(「光をもたらすモノ またはリンの発見」 の続き)
★西洋において元素のリンは 1669年にブラントが発見したとするのが一般的な見方であるが、こういうことにはつきものの話で、そのずっと以前に発見されていた可能性も指摘されている。ブラントのリンは同素体のひとつ白リン(黄リン)に相当し、空気中で酸化されて青白く発光し、熱を発する性質があった。発熱は穏やかだったので「冷たい炎」と呼ばれたが、一方で発火点が60℃と低く、ちょっとしたきっかけで燃え出す不安定な物質でもあった。
そこで古くから知られた発光現象や発火現象の中には、その原因物質として白リンが含まれていたとする説がある。ただリン(phosphorus)の発光と、燐光(phosphorescence)や生体発光(Bio
Luminescence)
などの他の発光現象はしばしば混同されがちで、あまりはっきりしたことは分からない。
レイモンド・ディ・サングロ(1710-1771)は、初期キリスト教徒の墓所で見つかった聖オーガスティン(354-430)の「永劫の灯火」にはリンが含まれていたと示唆したが、20世紀の発光史家ニュートン・ハーベイは、ツチボタルから作るとされる「発光液」に関する(古くから伝わる)完全に誤った伝承からみて、この説にはあまり信用をおくべきでないと指摘している。
一方ハーベイは15世紀の医家パラケルスス(1493-1541)が調製した薬「アイシクルス」(氷柱)の原料となる「火の要素」はリンであった可能性が高いとみている。この物質は、「尿をとり完全に蒸留する、水、空気、土(の要素)は共に蒸発するが、火(の要素)は底に残る。その後、すべてを混ぜ合わせて同じ操作を4度行う。4度目の蒸留では最初に水が蒸発し、ついで空気と火が蒸発するが、底に土が残る。それから空気と火とを、冷たい場所においた別の容器にとると、幾ばくかのアイシクルが凝結する。これが『火の要素』である」と述べられている。名称から判断すると、おそらく透明感のある乳白色の固い物質だったのだろう。後にボイルらが製造した固体リンを連想させる。実際ボイルは彼とハンクヴィッツが作った固体状のリンを「アイシィ・ノクチルカ」(Icy
Noctiluca 氷状の夜光物質)と呼んで、揮発したリンによる発光と区別した。
もっともハーベイは、もし本当にパラケルススがリンを発見したのなら、もっと注目されなかったのはおかしなことだ、とも言っている。(余談だがハンクヴィッツは、ツチボタルは体内にリンを宿すと考えられる、と述べた)
★いずれにしてもリンが日常生活に利用されるようになったのは、ハンクヴィッツがリンを商業的に製造し、大きな利潤を上げてから1世紀以上経った後のことである(彼のリンは新旧両大陸へ輸出された)。
もともとブラントらは銀や卑金属を金に変化させる「賢者の石」を作ることを目的としていた。当時リンを入手してその性質を研究した人々、あるいは発光を賞玩した人々も多かれ少なかれその傾向にあり、錬金術的な意図または神秘的な現象への見世物的興味が先行していた。
そのため錬金の可能性が拓かれず医薬性も見い出されなかった白リンは、珍しさが薄れるとあまり顧みられなくなった。扱いが難しかったことも敬遠された理由のひとつであろう。泰斗ハンクヴィッツにしてからが、一度はリンによって生命の危険にさらされたことがあった。彼は手にひどい火傷を負い、手がずっと燃え続けているような激しい痛みに見舞われて3日間床に伏した、という。
フランスの化学者レムリー(1645-1715)は、「ある日部屋でリンを使った実験を行った後、小片をテーブルの上に放置したまま忘れてしまった。ベッドを整えにきた女中が替えのシーツをテーブルの上におき、気づかずにリンを一緒にくるんで交換した。その後ベットで寝た人は、夜中に目が覚めると上掛けが燃えているのを見た」というエピソードを語っている。
ボイルはリンの応用について検討した節があり、家庭向けの照明や水中探査用のランプ、時計の文字盤の夜光塗料などを考えたようだ。が、最初に実現したのはマッチへの利用で19世紀に入ってのことだった。
マッチの起源は明らかでないが、1805年にフランスのJ.シャンセルが作った浸酸マッチ(即席発火器)、または
