ひま話 18世紀デンマークのグリーンランド植民 (2018.7.29)


関連ページ:
 1.ヨーロッパ人によるグリーンランドの発見(ノース人植民地) 
 2.16世紀ヨーロッパの北方世界認識
 (当時の世界・極地方地図)
 3.北西航路と北西鉱石
(マーティン・フロビッシャーの探検航海) 
 4.ヨーロッパ人によるグリーンランドの発見2
(ジョン・デイヴィスの探検航海)
 5.銀鉱の島・鯨漁りの海 (ジェームス・ホールの探検航海・捕鯨略史)

 

◆16世紀後半、東洋との直接貿易の道を求めて北西航路探検に乗り出したイギリス人は、古い文献と地図とを頼りに氷の浮かぶ北大西洋を西に進んだ。そして彼らにとっては未知の陸地や海峡を発見し、異文化の先住民と接触した。後にバフィン島と呼ばれる島に金鉱が出たと信じて、猫踊りを踊った。⇒ 3.
デイヴィス海峡が発見され、その東側の陸地グリーンランドの土を踏むおよそ200年ぶりのヨーロッパ人となった。⇒ 4.   そこはかつてノース人植民地があったはずの土地だったが、彼らの消息は何も得られなかった。というよりイギリスの探検隊はその種の歴史的関心を少しも持ち合わせなかった。彼らはただひたすら西を、信じられないほど豊かなカタイの国への到達を目指していたのだ。探検隊はスポンサーを変えて何度も送り出された。しかし夏のデイヴィス海峡を埋める大流氷原と北米大陸とに阻まれて、航路の開発は遅々として進まなかった。

17世紀初、デンマーク=ノルウェーもまたグリーンランドの領有権を主張するために島へ船団を送った。水先案内を務めたイギリス人ジェームス・ホールはマッセル入り江付近に銀鉱を発見して、ここでも一しきり猫踊りが踊られた。後世のグリーンランド入植者ハンス・エゲデは、1605年にホールが持ち帰った鉱石から「100ポンドあたり 26オンスの銀が抽出された」と記している。しかし翌年、翌々年に送られた船団は何ら実を上げることが出来ず、1612年にホールが島で命を落としたことで銀鉱騒動はひとまずの区切りとなった。

この航海に参加した W.バフィンは四年後の1616年にグリーンランド島の西の海(バフィン湾)を北緯77度45分まで北上する快挙をなし、ランカスター入り江(実は海峡)など、北西航路の入口となる海峡に達した。とはいえイギリスの航路探検熱は 17世紀半ばには冷めてしまい、その後19世紀に至るまでこの入り江に進入する探検隊は現れなかった。
かたわらグリーンランドの東西海域には捕鯨産業が興り、夏の間、民間の船団が盛んに氷海を航行するようになった。⇒ 5. 

◆人間は、どこか遠くの土地には何かここよりも豊かでずっと素晴らしいものがある、という幻想/希望を抱く性質があるらしい。そしてその種の噂や憶測を他愛もなく受け容れる傾向がある。故郷を離れて遠い広い世界に出て行き、ごっそり稼いで−一角の人物になって−帰ってきた人は、歴史上確かにあっただろう。同じことは今も数多く繰り返されているだろう。誰もがいずれは世間に出ていって、自分の幸運を試さなければならないのだから。とはいえ、そうした成功体験を持つ人は、実際には出ていった人々のほんの一握りに過ぎないのが通例である。我々は本来的に常に勝ち目の薄い戦いを戦う宿命を負っているのだ。

早くも16世紀初に、イギリスによるカタイとの直接交易を説いた商人ロバート・ソーン(子:1492-1532)は、南洋の島々の物産の豊かさ(の噂話)を述べ、その気になりさえすれば莫大な、手つかずの富がそっくりイギリスの手に入ると主張した。実際、当時のスペインやポルトガルの無尽蔵の富はそうした遠征によって獲得されたのだ。そうであれば北西航路の途上にタラや鯨やセイウチや海鳥など豊富な海洋生物資源が報告されると、これを追う人々が後に続いたことは当然の成り行きであったし、また金鉱や銀鉱の発見を信じて巨額の費用を投じた採掘船団が組まれたこともやはり当然の成り行きだったと言えよう。そして黄金の夢が幻と消えても、しばしの時をおいて、新たな冒険への期待が繰り返し語られたことはけして不思議であるまい。

