700.菱マンガン鉱と蛍石 Rhodochrosite & Fluorite |
海外産標本が(鉱物趣味が)最初のブームを迎えた 1980年代末から90年代初という時期は、私の感覚では
80年代前半と打って変わって、むしろ生活するのに息苦しい感じが伴っていた気がする(cf.No.698)。不動産はじめ諸物は高値(こうじき)になっていくし、金利は上がるし、消費税は導入されるし、仕事時間は増えるし(一方で週休2日制が優良企業の代名詞みたくなって普及していったが)、ポケベルは持たされるし、国際競争とか言われるし、商品にはいらん機能や付加価値がついていくし、キレイな言葉やデザインやイメージだけが上滑りしていく感じがあった。仕事があるのはありがたいのだけど忙しすぎで、こんなのがいつまで続くんだろう、というのが働く人の実感だったように思う。なんで
24時間戦ってなくてはならんのか?
一方で世間には札びら切ってぶいぶい言わせる人たちが増えていった。懐が豊かにはなったのだ。
そんな世情は国内外の標本業者さんをも曳きこんだ。きっかけは多分宝石やらパワーストーンやら恐竜ブームだったのだと思うが、ツーソンショー等で高額な目玉商品を買っていく一群の日本人が現れた。500万円の恐竜の化石が売れたの、特別展示の隕鉄の大塊を誰が買ったの、1000万円で水晶を持っていっただのという景気のいい噂が飛んで、そんなお客がたいてい日本人だったと伝えられたのだ。標本のベース価格は数ケ月ペースで上がっていき、海外の業者さんたちは日本を魅力的な市場として意識するようになった。
市場に出た標本は個人愛好家の手に渡ってしまえば、どこへ消えたのだか世間の眼に触れなくなってしまうのが普通だが、この時期は日本にいろんなテーマパークが整備された時期でもあって、バブル的特級品や超級里帰り品(昔海外に流れていった国産標本の買戻し)のいくたりかは公的施設で目にすることが出来る。
例えば玄武洞ミュージアムのコロラド産の天河石や菱マンガン鉱の群晶がそうで、よくぞ日本に持ってきたと喝采を送りたい圧巻の巨大標本である。後者は1992年に発見された晶洞から出たもので、ミュージアムの展示説明にもある通り、同年9月のデンバーショー最大の目玉のひとつだった(cf.ひま話)。いろんな意味で、この時期だから買えた品である。
少し遅れて90年代半ばにはフォッサマグナミュージアム(1994)、神奈川生命の星・地球博物館(1995)、ラピス大歩危(1996)なども開設された。一部の国内業者さんはこうした新規公共施設の標本調達や、各地の博物館で催される恐竜展や宝石鉱物展の企画展示の仕事を請けて有卦に入ったのであった。
こうした大口の需要が商業的な側面で鉱物ブームを安定させるのに一定の役割を果たしたことは疑いない。だが私としてはメンタル的な意味で、つまりより本質的な部分で鉱物ブームを支えたのは、むしろ個人の蒐集家たち、ささやかなポケットマネーを注ぎ込んで、てのひらサイズの小さな海外産の標本を熱心に蒐集し、それぞれにコレクションの城、あるいは小さな庭を作っていった市井の鉱物愛好家たちであり、彼ら一人一人に丁寧に接して育てていった、一部の標本商さんたちであったと信じる。
そして鉱物趣味が老若男女を問わず日本人愛好家の厚い層を持ちえたのは、コレクションの形成が小遣いレベルで実現できたからこそだと思う。
追記:コロラド州デンバーから西南西へ 96km、モスキート山脈の中腹にスイートホーム鉱山で知られるアルマ地域がある。標高3,350m。ロッキー山脈の中央部に位置し、冬季は一般車両のアクセスが不能となる(スノーモービルなら行ける)。北米でもっとも海抜の高い鉱山地域のひとつである。
アルマから 4.3km の峡谷で金が発見されたのは 1859年だった。一夜にして採掘キャンプが立ち上がり、最初の鉱区の一つを持った「バックスキン・ジョー」の名が与えられた。(※ 後にジョーは彼の鉱区を、「拳銃一丁、小馬一頭、それとウィスキー代のツケの清算」を対価に手放したという。)
同じ頃、南方の川沿いにも砂金の鉱床が発見されて、近隣の山々は俄かに鉱山キャンプが林立した。金鉱は数年のうちに採り尽くされたが、71年に銀が発見されて再び採掘ブームが起こった。アルマ・キャンプに精錬所が作られて、サロンやダンスホールや賭博場、数多くの商店が軒を並べ、73年にはこの地域の流通拠点となった。アルマとは当時辺りに住んでいた
4人の女性のうちの一人だという。
ホーム・スイート・ホーム鉱山はアルマの北西 5.6kmのバックスキン・クリークに設定された銀鉱区である。1873年に発見されたらしいが産量はさほど多くなく、鉱夫仲間の間でもあまり取沙汰されることがなかった。