1827年にイギリスの薬剤師J.ウォーカーが作った摩擦マッチあたりが嚆矢とされている。ウォーカーのマッチは硫化アンチモン、塩素酸カリ、アラビアゴムの頭薬に硫黄をかぶせたものでなかなか発火しなかったが、ほどなく白リン(黄リン)が用いられるようになって着火性が向上した。1831年にフランスのソーリヤは黄リンマッチを量産し、1844年にはスウェーデンのヨンコピング(イェンシェビング)社がマッチ工場を設立した。ヨンコビングは後に赤リンを使ったスウェーデン式安全マッチを開発し、1855年から製造を始めてやがて世界を制する。
赤リンはリンの同素体で、発火点が260℃と高いため黄リンより扱い易く、かつ人体への毒性の低い物質であった。初期のマッチ工場の工員を破壊的に蝕んだ「燐顎」は黄リンのヒュームにさらされることで起こる疾患で、歯痛から始まり、やがて歯茎や顎が腫れて膿を流し、最後には下顎の骨が壊死する。腐った顎は暗所で緑白色に光った。赤リンはその点猛毒の黄リンと違って無害で、「燐顎」を発症させなかった。赤リンは発光しない。
だがリンの真に偉大な時代は、農業用肥料としての用途が見い出されたことに始まる。
★話は少し戻るが、尿からリンを製造する方法がフランスのアカデミーによって公表されたのは1737年のことで、イギリスのハンプ博士がハンクヴィッツから基本的な処方を聞き出した少し後だった。ただこの処方は「有用であるというより、むしろ興味本位のもので、費用もかかり厄介である」と受け止められ、ほとんど実用に供されなかったらしい。
一方ハンプ博士がまとめた処方はヘンケルという人物に伝えられた。ヘンケルは1731年にすでにクンケルの製法の詳細を入手していたが、その後製法を工夫して、古い尿、磠砂、ポタッシ(炭酸カリ)を「鉛の灰」と一緒に煮立ててから蒸留すると良質のリンが得られることを知った。弟子のマルクグラフはこの処方を元により優れたリンの製法を組み立てると、すぐに公表した(1743年)。というのもその頃すでにリンの製造は以前ほど利益を生む商売でなくなっていたからだという。
マルクグラグは尿を用いずにリンを作ろうとして初めは失敗したが、のちに成功して小麦の種や芥子種からリンを得た。彼はこうした野菜の中にリンの元物質が存在することを推察し、尿中のリン塩は食物として摂取した野菜類に由来するのではないかと考えた。摂取量の増える夏季には尿のリン塩濃度も増えたからである。
18世紀にはさまざまな動物性の物質や植物(の灰)にリンが含まれることが明らかにされた。リンは動物性の物質と考えられた。
1769年、スウェーデンのC.W.シェーレやJ.G.ガーンは、リンが骨の主要成分であることを報告し(骨や角の中の土類はリン酸で飽和された石灰であるとした)、骨灰やその頃骨土(ボーンアース)と呼ばれていた物質(成分的には燐灰石に相当)からリンを単離する方法が示された。
その後ガーンはブレイズガウ産の「緑色鉛鉱石」(緑鉛鉱)が天然のリン酸鉛であることを指摘し(1780年)、2,3年後にはクラプロートがエルツ山地付近のショッパウ、聖トリニティ鉱山産の「緑色結晶の白鉛鉱」(やはり緑鉛鉱だったらしい)を分析してリンの存在を確認した。こうした発見によって、リンは動物界ばかりでなく鉱物界にも存在することが示された。その当時はリンはまだ珍しい元素であったが、やがてコプロライト(糞石)、グアノ(海鳥の糞)といった生物由来の石や火成の(フッ素)燐灰石に豊富に含まれることが分かった。
★ヨーロッパでは従来農業肥料として主に動物性の堆厩が用いられてきたが、19世紀に入るとこれに加えて無機肥料の利用が始まった。一般に植物の生長に必要な3つの元素として、窒素、カリウム、リンが挙げられるが、ちょうどこの時期にこれらの元素に関する知識が深まり、またこれらを含む鉱石が相次いで発見されたのである。
それまで植物の養分は腐食(土壌性有機物)であると考えられていたが、ジュネーブのテオドール・ド・ソシュールは1804年に出版された「植物の生長の化学的研究」の中で、植物は太陽の下で空気中の炭酸ガスと土中の水や無機塩類を摂取して生育することを示した。
ドイツのリービッヒは、1840年の論文「農業および生理学への化学の応用」でその考えを支持し、植物は有機物を必要とせず無機物だけで生きてゆけると述べた。この説はやがて水耕法によって証明され(1860年頃)、一方では新しい知見と歩調を合わせるように肥料となる鉱物が発見され、ヨーロッパで利用され始めた。
窒素については、19世紀初には南米産のグアノが、1860年頃からはグアノに替わる新しい肥料源としてチリ硝石が脚光を浴び(cf.
