさ、形の面白さが(いわゆる啓蒙された)人々の心を掴んだ。原石のまま、あるいはいくつかの面を研磨しただけの石が博物標本として求められ、また無垢の塊を彫ったり刻んで作った作品、孔雀石本来の姿をよく留めた品が愛好されたのだ。
実際、エカテリーナ2世のコレクション目録には孔雀石塊を彫刻したカメオがあるし、フェルスマン博物館の標本には塊を板状に切断して両面を研磨したものや、模様を目立たせるために自然表面を軽く磨いて艶出ししたものがある。しかし原石のまま保存されたグミョーシキ産標本もまた多数残っているのである。このことは日本に渡来した孔雀石が、おそらく自然な産状を残した博物標本だったとみてよい傍証となろうし、また石亭や蘭山、信淵らの描写が裏付けていることでもある。彼らは絹糸結晶が織りなす緑色の「束針紋」や「ノギスジ」に「孔雀の羽」の様子を観たのであった。
グミョーシキ孔雀石の特徴は、濃い緑色の絹糸結晶と、孔雀石に混じった自然銅の微小粒子とが織りなす、えもいわれぬベルベット光沢にあったという。この石はまさに孔雀の羽のような緑色をして、かつ金属光沢を示してキラキラと光った。
孔雀石は赤銅鉱や自然銅を伴って赤い粘土質の土壌の中に埋まっていた。土質のもの、粉末状の皮殻やフィルム状の皮膜をなすもの、絹糸状結晶の集塊、また緻密なクラストやぶどう状鍾乳状の集合体となったものなどが出た。装飾材に向いていたのは緻密な塊石で、外観はぶどう状・鍾乳状、大きさは2,3センチから5,6センチくらいが普通だった。内部は繊維状結晶が放射状に集合しており、しばしば濃淡さまざまに変化する緑色が同心円状の年輪模様や層状の縞模様をなした。この色の変化は個々の繊維結晶の厚みの変化に伴うものといわれ、概していえば、(トルコ石に似た)淡緑色の層は極微細な繊維構造の部分に対応していた。
孔雀石には普通さまざまな夾雑物が含まれる。樹枝状のマンガン鉱物、粒状・繊維状の藍銅鉱、クリソコラ、ブロシャン銅鉱、赤銅鉱、擬孔雀石、シャタック石などで、グミョーシキ産もその例にもれない。(孔雀石の色の濃い部分は鉄やマンガン分を含むためと説明した鉱物書もあるが、不純物による色の変化よりも、結晶の大きさの違いによる明度の変化の方が本質的である。)
ウラル地方の細工職人たちは、繊維構造がもたらす絹糸光沢の、濃緑色ないし黒色の「ベルベッティ」(Plisovy:プリソーヴァ)孔雀石と、ごく微細な繊維状あるいは潜晶質の、淡緑色や心持ち青味がかった色の「トルコ石風」(ベルージャ)孔雀石とを区別し、また放射繊維状の石、波打つような「リボン状」孔雀石、鍾乳石状の緻密な石質の孔雀石とを分けて呼んだ。ちなみに西欧ではトルコ石のことをトルコから来た石の意でトルコワーズとしたが、ロシアではベルージャ(ベルーゾウェイ)とした。ペルシャの石の意だ。
一般に孔雀石(マラカイト)は硫化銅鉱床の風化部(上部酸化帯)に生じるもので、粉末状の皮膜はあらゆるタイプの銅鉱床の酸化帯に見い出すことが出来る。土質の巨塊は石灰岩地帯のスカルン鉱床や銅を豊富に含む砂岩が炭酸塩で固化された地質によく見られる。一方宝飾細工に好適な堅い沈殿性の塊石はこれらに比べてはるかに希産で、成因も異なると考えられている。孔雀石はわりとありふれた鉱物であるが、緻密なものは実は出るところにしか出ないのである(出るところには大量に出る、ともいう)。
フェルスマンは宝飾品質の孔雀石は鉱床深部の水平層で銅を含む熱水が石灰岩と反応して生じると推測し(1962)、グリゴリエフは膠状溶液から沈殿する鉱物の生成過程を考察して、緻密なシンター質の孔雀石は地表近くに生じたカルスト鍾乳洞において形成されると推論した(1953)。