しかし脈石鉱物として菱マンガン鉱を多産し、美しい深赤色の結晶を出した。1870-90年代に採集された標本が欧米各地の博物館に残っている。
当時の産銀ブームによる供給過多は銀価格の下落を招き、結果としてこの地域の銀採掘を停止させた。
スイートホームはその後折に触れて採掘が行われたが、銀山としてはいつも長続きしなかった。1925年に銀の富鉱脈が発見されたが、この年は菱マンガン鉱の当たり年でもあったようだ。
1966年、第二階坑で2つの晶洞から実に見事な菱マンガン鉱が発見された。その多くは採掘権を持たない人々によって持ち出されたそうで、ある人物は標本を車のトランクに積んでアメリカ各地の標本市を回った。こうしてコレクター市場にホーム・スイート・ホームの名が轟き始めたのだった。
伝説によると、彼らは古毛布を下に敷いておき、晶洞の周りに爆薬を詰めて発破をかけた。多くの結晶が母岩から外れたり、破損してしまったが、再び母岩に取り付けると世界最高と言って過言でない標本が出来上がった。後にピーター・バンクロフトがボリビア産のフォスフォフィライト標本多数と交換で手に入れ、「アルマ・クイーン」と名づけたのはその一つである。この標本は
1974年に彼のコレクションの大部が譲渡されたとき $85,000-と見積られた。やがてテキサスの石油王の手に渡り、今はヒューストン自然史博物館に収まっている。1990年には
25万ドルと査定された。
デンバー自然科学博物館に収まっている巨大な双子結晶(テイラー)もまた
1966年産で、20世紀末頃に 20万ドルと評価された。標本相場の高騰はご承知の通りであるから(なにしろ高級標本が投機的に買い漁られた)、今、取引きがあれば、いずれもこのレベルでは済まない評価がつくだろう。
70年代以降、スイートホームを存続させる最善の策は、高品位の銀鉱石を少量でも採掘して鉱山の運営資金を賄いつつ(カツカツでよい)、利潤は菱マンガン鉱標本で上げることだ、と大方の人々は考えていたが、その後の標本収集熱の高まりを受けて、
1991年から標本商コレクターズ・エッジのブライアン・リーらが標本専門鉱山として稼働を試みた。
彼らの思惑は当たり、翌年、翌々年には「アルマ・キング」、「アルマ・ローズ」といった銘品がデンバーショーやツーソンショーを賑わせることとなった。当時、投下資金は 300万ドルと噂されたが、それから数年間で販売された標本の売上は
500万ドルを超えただろうと業界雀の話である。標本だけで採算が取れたわけだ。アルマ・キングはデンバー自然科学博物館に収まっている。
楽しい図鑑(1992)の菱マンガン鉱のページに、紅電気石 Rubellite
とアマゾナイトと本鉱の3種がアメリカでは特に人気の高い標本だ、と書かれている。紅電気石は19世紀末にカリフォルニア州で多量に採掘されて宝・貴石として一世を風靡したアイテムで(cf.
No.63 追記2)、
1972年にパラのトルマリン・クイーン鉱山から「ブルー・キャップ」(※頭部が濃い青色をした紅電気石)、銘品「キャンデラブラ(枝付燭台)」(※スミソニアン所蔵)が発見されて人気がリバイバルしていた。
アマゾナイトはコロラド州の名産品の一つで、19世紀後半の金・銀採掘ラッシュの頃からトパーズや水晶に伴って産するものがクリスタル・ピークなどで知られ、1893年のシカゴ万博に宝石質の美品が展示されて人気を得た。1970年代にかつてない濃い青緑色の美品が出て、80年代にかけて採集ブームが起こった。そして
1985年、ツーポイント鉱山の北東2キロの鉱区に、車一台がそっくり入るほどの大晶洞キーホール・ポケットが発見され、数百点の美麗標本を輩出したのだった。
(1996-97年にはコレクターズ・エッジによって、ツーポイント鉱山で標本採集オペレーションが展開される。)
これら米国産の特級標本3種は、いずれも結晶形が見事で色彩はくっきりと鮮やか、誰が見ても値打ちものと分かる品であり、アメリカ人の愛国心を満足させるものであった。宝石原石や標本が専業的に採集されたことで質のよい大型品が回収出来たのだが、そのために多大の時間と費用がかけられた。博物館や富豪コレクター向けの品が「眼球が飛び出るほど高価」だったのは当然の成り行きだったといえる。(米国産でなければ、これだけ価格が高騰したかどうか分からないが。)
振り返れば、我々遠いアジアの島国の庶民コレクターは、そのおこぼれの、そのまたおこぼれレベルの標本をありがたく頂戴したわけである。合掌。
なおスイートホームでのリーらの事業は10年以上続いたが、2004年をもって終了した。 (2020.6.1)
(参考画像)