No.577)、またカリウムについても19世紀半ばにドイツのシュタッスフルトで発見されたカリ岩塩が、火薬製造の分野だけでなく肥料用として広く取引きされるようになった(cf.
No.291)。
そしてリンについては、やはり19世紀半ば、リン鉱石を硫酸処理し水溶性とした「過リン酸石灰」が製造されるようになった。
★チリ硝石とカリ岩塩の話は別の機会に譲るとしてリン鉱石について述べると、ひとつに南米で古くから農業に用いられてきた海鳥の糞(グアノ/フアヌ)の効用が19世紀初のフンボルトの南米探検を契機にヨーロッパに知られるようになったことがあった。グアノはリン酸質グアノと窒素質グアノに大別できるが、後者は可溶性のリン酸分を豊富に含むため、そのまま肥料として用いることが出来た。グアノ肥料は 1840年頃から新大陸(北アメリカ)やヨーロッパに広まり、従来の厩肥よりずっと優れていることが明らかになった。このことは激しい資源争奪戦とグアノラッシュをもたらした。
一方、これより少し早く、ヨーロッパ、特にイギリスでは動物性の骨灰が肥料に用いられるようになっていた。
産業革命以降、鋼の町として隆盛したシェフィールドでは、刃物の柄材に用いる骨、角、象牙などの削り屑が工場の周囲に山積みになって捨てられていたが、その周囲は雑草がよく生い茂った。これに気づいたある人が骨屑を持ち帰って自分の畑に撒くと、はたして収穫があがった。しばらくするとシェフィールド近郊のやせた土地を耕す農民は争って骨屑を持ち帰るようになった。初めのうち工場主たちは喜んでタダで持ち去るに任せたが、肥料として使われることが分かると代金を請求した。イギリスで肥料が商品化された始めだという。19世紀前半である。
同じ頃、ヨークシャー地方でも骨粉が施肥されていた。骨粉はそのまま地面に撒くのでなく、堆肥にまぜて地中に鋤き込むとよく効いた。分解が促進されてリン酸が溶け出しやすくなるからである。1840年前後には、骨粉を予め硫酸で処理し水溶性のリン酸化合物にした新肥料が製造されるようになった。ヨーロッパ中の屠殺場から骨が集められ、イギリスに送られて「過リン酸石灰」が作られた。
ドイツでも同様のアイディアが提唱されていた。リービッヒは前述の論文の中で、骨粉に希硫酸を加えてかき混ぜ、熟成させたものを水で薄めて施肥するとよい、と述べている。
新肥料の原料となる骨はすぐに不足がちになり、一時は戦場跡や墓所を掘り返す類のことも行われたが、やがて新しいリン酸資源としてリン鉱石が見い出され開発されることとなった。1847年にイギリスのサフォーク州でコプロライト(糞石)の採集が始まった。1850年代には太平洋沿岸地域のリン酸質グアノが骨の代わりに用いられた。1867年にはアメリカのサウスカロライナで、1888年にはフロリダで海成リン鉱石(生物起源の燐灰石沈殿物)の鉱床が発見された。ロシアのコラ半島では1885年に火成の燐灰石が発見された。こうしてリン(鉱石)は農業に不可欠の物質として人間の生活に資するようになったのだ。
★リンは初め錬金術師による研究の中で発見され、その神秘的な輝きによって人々を魅了した。しかし金を作り出すことは出来ず、一度は忘れられかけた。ところがそれから1世紀半の間に科学(化学)が進歩すると、動物の体を造る重要な成分のひとつであること、植物を生長させる重要な要素であることが分かり、肥料として脚光を浴びることとなった。
リンは賢者の石ではなかったが生命の元素(養分)といえる存在であった。一方、激しい燃焼性や毒性を持つ化合物を作り出すことも出来た。その意味では死の元素と呼べた。生物の身体を育み、生物が死ぬと(あるいは生物から排出されると)リン鉱石となって再生する。すなわち生と死の間を循環する元素だとも言える。
こうしたリンの歴史とメタファーを、ロシアの鉱物学者フェルスマンは「おもしろい地球化学」の中で、「生命や思考になくてはならないリンのおとぎ話のような歴史」として幻想的に描いている。
その話の前半はすでに述べたリンの発見から肥料に利用されるまでの歴史に重なるので、以下には後半部分のテキストを紹介しよう。