グリーンランドでは1630年代にも金鉱を巡る騒動があった。
クリスチアン4世の御代、ジェームズ・ホールに先導された3度目の遠征が失敗に終わると、この僻遠の領土はしばらく放置されていた。デンマーク=ノルウェーはやがて三十年戦争(1618-1648)に参戦し、敗れて北欧の覇者としての地位を失う。コペンハーゲンの商人たちが大法官クリスチャン・フリースの後援を受けてグリーンランド会社を設立したのはその後のことで、イギリスの船乗りが島で金を見つけたとの噂を聞いて、遅れてならじと後を追ったのである。1636年、2隻の船が島に送られた。

船団はデイヴィス海峡の東岸に投錨し、原住民と交易を行った。その有様はこれまでと同様で、友好的な接触の後、銃の暴発事故が起こり、原住民はしばらく近づいてこなくなった。やがて害意のないことを納得して再び戻ってきたが、デンマーク人の方では交易よりもむしろ土地の探査に気が向いていた。一方の船の航海士は上陸した付近の川床の砂に注目した。色や重さが砂金に似ていると思ったのである。彼の船は川砂を満載すると、予定よりも早く、喜び勇んでデンマークに帰ってきた。
しかしコペンハーゲンの冶金師たちは、その砂から金を取り出すことが出来なかった。黄鉄鉱だったと言われるが、いわゆる猫の金(風化した黒雲母)だったかもしれない。激怒した社の代表スチュワード卿は、かの航海士に命じて未だ荷降ろしの済まない船を出帆させ、他の者には一言も口を挟ませずに、川砂をすべて海中に棄てさせた。

その後の成り行きには二つの話がある。航海士は落胆のあまりほどなく死んでしまった。ところが、しばらく後によく似た性状の砂がノルウェーで発見された。その金属性の砂からは高純度の金が抽出された。そして先の件は冶金師の腕が悪かったせいだということになった、というのが一つ。
もう一つはエゲデが述べていることだが、若干の砂が投棄を免れて残り、後にコペンハーゲンにやってきた熟練の冶金師が相当量の金を抽出した。探検隊の隊長は名誉を回復したが、投棄された砂を惜しんで悲しみ、ほどなく亡くなったというのである。
いずれにしても、折り返しグリーンランドに金鉱探しの船が送られることはなかったのだから、いささか雲をつかむような話ではあった。

◆当時のデンマーク人の心にはしかし、かつて繁栄した植民地と、消息の知れないノース人との再会を果たす夢が打ち寄せる波のように繰り返し去来したようである。フレデリク3世の御代にはデヴィッド・ダネルが何度かグリーンランドへ遠征した。1652年から54年にかけての3度の航海はいずれも旧植民地の探索が目的だったという。52年と53年は東海岸を航行して上陸を試みたが、海岸はほぼつねに氷に閉ざされていた。54年の航海はただフェアウェル岬を回ってデイヴィス海峡に進入するだけに終わった(とはいえ島の西岸で交易を行い、原住民を連れて戻った)。

クリスチアン5世の御代、1670年にも東植民地を探して1隻の船がグリーンランドに送られ、徒手で戻ってきた。それから半世紀の間、公的な遠征記録は途切れる。島はもう投資に値する富の源泉と考えられなくなっていたのだろう。ただ鯨捕りたちだけが、夏のシーズンの間、水や物資の補給と副業的な交易に立ち寄るばかりだった。
デンマーク=ノルウェーの王室の紋章にこの極地の領土を表すホッキョクグマの絵柄が加えられたのは 1666年のことだが、当時はデンマークもまた他のヨーロッパ諸国と並んで、グリーンランドの東の海にホッキョククジラを追っていた。しかし捕鯨産業はほどなくオランダの一人勝ちの様相を呈してゆく。
 1720年にはデイヴィス海峡が主力漁場となり、グリーンランドの西岸にしばしばオランダ人が上陸した。彼らは1670年頃から姿を見せていたが、それがいよいよ頻繁になった。デンマーク=ノルウェーにはもちろん好ましいことではなかった。といって強国オランダと敵対するわけにもいかない。
ハンス・エゲデ(1686?-1758)が篤い信仰心を胸に布教と植民を計画したのはちょうどそんな時期だった。

