635.淡紅銀鉱   Proustite  (ドイツ産)

 

 

Proustite 淡紅銀鉱

淡紅銀鉱 −ドイツ、ザクセン、エルツゲビルゲ、オウベルシュレマ産

 

ハルツ山地の懐、ゴスラーにあるランメルスベルク鉱山の話をひま話に書いたが、中世期に神聖ローマ帝国の版図となったドイツ、オーストリア、ボヘミアといった中欧の山岳地帯にはアルプス造山活動の余波を受けた金属鉱床が発達していた。銀、錫、銅、鉛、コバルトなど、さまざまな金属を産するため、帝国の初期から鉱山が開かれ、ヨーロッパの鉱業を長きにわたって牽引した。
10世紀にはハルツ山地の銀山開発が始まっているし、13世紀頃にはマンスフェルト地方で銅鉱を掘るようになった。南方のアルプスや東方のシレジア地方でもほどなく銅の採掘が始まり、錫や鉛も掘られた。
生産量が増大した15-16世紀には各地に大きな鉱山町が出来ていた。例えばボヘミアのヨアヒムスタールは、1525年には8000人以上の鉱山労働者が集まる町であった。鉱石の採掘や製錬業は、多くの場合その地方の領主の経営で行われたが、鉱産物の流通・商取引はやがて商業財閥の手中に収まっていった。
南部ドイツのアウグスブルクに興ったフッガー家は後に大富豪として知られるが、15世紀末に鉱産物市場への新規参入を果たすと地方領主と結んでまたたく間に勢力を拡大した。マインツの大司教アルブレヒトに莫大な資金を融通し、大司教の後押しで神聖ローマ帝国皇帝に選出されたカール5世を支持して絶頂期を迎えた。全ドイツはもちろん、ネーデルランド、デンマーク、イタリア、スペインに拠点を開いて銅市場の独占を図ったフッガー家には莫大な利益が転がり込んだが、それはまたドイツ鉱業のヨーロッパ世界席巻をも意味していた。

名にし負うザクセン地方の鉱山町は、12世紀の終り頃、戦乱で荒廃したハルツを離れた鉱夫たちが、新しく銀鉱の発見されたエルツ山地の麓、フライベルクを目指したのが始まりで、以来、ザクセン町はドイツ鉱業の心臓としてその地位を保ち、ドイツでもっとも豊かな地方と言われた。
フライベルクにはさまざまな銀鉱石が出た。淡紅銀鉱もそのひとつである。

淡紅銀鉱は Ag3AsS3 の組成を持つ銀と砒素の硫化物で、硫化金属鉱石には珍しく、金属らしい色あいでもないし不透明でもない。明るい緋色〜赤色のこの石は、銀とアンチモニーの硫化物、濃紅銀鉱と並んで「ルビーシルバー」と称される。両者は同じ結晶構造を持つが、砒素とアンチモニーの交替は限定的で、完全な固溶体をなすわけではない。
淡紅銀鉱は濃紅銀鉱よりも産出が少ないが、銀鉱脈にしばしば共存して見られる。微小な結晶は透明感があり、結晶面の艶めく光沢と色合いが好ましい。
ちなみに濃紅銀鉱の学名 Pyrargyrite (1831年記載)は「火の銀の石」を意味し、淡紅銀鉱 proustite (1832年記載)はフランスの化学者 ジョセフ・ルイ・プルーストに因む。プルーストの没年は1826年だから追贈ということか。
記載はほぼ同時期だが、その以前からルビー・シルバーが鉱夫たちの間で知られていたことは疑いない。もっとも、濃紅銀鉱も淡紅銀鉱も、あるいは火閃銀鉱 Pyrostilpnite や硫砒銀鉱 Smithite 、ミアジル鉱 Miargyrite なども特に区別されることなく、辰砂に似た血赤色の銀鉱石として扱われていただろうと想像される。

画像の標本はフライベルク鉱山学校の収蔵品から市中に出た古いもの。この学校は1765年にザクセン候によって設立された。シェムニッツの鉱山学校に次ぐ歴史を誇り、鉱物学史上、あるいは新元素発見史上の、さまざまなエピソードに彩られている(たとえばゲルマニウムの発見⇒No.518)。また開校以来、標本商としても活動し、多くのコレクターに欧州産標本を提供したことでも知られる。
オウベルシュレマはコバルトやビスマスが掘られた土地で、二次大戦後にはソビエトの手でウラン鉱の採掘も行われた。ベクレルが放射能を発見した19世紀の終りから20世紀初にかけて、この新しいエネルギーを健康に役立てようとドイツ各地でラドン・ラジウム泉のスパが流行したが、当時のオウベルシュレマはラジウム温泉の保養地として有名であった。飲用に供された湧水はきわめて強い放射能を示し、治癒効果が高いと考えられた。

cf. No.67 自然銀 追記

Native Bismuth 自然蒼鉛(ビスマス)

ビスマス −ドイツ、ザクセン、シュレマ、ハンマーベルク産

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