「二番目の話は、1939年のことです。北国の雪におおわれた山脈の斜面で、青白く光る鉱物、つまりリン灰石を大がかりに掘っています。地中海の沿岸や、アフリカ、あるいはフロリダで行われているリン灰石の採掘のむこうをはって、たいへん多量のリン灰石が採掘されました。緑色のリン灰石を大きな選鉱場にはこび、粉砕し、ほかの役に立たない成分をとりのぞくと、小麦粉のように、もろくて柔らかく、そしてきれいな白い粉末になります。この粉末を貨車につみこみと、これをさらに新しい物質、つまりまた別の白い粉末−肥料につかう水にとけやすいリン酸塩−にするために、数十本の貨物列車が、遠い極地のかなたからレニングラード、モスクワ、オデッサ、ビンニッツァ、ドネツ炭田、ペルミ、クイビシェフの工場にむかいます。そして、できあがった数百万トンのリン酸肥料は、特別な機械で畑にまかれて、亜麻の収穫を倍にしたり、砂糖大根のあまみをふやしたり、綿のさやの数を多くしたり、野菜の収穫をさらにたかめるのです。…これがソビエトのリン酸塩の原料、ヒビン山地のリン灰石の話です。
毎年、全世界で数千万トン以上のリン酸肥料がつくられ、ばらまかれ、二百万トンのリンが畑にまかれています。しかしリンは、肥料にだけつかうのではありません。この物質の役割は、年がたつにつれて、ますます大きくなっています。いまでは、この「冷たい炎」は120以上の鉱業の部門でつかわれています。」
「第一にリンは、生命と思考の物質です。骨に含まれているリンの量は、骨髄の細胞の生長と正常な発達を左右し、骨を丈夫にします。脳の物質中にリンがたくさんはいっていることは、脳が働くときに、リンが決定的な役目をはたしていることをしめしています。リンがたりなくなると、身体全体が弱くなります。リンをふくむいろいろな薬があるのもけっして理由のないことではありません。こういう薬は、身体の調子がよくない病人を全快させます。リンは、人間にとって必要であるばかりか、植物や動物にとっても、たくさん必要なのです。」
「…むかしリンの「冷たい炎」は、工業部門−マッチ工業をつくりだしました。」「…リンをマッチにつかうことから、この物質を冷たい炎でなく、冷たい霧につかうという考えを思いつきました。リンはもえて無水リン酸になります。これは長いこと空気中にうかんでいる霧のようになかなか消えません。戦争技術は、リン酸のこの性質を煙幕に利用しました。焼夷弾に、たくさんリンをいれることもあります。現代の戦争では、冷たい白い霧をばらまく黄リン爆弾は、破壊の手段の一つになりました。人体に対するリンの毒作用は、毒ガスや細菌兵器以上に恐ろしいものです。」
「地殻のなかをリンが移動する歴史はとてもおもしろいものです。リンの運命は生と死の複雑な過程と結びついています。だがリンは、地下の深所や、海流が合流して生物が死に、沢山の動物の死がいがつみかさなる海底の墓場に集まるのです。リンはふたとおりに地中に堆積します。ひとつは、灼熱したマグマから分離してできた、地下の深みにある、リン灰石の鉱床であり、もう一つは、動物の骨が集まるところです。リンの原子は地球の歴史の中で、複雑にめぐりあるいています。」「…リンの歴史は、地下深く姿をけしましたが、その未来は、平和産業のなかに、また複雑な技術の進歩のなかにあるのです。」(理論社「おもしろい地球化学」
1968年改訳版 地学団体研究会ほん訳委員会訳)
若干のコメントを加えて本項を結ぶ。
「ヒビン山地のリン灰石」は、ギャラリーNo.35の標本の白色半透明部分にあるような粒状〜塊状の鉱石で、ソビエトはこれを肥料原料として大々的に掘った。
「生命と思考の物質」としてのリンは体重70kgの人の体に700〜780g
程度含まれている。1%強に過ぎないが、体重の70%は水分、20%
は炭素であることを差し引くと(水と炭水化物を別にすると)、けして少なくない。リンの大半は(水酸燐灰石として)骨に集まっているが、脳もまたリン脂質を多量に含んでいる。エネルギーの交替物質であるATPや細胞内の核酸類(DNAやRNA)はリン酸を成分に持ち、リンは細胞レベルでも身体機能の維持に重要な役割を担っている。不足すると骨がもろくなったり、代謝が滞ったり、また脳の発達に支障をきたすらしい。