◆グリーンランド史に一際精彩を放つこのルーテル派の牧師は、ノルウェーの北部、北極圏にあるヒン島のハーシュタに生まれた。コペンハーゲン大学で神学を修めた後、故郷に戻り、ほどなく南に接するロフォーテン諸島に教区を持った。1707年である。そこで彼はこの地方に伝わる半ばおとぎ話のようなサーガの世界に接し、西方の地に信仰の情熱を見出した。
ノース人赤毛のエイリーク(エリック)によるグリーンランドへの植民、その息子レイフによるキリスト教の伝道。東と西の二つの植民地が繁栄し、教会が建設され、司教が派遣されて民を牧した。しかし西植民地はスクレリングと呼ばれる侵入者に滅ぼされた。東植民地に生き残った人々との往来も、アイスランドからグリーンランド東部へ向かう古い航路が流氷に封じられたために絶えた(というふうに語られていた)。
2世紀を経て南方の航路からグリーンランドが再発見され、さらに約1世紀半近くが過ぎた。しかし東植民地に助けを待つ人々の消息はいまだ知れない。新たな植民も試みられていない。
自分はエイリークの後に続き、再び入植地を築こう。もしかつての東植民地にノース人の末裔が生きているなら捜し出し、キリスト教の信仰を守っているかどうかを確かめたい。彼らが旧来のカトリックのままなら、プロテスタントへの改宗を勧めよう。それがエデゲの望みとなった。

1711年、エゲデは必要な資金の調達を始めた。また旧植民地の探索と布教を時のフレデリク4世に願い出て、植民地建設の許可を得た。主にベルゲンの商人たちが出資してベルゲン・グリーンランド会社が設立され、王立ミッション・カレッジからも毎年300リクスダラーの補助金が約束された。会社にはグリーランドを統治するための権限が与えられ、武装、徴税、裁判権を持った。しかしオランダの手前、捕鯨や交易の独占権は見送られた(おそらくそれらこそベルゲン商人の望みであっただろうが)。

希望号を主とする3隻の船がベルゲンを出航したのは1721年5月2日だった。エゲデは13歳年上の妻ゲルトルードと4人の子供たち(2男2女)を連れ、ほかに入植者40人があった。荒天と氷塊の海を越えて船団はかのJ.デイヴィスゆかりのギルバート入り江(ヌープ・カンゲルルア)に入り、7月3日、バールス川のほとりに投錨した。原住民(イニュイ)たちに助けられながら、カンゲック島に小屋が建てられた。北緯64度にあるこの島をエゲデは希望(ハーブ)島と名づけ、ハーブ(ホープ)植民地が誕生した。

◆それから数ヶ月の間エゲデはノース人の末裔を探したが、出会ったのは原住民ばかりだった。狩猟の腕のない入植者たちは、船に積んできたもののほかは原住民から手に入れることの出来たわずかな食糧に頼って冬を越したが、多くが壊血病にかかり、翌年再び希望号が戻ってくると、ほうほうの態で帰国していった。エゲデは家族や少数の人々とともに留まった。翌 23年は食糧や必需品の補給に2隻の船がきた。本国ではそのための新税が設けられたのだ。旧植民地の探索に専心するようにとの国王の言葉とともに追加の援助金が与えられた。この夏エゲデは2隻の小船を仕立てて、 8月9日探索に出発、東海岸を目指した。

当時、グリーランドの地理は依然、16世紀のゼーノの流れを汲む、いささか怪しげな地図に拠って理解されていた。西植民地はグリーンランドの西岸に、東植民地は東岸にあると推測され、その間の往来は島を東西に貫く海峡を通じてなされていた、と考えられた。この海峡は1600年頃のメルカトルやホンディウスらによる地図ではフロビッシャー海峡の名で島の南端付近に示されたものだが、後のコルネリの地図(1690年)にはもっとあからさまに島を分断して描かれている。

(再掲) ホンディウスの北極地図(1606年)のグリーンランド周辺部。
@フロビッシャー海峡 Aラムリーズ入り江 Bデイヴィス海峡 Cギルバート入り江 
Dホープ・サンダーソン  Eローリー山、ウォルシンガム岬、ワーウィック・フォアランド
F a furious over fall (荒れ狂う逆波の海) Gフリースランド(架空の島) 
Hグロックランド