その後、ベルツシュコフらがウラルのスカルン鉱床に産する宝飾品質の孔雀石を調査して、次のコンセプトを導いた。
(銅や亜鉛、鉄などの)硫化鉱石の酸化に伴って硫酸性の溶液が生じ、スカルン化した石灰岩にカルスト地形を発達させる。そしてさまざまな二次鉱物とともに土質の孔雀石を生成する(一部は再び溶失する)。その後、カルスト化のいわば前線領域に形成された孤立した石灰岩の空洞において、アルカリ水中の炭酸水素塩と銅やカルシウムやが反応してシンター性の孔雀石を生じ、緻密な集合体となって空洞の壁面に積層されていくのである、と。
18世紀半ばから20世紀にかけて、ウラル産孔雀石の採集は主に4つの鉱床において行われた。ポレヴァヤ(polevskoi) の町に近いグミョーシキ(gumeshevskoe) 、ニジニ・タギルの町に近いメドノルジャンスカ (mednorudyanskoe)、カロヴィノ・リシェーチニコボ (Korovino-Reshetnikovo)、ガラー・ヴィソーカイ (Gora Vysokaya) 鉱床である。これらはいずれもタギル・マグニトゴルスクの古生代の火山性堆積岩地域にあって、ウラル山脈の緑色(斑)岩ベルトを貫いていた。
グミョーシキ鉱床はペロブスキー向斜・地溝内に位置し、厚さ1キロに達する白色微粒の再結晶石灰岩(大理石)の層を切るようにプレート状の斑岩、等粒状の石英閃緑岩(セヴェルスキー花崗岩)が挟まっていた。その境界部に磁鉄鉱や鉄・銅硫化鉱を含む石灰性スカルンが形成されており、長さは6キロ、厚さは250mに及んだ。
スカルンの初生鉱石が風化した酸化帯(二次富鉱体)は、地表からおよそ120〜170mの深さに達し、およそ2キロの長さにわたって続いていた。孔雀石のクラストはスカルン化した石灰岩と斑岩との接触部に沿って分布し、深く陥没したカルスト地形を伴っていた。
グミョーシキ銅山で孔雀石を多産したのは長さ約600m、幅150m、深さ10〜150mの巨大な陥没穴で、黄色〜茶色あるいは紫赤色の砂礫、あるいは銅分を含んだ粘り気のある粘土が詰まり、その中に孔雀石が埋まっていた。
この陥没穴はもとは発達した浸食洞で、その底部や割れ目、くぼみに殻状、腎臓状の集塊、鐘乳状、あるいはシンター性の孔雀石を生じ、カルスト化が下部に向かって進行するにつれ剥落して、陥没穴を充填する土壌に抱え込まれていったと考えられる。
見方によっては、これは溶脱(カルスト性溶脱)によって生じた珍しいタイプの漂砂鉱床だと考えることもできる。グミョーシキ鉱床には微細な模様をもったきわめて質のよい明色(トルコ石色)の孔雀石が広く分布していたとみられる。
ほとんどが小さなノジュールで、洋ナシより大きなものはそう多くなかったという。しかしトルチャニノフ夫人がエカチェリーナ2世に献上した塊(大きさ約1x2m、重さ約1.5トン)のように、稀に巨大な塊が出ることもあった。(後に長さ5.5m、幅2.7m、高さ1m余の大塊が出たともという。)
地表付近に生じる上部酸化帯は、鉱山採掘の比較的早い時期に掘り尽くされてしまうのが習いである。グミョーシキの孔雀石は1830年代頃から採れなくなり、40年代にはほぼ尽きてしまった。(その後ズリ山は何度も掘り返された。グミョーシキでは銅より鉄鉱石が掘り出されるようになったが、1864年に採掘が終り、1871年までに閉山した。)
ウラル地方の伝承をもとにしたバジョーフの創作民話、「草地の穴」(島原落穂訳)に次の条がある。