化学兵器としての恐ろしさは言うまでもないが、非人道的と非難されながら現在でも白リン弾を使用する国があるという。毒ガスとしてはサリンが有名だろう。
工業分野では、例えば耐食性の高いリン酸被膜処理は金属部品の製造になくてはならない技術である。
リンの「ふたとおり」の堆積について、火成の燐灰石、及び海成リン鉱石として存在する鉱床が資源的に重要である。
海成リン鉱石は生命活動の連鎖が介在して生じたもので、まず海水中に溶けている微量のリンがプランクトンなどの生物に摂取されて濃縮される。生物が死ぬと遺骸は沈降して海底に堆積し、そこで分解されたリン分が再び海水中に放出される。海底付近の海水が過飽和状態になると燐灰石として沈降し、海成リン鉱石の鉱床を形成する。大型の脊椎動物の場合は燐灰石の骨がそのまま化石化して鉱床に取り込まれる。そして地殻変動によって海底が隆起し、陸地になったとき初めて資源として利用可能になる。
あるいは魚など海棲生物を補食した海鳥の糞が営巣地に溜まって鉱床となることもある(グアノ)。cf.
No.863(グアノ)
火成燐灰石と比べて海成リン鉱石の推定埋蔵量ははるかに多い。火成燐灰石の産地は偏在しているが、海成リン鉱石は比較的広範に分布している。とはいえ資源的な価値のある鉱床はやはり限られており、日本はリン肥の全量を輸入に頼っている。つまり食料生産のキモを海外に依存している。ソビエト(ロシア)のように大規模な鉱床がどこかに眠っている可能性はどうもなさそうである。
※リンは自然界では単体として存在せず、酸素と結びついて(リン酸として)産出するのが普通である。
※リンやボローニャ石の発光は、古くフォスフォレッセンスと呼ばれてきたが、今日の定義では、リンの発光はフォスフォレッセンス(燐光)ではなくケミルミネッセンス(化学発光)に分類される。
※リン肥料の歴史に関する記述は、「肥料になった鉱石の物語」(高橋英一著 研成社 2004年)に多くを負った。
※黄リン爆弾の恐ろしさについては、エルンスト・ユンガーが「パリ日記」の中でしばしば言及している。1943年7月29日の日記にはこうある。「黄燐爆弾の攻撃に遭うとアスファルトも燃え始め、逃げまどう人たちがその中に捕らわれて焼けこげて石炭になる。廃墟の町ソドムの再来である。」 (山本尤訳)
※ちなみに、肥料性の点については、ビクトル・ユゴーが「レ・ミゼラブル」の中で次のように薀蓄を披露している。
「科学は長い探求のすえ、今日では、肥料のうちで最も養分の多い、最も有効なのは人肥であると知った。」「どんな鳥糞石(グアノ)も、一都市の排泄物にはかなわない。大都市は、盗賊カモメのうちでも、最も強力である。田野の肥料に都市を使えば、きっとうまくいくだろう。われわれの黄金が糞尿だとすれば、逆に、われわれの糞尿は黄金である。」(佐藤朔訳
V5-p125) なんとなく錬金術っぽい見解に思える。
※余談だが、グアノ(鳥糞石)やカリ岩塩は農業用肥料として絶大な効能を誇るものであるが、生体反応性の高い化学薬物で人体に触れると害をなす。この種の原料肥料は多く船舶貨物として日本に輸入されてきたが、沖や陸で荷の積み替え、荷揚げに携わった人々の恐れるところであった。汗をかいた肌にこれらの粉が付着すると炎症を起こす。目に入ると充血し、激痛で開けていられない。皮膚が炎症をおこしたまま風呂に入ると、その晩は痛みで眠れないという。「仕事により好みは出来ないが、カリだけは嫌だった」と述懐する港湾労働者も多かったという。
グアノは輸送中に船倉で固まってこびりつく。これをピックで砕いて除去するのも困難な仕事である。
ちなみに小麦の荷役も難業で、肌を曝していると小さなトゲが毛穴という毛穴に刺さって、夜は痛みで眠れなかった。塗おしろいの厚化粧で顔や首を防護してから作業を始めた。(参考:「写真記録 関門港の女沖仲士たち」
2018年 新評論)
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