ゼノーの地図をベースにコルネリが作成した地図 (circa.1690) 
依然フリスランドは存在すると信じられ、グリーンランドにはフロビッシャー海峡が(誤ったまま)記入されていた。
フロビッシャーは最初にフリースランドに達し、次にグリーンランドに達したと判断されたためだが、
事実は彼が最初に見た陸地がグリーンランドで、次に上陸して金鉱を掘ったのはバフィン島であった。

 

エゲデの狙いは西岸を南下してこの海峡に入り、東岸に出ることにあった。旧植民地は海峡の東西に位置するはずだった。しかし海峡は見つからなかった。南下を続け、北緯61度を越えたあたりで湾曲した峡谷の奥に入り込み、そこでかつての植民地跡と思しい教会や石造りの住居の遺構に出合った。彼がカコルトク(白い、の意)と呼んだ土地(後のユリアナホープ)である。これこそが東植民地だったが、スクレリングに滅ぼされた西植民地の跡だと判断した。(カコルトクには1775年に居留地が作られた。現在は南グリーランド最大の町)
そして北緯60度20分、セルメソク島あたりまで南下を続けた。が季節はすでに遅く、迫る寒気と物資の不足とにおされ、ついに引き返さざるをえなくなった。
その冬エゲデは北方へも向かい、シシミウトから15キロ南にあるニピサット島(北緯66度48分あたり)まで足を伸ばした。ニピサット島は原住民たちが鯨を獲りに集まってくる場所で、ベルゲン・グリーンランド会社はここに交易所を設置した。(1726年にオランダ捕鯨団の焼き討ちにあって、翌年再建された。捕鯨基地も作られたが 1730年に放棄された。)

こうして日々を過ごすうちエゲデは原住民と積極的に関わり、彼らの言葉を注意深く学んでノース語との共通点を探した。病人の世話を引き受けたりして信頼を得たことが、やがて伝道活動に繋がった。島で最初の入信儀式は1724年に行われた。このとき洗礼を受けた原住民(子供)のうち二人は、キリスト者としてデンマークに連れられてゆき、その後、ツィンツェンドルフ伯爵の創始したモラヴィア兄弟団の運動に参与してグリーンランドに戻ったとみられる。

◆一方、植民地事業の方もなかなか軌道に乗らなかった。土地は期待していたほど肥沃でなかった。入植者は相変わらず生活物資を本国に頼っていた。交易による利益はあるかなきかで、数年経っても収支改善の見込みはつかなかった。フレデリク4世(1671-1730)は自ら差配して税投資を回収しなければ、と覚悟したようである。退役軍人のM.C.E.パールスをグリーンランド総督に任命して、1728年、数十人規模の植民団を送り込んだ。半数は軍人だった。5隻の船団は大量の建築資材や家畜や馬も運んできた。パールスは希望島対岸の本土に拠点を移し、「良き希望」(ゴット・ハーブ)植民地を拓いた。後のゴットホープ(現ヌーク)となる場所である。部下の反乱を鎮めた後、北方のアメルロク・フィヨルド(ジェームス・ホールが落命したところ)を東に通じる海峡と考えて、馬を使った横断を計画したが失敗した。立ちはだかる雪氷の山岳は馬にはまったく不向きであった。またフィヨルド周辺に鉱産資源を探したが、収穫はなかったという。
この冬、初めて越冬する人々の多くが壊血病に罹り、死者40名を数えた。新植民地は原住民の村に近かったので、怖れをなした彼らは村を捨てて北方のディスコ湾あたりに移住した。生き残ったデンマーク人の多くは翌年本国に去った。エゲデの長男ポールも教育の仕上げのためいったん帰国した。船は途中、東海岸からグリーンランドに接近を試みたが果たせなかった。
この年の4月25日、エゲデは再びアメルロク・フィヨルドから東岸へ横断する海峡を探しに出たが、やはり氷を突破することが出来なかった。後に製作させた地図にはこのあたりに海峡が描かれ、氷で閉ざされたとの注釈が添えられている。