「…草地の穴のうわさは、それでもとだえはしなかった。うわさは、時おりながれた。なだらかな草刈り場。男が馬車馬でやってきて、草をぬく。すると穴があらわれる。男は穴に入って行き、孔雀石をかつぎだす。馬車につみこみ、おおいをかけて、そっと立ち去っていく。すると穴はなくなってしまうのだ。」
…これはおそらく浸食によって生じた鍾乳洞の口が、草地のどこかに人知れず存在し、その穴を見つけて入っていくことが出来れば、夥しい宝物を手に入れられるだろうという、ときに実話でもあり願望でもあった伝承を物語っているものと思われる。
村人たちの目には、複雑なカルスト地形を潜めた銅山と、その窪地や洞でふいに出現する見事な孔雀石や銅鉱石の有り様が、何もない草地と二重写しに映し出されていたのだろう。こうした不思議な土地で、魂を奪うほどに美しい石、欲望をかきたててやまない金石が出たがために、銅山(やま)に関わった人びとにはさまざまなドラマが発現したのである。(ちなみにポレヴァヤ村は、草はら村の意)
20世紀初、グミョーシキの最盛期はすでに遠い昔語りとなっていた。それでも人びとは苦しい生活の吐息と共に、匿された真実を語り、あるいは夢を見続けた。
「草地の穴はある。さまざま考えあわせれば、穴はある。人々は、そこから石をもらっている。すこしずつもらっている。」、と。
バジョーフにはまた、「山のあねさま」、「孔雀石の小箱」、「石の花」、「山の石工」といった、かつての孔雀石職人の生活をモチーフにした一群の作品があって、グミョーシキと周辺の村を舞台に、銅山の主である超自然的な女精と村人との接触が描かれる。
あるものは主に誘われ、山中の洞を巡り歩いて金石の宝を目にとめ、あるものは地底の洞に留まって人智を超えた孔雀石細工の技を習う。またあるものは主のはからいで素晴らしい模様の出る孔雀石を手に入れ、あるものは山の親方がなした細工とともにサンクト・ペテルブルクの都に至る運命を持つ。人の姿をして人でないあねさまとの接触によって、あるものは幸せになり、あるものは不幸せになるが、ほかの村人と変わらない(哀しい)生涯を送るものもある。
こうした作品の背景には、一方に当時のロシア民衆の厳しい生活があり、もう一方で神秘的な銅山の、けして希み通りにならない地中の宝物の在り方に対する彼らの憧れと嘆きとがこだましているように思われる。山の宝は恵みでもあり、また絶望の源でもあるのだった。
補記:大黒屋光太夫の漂流(1782-1792)見聞記である桂川甫周著「北槎聞略」巻4、エカテリンブルクの項に、「この地から150露里(約160キロ)ほどのところにロシア第一の銅山があり、造幣局があって貨幣を鋳造していることが述べられている。距離からするとニジニ・タギルであろうか。グミョーシキなら約60キロ。造幣局があったのはエカテリンブルク。この地はまた白質で赤や黄や緑、黒などの斑があるムラムラ(ムラモール)という石(大理石)を産すること、その石で家屋やいろいろな器を作ること、特に赤い斑があるものが珍重されることも言及されている。ムラムラはオランダ船によって大量に都に送られていた。
大理石(マーブル)の語源はギリシャ語のマルマロス
marmaros(白く光る石の意)で、古くから建築石材や彫刻材に用いられていた。ムルムラはその訛りだろう。ちなみにヨーロッパとアジアを境するトルコのボスポラス海峡の南の海はマルマラ海と呼ばれるが、沿岸地域に大理石を多産することが由来という。
大理石は雲南地方の大理に産する石で、美しい斑紋を示す結晶質石灰岩。明治初期にマーブルの訳語として大理石があてられたらしく、宮里正静の「化学対訳辞書」(1875)に示されている。
このページ終わり [ホームへ]