チャールズ・ターナー・コレクションと新記載鉱物

先日、ブロシャン銅鉱の異称を調べていて、その原産地がウラルのメドノルジャンスカであったことに気づきました。記載は1824年。mindat ほかを見ると、自然銅やクジャク石に伴って産したものを A.レヴィ(レヴィ沸石に名が残る)が調べて、フランスの鉱物学者ブロシャンに因んで命名したとあります。銅山が再開発されて10年、ウラル孔雀石細工がまさに隆盛を見ようかという時期です。ロシアの孔雀石に心惹かれる最近の私には、おおっ!と思う余禄的知識でした。
でも、このオハナシにはさらにオクがあるんです。

レヴィが調べた標本がどんな経緯で彼の手に渡ったかですが、博物学の世紀に相応しく、標本商の活躍があったと考えられます。というのもこの標本はヘンリー・ヒューランド(1778-1856 Heulanditeに名を残す) が実業家チャールズ・ハンプデン・ターナー(1773?-1856)に提供したコレクション中のものだったからです。
ヒューランドは20代半ばには標本商として立ち、後に当代大物標本商の一人と目された人物です(大物とは、金満家を顧客に抱えて超級標本を専門的に扱った、というニュアンス)。
cf.No.449 ヒューランド石:輝沸石 
彼にはジェイコブ・フォルスター(1736-1806)という蒐集家の叔父があり、フォルスターが数十年かけて集めたヨーロッパ大陸産の標本の大部分は1806年に彼に遺贈されました。但しカタログを作って売却し、利益を遺族で分配することが指示されていました。自身コレククターでもあったヒューランドは、遺贈品を中核にさらにコレクションを充実させた後(価値を高めた後)、1820年にターナーと売買を約しました。その際、目録の製作をアルマンド・レヴィに委託したのです。

話が横道にそれますが、彼の扱う標本の品質は優れたものでしたが、値段も相応なものでした。後年の例ですが、1843年の販売カタログには、グミョーシキ産孔雀石の切断片があり、曰く「英国においてもっとも巨大な孔雀石標本、100ポンドにて。1800年にはペテルブルクで 500ポンドの評価が与えられたもの。1808年にロンドンで300ポンドのオファーを受けたが応じなかった」とあります。500ポンドは話半分にしても、19世紀中頃の100ポンドは今日の3〜500万円ほどの使いでがあったそうです。カタログをみると特級標本はだいたい10〜数十ポンドの値付けがされていますから、現代のいわゆるコノシュアー(connoisseur)・ディーラーが数千ドルクラスの標本を
扱っているのに似たポジションだったのでしょう。

ちなみにシベリア産の孔雀石は1800年頃には極めて珍しい貴重品でした。話半分と書きましたが、1808年に300ポンドで打診があったというのも、まるきりハッタリではないでしょう。それが1814年頃からメドノルジャンスカに銅山が開かれて孔雀石を多産するようになり、1835年には数十トンといわれる巨塊も出ます。件の販売カタログが発行された頃にはロシア産孔雀石の標本相場は半世紀前の数分の一に下落していたと考えられます。すでに供給が衰えたグミョーシキ産となればプレミアがつきそうな気がしますが、グミョーシキ産とメドノ産との価格を截然するほどのシリアスな顧客のあてはヒューランドにもなかったのでしょう。(それでも上級車が1台買える値段ですが、フォルスターの例で分かるように、資産家の博物コレクションは動産をも兼ねていました)。

話は戻って、レヴィが調べた標本は1820年までにヒューランドが買付けたものだとすると、メドノルジャンスカが開かれて数年のうちには博物標本クラスの孔雀石塊が掘り出され、かつ欧州の標本取引ネットワークに乗っていたとみてよいことになります。

アルマンド・レヴィ(1795-1841)は、1816年にパリの高等師範学校を卒業した人で数学科学の学位を取得しています。数学の教授職で身を立てる望みを持っていましたが、それがかなうのは 
1828年以降のことで、やがて母校でも数学を講義するに至るのですが、その間に鉱物学で生計を立てていた時期があります。
卒業後、フランス本国の大学でポストを得ることに見切りをつけた彼は1818年、植民地のレユニオン島(マダガスカル東方の島)の学校に赴任すべく旅立ちますが、船は大陸を離れて間もなく
プリマス沖で遭難します。それから2年ほどイギリスで数学を教えながら糊口をしのぎましたが、1820年に標本商ヒューランドの知己を得て、コレクションのカタログ製作を託されます。学生時代に学んだ R.J.アユイの結晶学の素養を認められたのでした。
こうして彼は数年の間ロンドンに在り、ゴニオメータを駆使して標本の結晶面角を測定し、精密な結晶図譜の作成に精力を傾けます。1828年にリエージュで教授職を得たのを機に作業から離れますが、ヒューランドが彼に支払った対価は都合 2,000ポンドに上ったといいますから、たいしたものです。
ちなみにその後ヒューランドは親友H.J.ブルックに諮り、 中断された図譜作成を1832年から再開して、完成をみたカタログ3巻本は1837年に刊行されました。箔のついたコレクションは後にH.ラドラム(1824-1880)の手に渡ります。

レビィはターナーのコレクションを調査し、結晶図を書き上げる過程で新種の鉱物をいくつも見出しました。ブロシャン銅鉱はその一つですが、
ほかに、
Forsterite (1824:コレクションの基盤をなしたフォルスターに因む)
Babingtonite (1824:アイルランドの鉱物学者 W.バビントン(1757-1833)に因む)
Roselite (1825:ベリルン大学のG.ローゼ(1798-1873)に因む)
Brookite (1825: イギリスの結晶学者 H.J.ブルック(1771-1857)に因む)
Phillipsite (1825: イギリスの鉱物学者でロンドン地質学会の発起人 W.フィリップス(1775-1829)
Beudanite (1826: フランスの鉱物学者 F.S.ビューダン(1787-1850)に因む)
が挙げられます。

また後には亜種とされましたが、次の鉱物も新種として報告しました。
Turnerite (1823: もちろんコレクションの主ターナーに因む。後にモナズ石の一種)
Humboldtite (1823: A.v.フンボルト(1769-1859), 後にダトー石の一種)
Bucklandite (1824:イギリスの地質学者 W.バックランド(1784-1856), 後にアラナイトの一種)
Herschelite (1825:イギリスの天文学者 J.F.W.ハーシェル(1792-1871), 後に菱沸石-(Na))
Konigite (1826:鉱物学者C.D.E.ケーニッヒ(1774-1851), 後にブロシャン銅鉱の一種)
Mohsite (1827: ドイツの鉱物学者 F.モース(1773-1839), 後にチタン鉄鉱の一種)
といった具合です。

レヴィが恩顧・知己を得た人物や当時の有力な地質・鉱物学者たちに次々と献名の誉をふるまって報いたことがわかります。(ちなみにレヴィは1826年から28年にかけて、ロンドン地質学会の評議員に名を連ねる栄誉を得ました)
レビィはまた、
ユージアル石やワグナー石、ユークレースの結晶形の詳細を初めて記述しています。コレクションの主の(事実上のスポンサーといえる)ターナーの名が種名に留まらなかったのはお気の毒な気がします。 (2015.9.21)