エゲーデの著述に基づいて描かれた地図 (1747年)
@ゴットホープ (ギルバート湾/入り江:現 Nuup Langerlua の畔)
Aディスコ島 B島の西岸から東岸へ抜ける(フロビッシャー)海峡と考えられた水路。
「かつては通行可能とされていたが、今は氷に閉ざされている」とのコメントが書かれている。
Cフェアウェル岬 (デンマークではケープ・ファーベル)
東と西の海域には、「この沿岸は流氷と不動の氷の山があるため危険」とか、
「ほとんどの箇所が接近不能」、と書かれている。

◆1730年の秋、エゲデを庇護したフレデリク4世が逝去した。後を継いだクリスチャン6世はプロジェクトに見切りをつけて、今後は自力で入植地を経営するか本国に引き上げるか選ぶように命じた。1731年、パールスらは本国に引き上げた。エゲデは妻に励まされて留まった。子らと10名の同志も留まった。彼らには1年分の必需品が与えられた。成長した次男のニルスが交易活動を引き受けるようになったので、エゲデの心労は軽減された。しかし物資の不足はいかんともしがたく、肥沃なはずの東植民地も見つからず、先行きは暗かった。
1733年5月、本国から新たな知らせと共に船がきた。入植活動の継続を認め、年2,000リクスダラーの補助金が支給されるという。それはユトランドの商人ヤコブ・セブリンの下で新たな植民地を建設するための資金であった。船はまたモラビア兄弟団の伝道チームを3組乗せてきた。彼らはゴットホープから数マイルの場所に拠点、ニュー・ヘルンフート(主の守り)を作り、デンマークの伝道団と協力して活動した。その中にかつてデンマークに渡って戻ってきた原住民があった。その子が天然痘に罹っていたため、またたく間に集落という集落に病気が広がって、夥しい数の死者を出した(冬になるまで収まらず、2,500人が死んだという)。運命の皮肉にエゲデは天を仰ぐ思いであったろう。

1735年、長年彼を励まし支えたゲルトルードが亡くなった。エゲデは放心し、この地で自分が果たす役割は終わったと考えたようである。翌年の夏、娘たちと次男を連れて、妻の遺体を伴い、15年間留まったグリーンランドを去った。後事は戻ってきた長男のポールに託された。ポールはモラビア兄弟団を支援して現地語を教え、1736年から40年にかけてディスコ湾のクリスチアンハーブに伝道拠点を営んだ(1740年、ポールは眼病のためグリーンランドを去り、入れ替わりに次男のニルスがクリスチアンハーブの監督者となった)。

エゲデによって改宗した原住民の成人は2, 30人、洗礼を受けた子供たちは約百人あったという。コペンハーゲンに戻ると国王に謁見を許され、グリーンランド伝道学校の校長に任命されて、年金100リクスダラーを受ける身分となった。ゲルトルードの遺体は聖ニコラス教会の墓地に埋葬された。残りの生涯をデンマークに送り、「グリーンランドの使徒」と呼ばれた。1741年、ルター派のグリーンランド司教に任命され、1747年に原住民向けの教理問答集を完成させた。引退して晩年の数年間をファルスター島に娘2人と暮らし、1758年に亡くなった。なんとなくディーネセン(カレン・ブリクセン)の「バベットの晩餐会」のシチュエーションが思い浮かぶ。

コペンハーゲンのシティにある聖ニコラス教会と
エゲデ夫妻を記念する碑文

◆エゲデが始めた入植活動は、息子のポールとニルス、またセヴリンやモラビア兄弟団に引き継がれ、グリーンランド西岸各地に拠点が増えていった。最も南に置かれたフレデリクスハーブは1742年に開かれた。エゲデがフィッシャー・フィヨルドと呼んだ北緯63度の入り江の島には1754年に交易所が、4年後にモラビア兄弟団の第二の伝道所となるリヒテンフェルスが出来た。北方では1755年サッカートッペンに拠点が築かれ、1759年に良港ホルスタインボルク(現シシミウト)に居留地が作られた。前者はエゲデの次男ニルスによるが、彼はさらに北方にエゲデスミンデを築いた(1759年)。父を記念して命名したのである。セブリンの指図でディスコ湾にも拠点が設けられた。

