839.リューコフェン石 Leucophanite (カナダ産)

 

 

Leucophanite

リューコフェン石(レモン色・板状結晶)、セラン石(サーモンピンク色)
- カナダ、ケベック州モン・サン・チラール産

 

ハンス・モルテン・トラーネ・エスマルク(以下ハンス)は、地質・鉱物学者イェンス・エスマルク(1763-1839)の子で、1801年にデンマーク=ノルウェー(1537-1814)の鉱山町コングスベルグに生まれた。母方の祖父にデンマークの著名な動物・鉱物学者モルテン・トラーネ・ブルニッヒ(1737-1827)があり、ミドル・ネームにその名を継いだ。エスマルクの家系は学者肌だったようである。ハンスは美術を勉強する傍ら、父から化学、鉱物学の手ほどきを受けた。その後、経済的な事情のため神学で身を立てることとなったが、自然科学への興味は生涯続いた。

1825年に聖職者試験にうかり、翌年アイダンゲの礼拝堂付牧師を拝命して、10km ほど南にあるブレヴィクに居を与えられた。25歳である。薄給職ではあったが仕事に精勤して、ほどなく町のあらゆる階層の人々の敬意を集めるようになった。当時のブレヴィクには医者がなかったので、司祭を助けて医療にも携わった。とはいえ田舎町のこと、自然科学の研究に費やす時間もまた十分にあったのだ。
ハンスは1829年に結婚して8人の子を持った。生活は苦しかったという。ブレヴィクを離れずに出来るより高収入の役職を求めたが、かなわなかった(ベルセリウスにも推薦状を書いてくれるよう依願している)。競争相手たちは「神に仕えるよりも博物学にうつつを抜かす輩」と彼を中傷し、上役の覚えは必ずしも愛でたくなかったようだ。とはいえ町の人々にはたいへんに慕われ、1837年にはブレヴィク市長に選ばれて町の発展に寄与した。
1850年にラムネスの教区牧師を引き受けてブレヴィクを去るまで、ハンスは 25年間をこの町に過ごし、町の南東に広がるフィヨルドに浮かぶ島々を巡って露頭の観察を行った。岩石標本を採集して調べたり、鉱物学者に標本を提供したり、彼らを産地に案内したりした。
ラムネスで20年間奉職した後、1870年にクリスチャニア(後のオスロ)に出て、自然科学を学ぶ機会を得た。やがて健康を害し、1882年に世を去った。

ブレヴィクに赴任した当初、ハンスは採集した標本をクリスチャニアにいる父のイェンスに送って意見を求めることが多かった。イェンスは面白そうな標本があるとヨーロッパ各地の鉱物学者に送ってさらに意見を求めた。1828年頃ハンスが発見した黒色の鉱物(トール石)は、イェンスを介してベルセリウスに届けられ、新元素トリウムの発見につながった。
同じ頃、モーラーに送られた鉱物は方沸石に伴って放射状の集合結晶をなすのが特徴で、放射石 Radiolith と名づけられた。今日のソーダ沸石である。ブレヴィク周辺(ランゲスンツ・フィヨルド)にはアルカリ火成岩中に生じたペグマタイト鉱物や、これら(や玄武岩)に熱水が作用して沸石化した鉱物がよく見られた。

やがてブレヴィクに珍しい鉱物が出ること、自然科学を愛好する地元牧師のことが広く知られて、ハンスには鉱物学者たちと直接交流する機会が増えた。ドイツの A.J.エルドマン(1814-1869) はその一人で、1840年のエルドマンの報告には、エスマルクが発見した種として Praseolithe (ブレヴィク近くのブレッケ産)があり、これに伴う種としてエスマルク石 Esmarkite が記されている(ベルセリウスがハンスに献名したもの)。ただ今日ではいずれも種として認められていない。後者は後に、ヒーシンゲルがファールン鉱山に発見したファールー石 Fahluuite(1808年) と類似の菫青石風化物と分かった。
またフィヨルド湾口のローブン島(レーヴェ島)からエスマルクが発見したリューコフェン石の分析値が示され、リューコフェン石に伴う新種としてエルドマンが命名したモサンドル石が示されている。この2つはどちらも種として残っている。

ハンスはまた後にストッコ島で発見した暗褐色の鉱物をエルドマン石 Erdmannite と名づけた。1853年にベルリンが報告している。ブレガー(1890年)はこれを黒セル石(ブレガーが1887年に記載)と Homilite (ストッコ島原産 1860/1876年)との混合物とした。19世紀半ばにはエルドマン石と標識された多くの標本が出回ったが、たいていジルコンの風化物であったとみられている。
当時はさまざまな混同があり、イングストレムはストッコ島産の暗黄緑色の鉱物をエルドマン石と同定したが(1877年)、後世にはガドリン石と Homilite との中間組成物だったとされた。

ハンスがリューコフェン石を発見したのは 1829年頃とみられている。塊状の物質で3方に明瞭なへき開があり、疑似的に四角柱状のへき開片をなした。ある角度から見ると白色のシラー(干渉による反射閃光)が観察されるため、ギリシャ語で「白く見える」を意味するリューコフェン Leucophan と命名した。今日では Leucophanite と改称されている。ベースの色調は淡い濁った緑色から濃い酒黄色だが、薄片にすると無色だった。熱すると青い燐光を放ち、わずかに静電気を帯びた。ホウ砂球反応は紫色。曹長石、霞石、イットロタンタル石、モサンドル石などを伴って産した。
組成式 NaCaBeSi2O6F、ベリリウムを成分に持つ。黄長石(メリライト Melilite)に関連のある鉱物で、カルシウムを置換して痕跡量の希土類元素(主にセリウム)を含む。結晶構造は直方晶系(斜方晶系)とみられている(三斜晶系との報告もあるが現時点では否定的)。

かなり珍しい鉱物ながら、19世紀にはローブン島はじめランゲスンツ・フィヨルドの各地に産し、まれに4cmに達する結晶が出たという。双晶には11cmをこえるものがあった。しかし多くは長石に似た白色、淡黄色、黄緑色の不透明の塊りだった。
今日出回っている標本はほぼカナダのモンサンチラール産である。リューコフェン石として最良の産地と折り紙がついている。カーレトン石の項(追記)で触れたジル・エノー氏が 1980年代に多数の標本を市場に披露したので、わりと知名度が高い。上の画像はセラン石の上にレモン色のリューコフェン石が載ったカラフルな標本。さすがはモンサンチラールだと思う。

cf. No.840 メリフェン石

補記:父のイェンス・エスマルクはダトー石の発見者として知られる(原産地はアーレンダルの鉄山、1806年)。J.F.L.ハウスマンはこれにエスマルク石 Esmarkite を提唱したが定着しなかった。
エスマルク石の名は今日種名として残っていないが、2015年にハンスエスマルク石 Hansesmarkite が新たに記載された。美しい黄色の、ニオブを含む多水和酸化物で、原産地はラルビク、ツヴェダレンの採石場。 cf. No.836 (ランゲスンツ・フィヨルドの地理図)

補記2:ハンスの息子の一人、アクセル・トラーネ・エスマルク(1836-1881)は父や祖父と同様、知名の鉱物収集家となった。娘のビルギッテ・エスマルク(1841-1897)は自然研究者として知られ、軟体動物の権威とされた。ハンスの鉱物コレクションは後にノルウェー北部のトロムソ大学博物館に寄贈された。

補記3:リューコフェン石(リューコフェナイト)に似た名の種に リューコフェニサイト Leucophoenicite、リューコスフェナイト Leucosphenite などがあって紛らわしいが、もちろん全然違う鉱物である。

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