"Unverhofftes Wiedersehen" by Johann Peter Hebel
邦訳 by S.P.S.
今からゆうに50年以上もむかし、スウェーデンのファールンで、ひとりの若い鉱夫が、若く愛らしい許嫁にキスをして言った。 ところが聖ルチア祭(冬至の祭り)に先立って、牧師が二人の名前を教会に掲げ、「聖なる結婚によって彼らが伴侶となることに反対する、理由なり障害なりを承知のものは申し出るべし」と二度目に告知したとき、死がこれに応じたのだった。 その間に、ポルトガルのリスボンは地震で崩れ(1755)、7年戦争が始まって終り(1756-1763)、皇帝フランツ一世は崩御し(1765)、イエズス会が解散を命じられ(1773)、ポーランドは分割され、女帝マリア・テレジアが逝去した(1780)。ストルーエンセは処刑され(1772)、アメリカが独立し(1776)、フランス・スペイン連合軍はジブラルタルを占領できぬまま撤退した(1783)。トルコ軍はシュタイン将軍をハンガリーのヴェテラーニ洞窟に包囲し(1788)、ヨーゼフ皇帝も亡くなった(1790)。スウェーデンのグスタフ王はロシア領フィンランドを征し(1788-90)、フランス革命と長い戦争が始まり、皇帝レオポルト二世は埋葬された(1792)。ナポレオンがプロイセンを征服し(1806)、イギリスはコペンハーゲンを砲撃し(1807)、そして農夫たちは種を播いて刈取りをした。粉屋は碾臼を回し、鍛冶屋は槌を打ち、鉱夫たちは鉱脈を追って地底の切羽を掘った。 しかし 1809年の聖ヨハネ祭(夏至の祭り)が巡る頃だった、ファールンの鉱夫らが二つの縦坑の間に通廊を掘っているとき、
300エレ(200m前後)はある深い場所で、礫石と緑ばん水(補記1)の中からひとりの若者の遺体が引き出されたのである。遺体はすっかり緑ばん漬けになっていたが、ほかには特に傷みも変化もみられなかった。面立ちははっきりして年齢も分かるほど生々しく、ほんの一時間前に死んだばかりのように、あるいは仕事の途中でうたた寝をしているかのようにも見えた。 「私はこの50年をずっと喪に服して過ごしました、そして死ぬ前にもう一度、神様が彼に会わせて下さった。結婚式の1週間前でした、この人が地底に降りて、二度と戻って来なかったのは」 次の日、墓地の支度がととのって鉱夫らが遺体を引き取りにゆくと、彼女は小箱を開けて、赤い縁飾りのついた黒い絹のスカーフを彼に結んだ。そうして彼女自身は日曜日の晴れ着をまとい、今日が彼の葬儀ではなく、二人の結婚式の日であるかのように、葬列についていった。
※聖ヨハネ祭り ⇒ファールンの大銅山 補記10参照。 補記1:緑ばん水。今日いう緑ばん(緑ばん水)は鉄の水和硫酸塩
Melanterite ないしその溶液を指すが、実際には銅分を含んでいることも多い。殺菌効果や有機物質に対する防腐・保存効果は溶液中の銅イオンの働きである。ファールンは鉄や銅を掘った鉱山で、この「緑ばん水」は両者を含んでいたと考えるのが妥当。銅の水和硫酸塩は今日、銅ばん/胆ばん
Chalcantite を指す。 end of the page.
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