グリーンランド交易はコペンハーゲン会社の手で続けられ、年3,4隻の船が往来した。デイヴィス海峡を猟場とするオランダの捕鯨船も毎年数隻は姿を見せて、しばしば入植者たちの頭痛の種となった。彼らが許可もなくさまざまな物資を持ち去ってゆくからであるし、原住民たちと交易をしてゆくからである。デンマーク人の交易所を破壊するなどの敵対行為も繰り返した。デンマークは植民地から数マイル以内へのオランダ船の進入を禁じたが、守らせられるかどうかは別問題だった。1746年頃まで、シーズンになると 40隻ほどのオランダの漁船や交易船がデイヴィス海峡に現れた。

オランダ捕鯨の第二黄金期は1721年がピークで全体で258隻が出漁したといい、1722年はデイヴィス海峡だけで137隻が活動した。しかし北米の捕鯨業が本格化して外洋操業を始めると、その勢力に翳りが差した。またイギリスも 1730年代以降、長年の夢だった捕鯨再開を画策し、独立戦争が始まると自国捕鯨にいっそうの力を注いだ(国が援助金を出した)。戦争で不安定な立場を余儀なくされたナンタケット島の鯨捕りがイギリス船に乗り組むようになったことが大きく、息を吹き返したイギリス捕鯨は 18世紀末には200隻前後の捕鯨船を送り出すほどになり、英米戦争(1812-15年)が終る頃まで繁栄を謳歌する。一方オランダは経済競争でイギリスやフランスの後塵を拝して国力を落とし、捕鯨産業は米英に押されて 1770年頃からはっきり衰退に向かい、 19世紀初に幕を下ろす。

デンマークは 1774年、王立グリーンランド貿易会社を設立。統治を一任し、交易を独占事業にした。そしてオランダ、イギリス、アメリカの密貿易排除に力を注いだ。とはいえ会社がグリーンランドで行った事業は統治というより、ただ原住民との交易に過ぎなかったとみられている。それでも恒久的な植民地が定着して、原住民に比べればわずかな人数ながら、デンマーク人が通年島で生活するようになったことは事実であった。エゲデの情熱はそれなりに実を結んだということになる。
なお、エゲデがカコルトクに発見した植民地跡が東植民地と判明するのは19世紀半ばのことである。

◆最後にグリーンランドの鉱産物について、エゲデが残した記録を簡単に振り返ってみる。銀鉱の島 補記2にすでに示したが、特に有用な金属資源が発見されたわけではない。
ただ、ゴットホープの南2マイルあたりの土地ではあちこちに緑色に着色した箇所が見られ(鉱脈のカンテラ、孔雀石だろうか)、おそらく銅鉱石があるに違いないと指摘しているし、原住民がまさに鉛の鉱石と思われる石を持ち込んできたこと、カラミンのような真鍮色の物質があることを述べている。
彼は遠征の途中で立ち寄ったある島で、幾分赤色の砂が混じる黄色い砂を採集した。ベルゲン・グリーンランド会社に送ったところ、出来るだけ沢山採取して送ってもらいたいとの指示を受けた。しかし島は2度と見つからなかったという。島への道筋に目印を残してあったが、強風に吹き飛ばされてしまったのである。
とはいえ、彼はこれに似た砂を各地で採取した。加熱すると赤色を帯びた。マーチン・フロビッシャーが大量にイギリスに持ち帰り、金を含むように見えたという鉱石と、あるいはデンマークの船団が1636年にコペンハーゲンに持ち帰った砂と、同じ種類のものかどうかは自分では判断出来ないと書いている。もっともこれらに対して彼が試みた精錬作業はいつも失敗に終わり、結局のところ、金や銀を含む鉱石を見つけることは出来なかった、とも書いている。その中には J.ホールゆかりの、アメルロク・フィヨルド周辺で採集した砂も含まれていたと思われる。
一方で水晶類、アスファルト、ある種の大理石に似た石材は各地に大量に見い出された。

(続く)


補記:
・原住民に伝道するにあたって、エゲデは聖書や祈りの言葉を彼らに理解できる対象に置き替えた。例えば、「日々のパン」は「日々のアザラシ」という具合に。
・エゲデはノース人の末裔が原住民に同化した可能性を考え、現地語とノース語との間で、類似した発音の語をいくつか指摘している。後世の学者はしかしこれらを偶然の一致とした。
・エゲデはグリーンランドについて博物学的な記録を残したが、なかでも、船より巨大な「大ウミヘビ」に遭遇した記事は有名である。後世、この生物は大王イカとみなされている。


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